【72】《定理所有者》
「《定理所有者》……お前が?」
前にユーディアが言ってた。
《定理所有者》とは『世界の理から外れた者』の事だと。
ユーディアは静かに頷く。
「まずは……座ろう。と言っても、私の席はもう無いが」
そう言って、いつも食事をしていた机を指さす。かつては椅子が二つ並んでいたはずの場所には、今は俺が使っていたものだけが残されていた。
俺は机に近づき、コートを椅子の形に変えて腰を下ろす。
「そっち使えよ」
「……助かる」
ユーディアも席についたところで、俺は本題を切り出した。
「《定理所有者》ってことは、《定理技能》を持ってるんだよな?どんな技能なんだ?」
「……《無名讃歌》だ」
「は?それが?確かに便利な技能だとは思ってたけど……《定理技能》って、常識を覆すほどの能力を持つ技能なんだろ?」
《無名讃歌》はよくお世話になっている技能だ。
攻撃を交わしたり、岩をすり抜けたり、身分札キャンセルをしたりと、俺も欲しいくらいの高品質技能。
だが、それが“常識を覆す”かと問われれば、どうしても腑に落ちない。
「《無名讃歌》がどんな能力なのか、君はまだ知らないだろう」
「知ってるよ。前に、“存在を薄くする”って言ってただろ?」
この世界に来て間もない頃、領主邸から逃げ出す際に、ユーディアがそう説明していたのを覚えている。
「確かに、そう伝えたな。だが……細部が違う」
ユーディアはゆっくりと言葉を選ぶ。
「あの時、私は『簡単に言えば、世界から存在感を薄めることができる』と言った。だが私は、この技能の本当の能力については、一度も話していない」
それを聞き、息を飲んだ。
《無名讃歌》の能力は“存在を薄める”以外に何があるんだ?
「今までアルノー君が見てきた《無名讃歌》は、本来の効果を魔力で意図的に弱め、それを応用したものに過ぎない。攻撃をすり抜けることも、姿を消すことも、身分札を見せ忘れさせることも、そして……記憶を消すことすらもな」
淡々と語られる内容の重さに、背筋がじわりと冷える。
「……じゃあ、本当の能力はなんなんだよ」
問い詰めるように言うと、ユーディアはわずかに目を伏せた。
そして、逃げ場を失ったように口を開く。
「――存在の“消滅”だ」
消滅。
あまりにも物騒なその言葉に、思わず言葉を失う。
視線を向けると、ユーディアは暗い表情のまま、どこか怯えるように視線を逸らしていた。
「《無名讃歌》によって消滅したものは、最初からこの世に無かったことになるのだ。そして、消えたことによる“空白”は、世界によって最も違和感のないように修正がされる」
無かったことになる?
世界によっての修正?
「そんなの、ありえるはずが……」
「君もたった今見てきただろう?修正された世界を」
それが……俺の記憶と、現実の乖離だと?
でもそれが、1人の人間が持つ技能によって起こった事なんて……とてもじゃないが、信じ難い。
というか、ユーディアが何故そんなことをするのか分からない。
「なら、なんでそんな技能を使ってまで、自分の存在をミレアスから消したんだよ。せっかく帰ってきたのに誰もお前を覚えてないとか……そんなの悲しいだろ」
「違うのだ、アルノー君」
ユーディアは憂いを込めた瞳を向ける。
時折ユーディアが見せていた……悩むような視線。
「私は……完全に《無名讃歌》を制御出来ている訳ではない」
「……は?」
「今の私は、勝手に《無名讃歌》が常時発動しているようなものだ。私がどこに居ようと関係ない。私の意志とは無関係に、私が居たという“痕跡”をこの世から綺麗に消し去ってしまう」
ーー世界から存在を消滅させる能力を……制御出来ていない?
そのせいで、ユーディアに関することが、街や人の記憶から消えていたのか?
「《無名讃歌》の影響で、【師弟契約】を結んだアルノー君以外の人には、私の顔を認識すら出来ない。1日も時間が空けば、私と会った事など綺麗さっぱり忘れられる」
ユーディアが“顔を覚えられにくい”のではなかった。
そもそも――覚えられないのだ。
領主邸から逃げ出したあの日のことを思い出す。
「私の顔が“見えて”いるのかね?」と、ユーディアは確かにそう言っていた。
あの時から既に、ユーディアは他者から認識されない存在だったのだ。
「私が関わった事象、記憶、物、環境、理すらねじ曲げて消してしまう。クラリス婦人のティーカップも、“私が割った”事実が消された結果、“ティーカップは割れなかった”ことになったのだ」
不可逆であるはずの現実さえも書き換え、ユーディアという存在の痕跡を徹底的に排除する。
その力が、制御出来ていないだって?
