儘、死に添える
それは絵画のようだった。いや、そう言っても差し支えなかった。仄かな風圧にやわやわと揺れるそれは、白く塗り固められた壁にただ立てかけられたあれらよりも、よほど美しく、眩く心を打つものだった。
「もう、紅葉かぁ」
「秋だからね」
彼の呟きの真意を深くは考えないようにしつつ、私は無難で平和的な答えを返す。広く白い部屋には壁が四面あり、そのうちの一面に大きな窓が行儀よく並んでいた。その一面に張り付くように、大きな木々が所狭しと聳え立っている。ベッドから動けない病人が、せめて自然を楽しめるようにとの配慮だろうか。ならばまず、常に鼻をつく消毒液の臭いを和らげてもらいたいものだ。
「あれ、何ていう話だったかな」
「んー?」
「窓から見える葉っぱの、最後の一枚が落ちたら、自分は死ぬって言ってるやつ」
視線を窓の外へと向けたまま、息苦しそうに彼は尋ねた。今日は調子がいいらしく、いつもの呼吸器は外されていて、けれど鼻を通る管はそのままで、結局彼は息苦しそうだった。ほんの少し手の力を緩めると、パラパラと乾いた音を立て、言葉の羅列が視界を流れていく。
それほど興味のない本を軽く弄びながら、私は静かに考えを巡らせた。彼が言ったその話は確かに知っているが、あえて誰かから教えられたわけでもなく、垂れ流すラジオから得た情報のように曖昧だった。おぼろげなあらすじはわかっていても、タイトルまでは思い出せない。なので正直に答えた。
「タイトルは忘れた」
「………うん」
一拍ほど言い淀んだ彼に、もしかして自分の返答が深い意味で取られてしまったのではと一瞬思った。けれどそれならそれでいいだろうとも思ったので、手元の本へ注ぐ視線をあげることはしなかった。所詮言葉で伝え切れるものは表層のイメージだけなのだ。だったら、彼が好きなように受け止めればいい。
「あの話の、さ」
「?うん」
「主人公の、女の子は…きっと僕と、同じものを見ていたと、思う」
「そうだね。病室から窓の外をね」
「そうじゃないよ、それじゃない」
彼はとても息苦しそうに、けれどこれが最後だと言わんばかりに必死で言葉を紡いでいた。陽の光は相も変わらず彼を照らしていて、そう、窓の外は穏やかに晴れていて、涼しげな日差しが色づく葉を優しく撫でている。彼の心臓に合わせて鳴る機械は規則正しく空気を掻き混ぜ、一瞬一瞬を切り取るかのように冷え切っているというのに。まるで部屋全体が立体的な絵画になってしまったかのようで、私まで息苦しさが腹の底に溜まって、だから、彼の顔は見ないでおこうと思った。目を合わせることが、ほんの、ほんの少しだけ怖かった。
「きっと、同じ、だよ。結末は、違ったと、して、も」
私は何も応えなかった。彼もきっと、望んではいなかった。言葉はとても重いもので、空っぽの方が身が軽くなる。たまたま私が傍にいて、だからただ、それだけの理由だったのだ。すべてを吐き出そうと、彼なりの本能がそうさせたのだ。
きっとそうだ、と、私はこのやり取りの翌日に納得した。彼が窓から飛び降りた、と聞いた、その時になってようやく。
「………そうですか」
顔色ひとつ変えずそう答えた私に、看護婦は怪訝そうな顔をした。彼女にはどうやら、私が彼と大の仲良しに見えていたらしい。
しかしそれは誤りだ。私は、彼の友人でも恋人でも家族でもなかった。何でもなかった。ただ、同じ空間に同じ時に、たまたま居合わせただけの、ちょっとした通りすがりのような関係だった。病院とはそういうところだ。だからこそ何も気負うものがなく、好き勝手に言葉を吐き出せた、ただそれだけだった。
彼の顔を思い浮かべようとしたが、どうやら既におぼろげだ。そういえば自分はあまり彼の顔を眺めなかった、と今更思い至る。彼と交わしたのは視線ではなく会話ばかりで、仕方がないから彼と交わした数少ない会話を記憶の中から手繰り寄せた。やはり一番鮮明なのは、一番近しい昨日の記憶だ。穏やかな日差し。鮮やかな紅葉。パラパラと乾く音。彼が朽ちていく音。
彼はあの物語の少女と、同じものを見ていたのだろう。冬に向かう世界。散り落ちていく木の葉達。日差しは日に日に弱まっていき、そこに何らかの終焉を感じ取ったとしても、それは仕方がないことのように思う。私は彼の友人でも恋人でも家族でもなく、ただの同類だった。だから彼を励ますことも慰めることも、受け入れることもできないし、する気もない。ただ、ひとつだけ、ほんの些細なことだけれど、どうしても気になることがひとつだけ、あった。
彼に与えられていた個室よりは若干手狭な、自室の窓から外を眺める。頬を撫でる風は乾燥し、冬の香りを柔らかく運ぶ。大きく開け放した大きな窓枠に手をかけて、循環する空気を肌で感じた。穏やかな日差しは、木の葉を剥がれた木々を優しく照らしていた。
彼は、この病院から出たことがなかった。だからきっと、あの窓から眺めていた景色が、彼の世界のすべてだったのだ。季節が移り変わり、鮮やかさと仄暗さを幾度も繰り返すだけの世界を、彼は死ぬ直前まで淡々と眺めていた。興味のない絵画をただ視界に収めるように、何の感慨も抱かずに、それが世界のすべてだと信じたまま、彼は窓枠に手をかけたのだろう。
だから、どうしても気になるのだ。彼は本当に、そう信じきったまま、死ぬことができたのだろうか、と。
「…いっぱい、辛かったもんね。最後ぐらい、安らかであってほしいよね」
彼は世界への絶望と失望を、抱き締めたまま落ちていけただろうか。最期の最後にベッドの上からは見えなかった、青く広がる空で包まれたりはしなかっただろうか。世界は自分が思っているよりも、ずっとずっと広がっていて、胸をうつ美しさがたくさんあるのだと、知ることはなく死ねただろうか。
「まさか希望なんて、抱いたまま落ちるなんて、あんまりだよね?」
ひとりぼっちの病室は、彼が消えた世界と同じように凪いでいて、問いに応える声などありはしない。白に包まれた世界から眺める外は、鮮やかさを急速に失っていき、やがてこの部屋のように白に染まっていくのだろう。その後にまた鮮やかな色で彩られると、わかってはいてももう、彼にはそれに耐えうるだけの希望は残っていなかった。私にすべてを吐き出して、空虚なまま落ちていった。そうであってほしかった。もうどうにもならない、死へと落ちていくその最中に、心の奥底から希望が湧き上がるなんてあまりにも残酷過ぎるから。
嗚呼、彼の顔を思い出せない。息苦しさが喉までせり上がる。目を細め手に力を込めれば、固い感触が肌へと溶け込んでいく。握り締める窓枠は穏やかに冷たく、風は穏やかに優しく、眩しさと相まってただ、吐き気がした。
儘、死に添える
( どうか彼の死が、絶望に塗れたものでありますように )