「な、なぁ、それって、モノ以外も消されるのか?」
モノ以外。
つまりは“人間”の事だ。
「……私と深く関わった者ならば、消える対象になるかもしれない」
「深くって……弟子の俺は?」
「恐らく…………対象に入る」
その一言で、血の気が引いた。
ユーディアに助けられ、ここまで生き延びてきた。
その全てが――なかったことになるとしたら?
どこまでが消える?
出会う前か?助けられる前か?
それとも――最初から出会っていなかった世界になるのか。
もしそうなれば、俺はとっくに処刑されている。
あるいは――
俺という存在そのものが、この世から消えるのかもしれない。
――それは、死よりも恐ろしい。
気づけば、指先が微かに震えていた。
「……そうならないように、気をつけてはいるが……」
その確約は出来ない。そう続けたかったようだが、押し黙ってしまった。
沈黙に耐えられず、俺は震える声で尋ねる。
「そもそも……《定理技能》って、なんなんだよ。なんでそんなこと出来んだよ」
ユーディアは少し息を吐いた後、淡々と答える。
「《定理技能》とは、世界の常識……『理を定める』ことが出来る。その者の持っている能力によって出来ることは限られているが……《定理所有者》が“空は黄色い”と定めれば黄色くなり、“人に目が3つある”と定めれば、その日から人間の顔には目が3つ生まれる」
訳が分からない。
それは人に許された力ではない。
「そして何よりーー誰もその変化には気がつけない。不思議にすら思わない。以前からそうだったと言うように、当たり前のこととして受け入れられる」
「そ、そんなの、技能じゃない」
「そうだ。技能という枠組みに収まらない。技能と名が付くが、人間の都合でそう呼んでいるだけだ。勝手に世界を作り替え、人々の常識を上塗りする。それが、《定理技能》だ」
世界を作り替える。
そんなの……あまりにもスケールが違いすぎる。
記憶の操作や、精神干渉なんてレベルの話じゃない。
魔法なんて言葉じゃ、片付けられない。
ーーもしそれが本当なら、それは神の御業だ。
無意識に常識を書き換えられ、世界から消滅させられる力。それをユーディア本人は制御出来てない。それどころか、ユーディアと深い関わりがある俺自身が《無名讃歌》の気まぐれでパッと消えてしまう可能性がある。
背筋がゾッとする。
これまで当たり前のように隣にいたユーディアが、
今は――人間とは別の“何か”に見えた。
「……だからこそ、《定理所有者》は国に管理されるのだ。世界を作り換えられないように、自由と権限を限りなく絞り、情報を選別し……技能を使わせないような教育をされる」
確かに、それなら管理もしたくなる。
ポン子の能力も相当なものだったが……ユーディアは、それを遥かに上回る。
なにせ、《無名讃歌》で消されたものに対して、誰も違和感すら抱けないのだから。
……もしユーディアが不殺を信条とする怪盗ではなく暗殺者だとしたら、どれ程の人が消されただろうか。
……もしユーディアがこの世界に強い憎しみを持っていたら……この世界は、まだ存在していただろうか。
「ーー今なら分かるだろう?未管理の《定理所有者》が、どれほど恐ろしい存在なのか」
咄嗟に、言葉が出なかった。
じとり、と背中を嫌な汗が伝い、手先が震える。
生唾をゴクリと飲み込み、息を吐く。
……落ち着け、大丈夫。
ユーディアは、ユーディアだ。
未知の力を持った、化け物じゃない。
誰よりも……俺がその事を知っている。
「ーーお前は……ユーディアは、未管理の《定理所有者》なんだな?」
その言葉にーーユーディアは、静かに頷く。
そして、怯えるように俺をチラリと見た。
「私のことが……怖くないのか?」
「怖くない……って言ったら嘘になる。でもさ、お前がその力で何でもかんでも消すような奴じゃないことくらい、分かるよ」
制御出来ない、消滅の力。
そんなの、怖いに決まってる。
けれど、これまで何度も死にかけた場面で、ユーディアは《無名讃歌》で敵を消し飛ばすことはしなかった。
力に溺れて、障害を消し去るような真似は、一度もしなかったのだ。
その分別がつくなら、コイツは大丈夫だ。
「その力は確かに怖いけどさ……俺よりも、その力を持ってるお前の方が、よっぽど怖いだろ。いつか誰かを消しちまうかもしれないってさ。なのに……ちゃんと話してくれて、ありがとな」
俺の本心をそのまま伝えると、ユーディアの震えがようやく収まった。
「……ありがとう、アルノー君」
安堵するように、ゆっくりと息を吐く。
そして、体の力が抜けたように、机に突っ伏した。
「……この話をしたのは、君が初めてだ」
「お前の師匠にも?」
「ーーあぁ」
ずっと誰にも打ち明けられず、心の奥にしまっていたのだろう。俺に話したおかげか、少しユーディアの顔色が良くなった気がする。
「それで……俺が消えない為に気をつけることはあるのか?」
自分の身の安全のためにも、対策があるなら知っておきたい。
「ひとまず、私から長期間離れなければ問題はないだろう。……とはいえ、この技能については、私自身もまだ分からないことが多いがな」
「分からない、か……。なら、分かっていることだけでもいい。制御できずに消してしまう対象に、何か条件はあるのか?」
そう尋ねると、ユーディアの表情が、再び沈んだ。
「《無名讃歌》で消される対象は未だ不明瞭だが……ひとつだけ、傾向がある。私に対する“世間の認識度”が低いものから、優先的に消えていく」
「認識度……?どういう意味だ?」
「簡単に言えば、私がどれだけ強く世間に影響を与えたか、だ。怪盗として大勢の人間に印象を残すような行為は消えにくいが……数人と交わしただけの個人的な関係は、あっさりと消える」
ユーディアは、自嘲するように小さく笑った。
「身分札を作れば、数日で文字が消える。宿に泊まれば、翌日には無断宿泊扱いで追い出される。文字を教わろうとしても、その事実ごと忘れられる。友人になれそうな相手も、翌日には赤の他人だ。……愉快だろう?」
「……」
言葉が、出なかった。
ユーディアほどの男が、
何故、ホームレスのような生活をしているのか。
何故、文字の読み書きを勉強しなかったのか。
何故、俺以外の友人を作らないのか。
しなかったわけじゃない。
……出来なかったのだ。
《無名讃歌》が、それを許さなかった。
ーーユーディアは、孤独を強いられてきたのだ。
俺は、無意識にユーディアの魔力へと意識を向ける。
……動きはない。技能を使っている気配もない。
それでも今この瞬間も、目に見えない“何か”が、彼の存在を削り続けているのかもしれない。
……納得いかねぇ。
思わず、唇をギリ、と噛み締める。
少し血の味が滲むが、そんなことどうでもいい。
……どうしてコイツがそんな目に合わないといけないんだよ。
「あとは……そうだな。私が世間と関わらない期間が長ければ長いほど、消滅の進行は加速する。誰とも関わらずにいれば、私に関するあらゆる痕跡が消え……最終的には、私自身も消える」
「は?ユーディアも……消えて無くなる!?」
意味が分からない。
力の持ち主が消える力なんて、何を考えて神はそれをユーディアに与えたんだ。
「アルノー君が職業訓練所に通っていた間、私は呪術師や精霊術師を探しながら、野草を売る以外にも……街の人間に声をかけて回っていた。……そうでもしなければ、世間との繋がりが途切れ、そのまま消えてしまうからな」
「でも、お前……翌日には忘れられるんだろ?」
思わず食い気味に問うと、ユーディアは肩をすくめ、諦めたように笑った。
「毎回、初対面として扱われることには――もう慣れた」
「……」
そんなもの、慣れていいはずがない。
生きるために誰かと関わり続けなければならないのに、関わるたびに忘れられる。
その繰り返しを、何度も何度も強いられる。
そんなの、あんまりだ。
他人事のように淡々と語るユーディアを見ていると、胸の奥が締め付けられ、行き場のない怒りがじわじわと込み上げてくる。
「自分の能力で自分が消えるとか……本末転倒だろ!なんだよ、そのクソ技能!……それに、まだ消えてもいないのに、なんで自分が消えるって分かるんだよ!」
「……もう、既に消えているからだ」
「はぁ!?いるだろ!今、ここに!」
バン、と机を叩く。
衝撃で視界が滲んだが、きっと痛みのせいだ。
ユーディアは、ゆっくりと首を横に振った。
「……今まで黙っていたが、私の名は“ユーディア”ではない」
「は!?お前、それが本名だって――」
「今はそう名乗っているだけだ。“ユーディア”とは……私の師の怪盗名だ」
ユーディアの師匠であり、“先生”。
ーー女怪盗ユーディア。
その師の名を継いだ、二代目。
それが今、目の前にいる怪盗ユーディア。
「じゃあ……本当の名前は?」
「分からない」
「は?」
「――思い出せないのだ。自分のことを、もう」
ユーディアは遠くを見つめるように、ゆっくりと天井を仰いだ。
「故郷も、家族も、父も母も、自分の名すら……何もかも、消えてしまった」
ダンジョンで聞いた身の上話。
両親について尋ねたとき、彼は「覚えていない」と答えていた。
あの時は、孤児か捨て子だからだと思っていた。
だがそうではなかった。
ユーディアが過去を語らなかった理由は、隠していたからじゃない。
もっと単純で、残酷な理由。
――最初から、答えられるものが何一つ残っていなかった。
「一時期、世間から離れ、誰とも関わりを持たなかった時期があった。……その時に、私自身についての記憶はほとんど消えてしまった。もしそのまま誰とも関わりを持たずにいたら……きっと私は、跡形もなく消えていたと、何となく分かるのだ」
その言葉を聞いた瞬間、これまでの出来事が脳裏を駆け巡る。
「……待て。ユーディアが世間に関わらない時間が長いほど、存在が消えていくんだよな?……じゃあ、今回のダンジョン探索って……」
「相変わらず鋭いな」
ユーディアは、苦笑を浮かべた。
「あぁ。……私がダンジョンに長期間潜ることを避けていた本当の理由は――私自身が消えないためだ」
頭を、殴られたような気分だった。
ユーディアがダンジョンに行くのをあそこまで渋っていたのは、世間との関わりを無くさないようにする為だった。それでも俺が強く誘ったから、妥協案として3日間限りでダンジョン行きに賛成してくれたのだ。
けれど、そのせいで深層に落ちてしまい、ユーディアは2ヶ月半も世間との関わりを断つことになってしまった。
「数ヶ月も放置されていたのに、このアジトが残っていたのは驚きだが……それ以外の、私に関するあらゆるものは、この街から消えてしまった」
「も、もし……あと少し、脱出が遅れていたら……?」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
嫌な予感が、背筋を冷たくなぞる。
ユーディアは一瞬だけ言葉を選ぶように目を伏せ、それから静かに告げた。
「……あと少し遅れていたら、私はこの世から消えていたかもしれないな」
ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。
あと少しで――
俺のせいで、ユーディアが消えていた。
いや、それだけじゃない。
ユーディアの痕跡がミレアスから消えたのも。
誰一人として彼を覚えていなかったのも。
「……俺のせい、か?」
握りしめた拳が痛い。
裂けた唇に、じんわりと血が滲む。
「俺が……ダンジョンに行こうなんて言ったから……」
胸の奥が、きしむように痛んだ。
俺のせいで、彼は忘れられた。
俺のせいで、彼の生きた証が消えた。
俺のせいで――ユーディアという一人の人間が、この世界から消えかけた。
神を恨む資格なんて、あるのか。
俺だって――同じことをしているじゃないか。
ぽたり、と涙が落ちた。
罪悪感と自己嫌悪が胸の中で渦を巻き、息がうまくできない。
視界が滲む。
もう、誤魔化しようがなかった。
「君のせいじゃない。今回のことは……ただの不運な事故だ」
気づけば、ユーディアの手が俺の手に重ねられていた。
強く握りすぎて、指先には血が滲んでいる。
「私は、ダンジョンへ行ったことを後悔していない。君と過ごしたあの時間は……私にとって、かけがえのないものだった。だから、君が気に病む必要はないのだよ」
優しく、静かに言い聞かせるような声。
それでも、心の奥の重さは消えない。
涙は小雨のように、ぽたぽたと机を濡らし続けた。
ユーディアのこれまでを思うと、胸が締め付けられる。
悲しくて、悔しくて、どうしようもなく腹が立つ。
それなのに――
その原因を作ったかもしれない自分が、ただ無邪気にダンジョンを楽しんでいたことが……何より許せなかった。
「泣くな。まったく……君は本当に優しすぎるな」
軽くコートを叩くと、それは柔らかなタオルへと変わる。
差し出されたそれを受け取り、乱暴に涙を拭った。
「……なんで、ダンジョンに行く前に教えてくれなかったんだよ。お前の技能のこと」
恨めしさを隠さず睨みつけると、ユーディアは困ったように眉を下げた。
「《定理所有者》であることは、生涯誰にも明かさないつもりだった。それに……私の制御できない力のせいで、君が消えるかもしれないと知れば――君は、私を恐れて離れてしまうかもしれないだろう?」
静かに目を閉じ、過去をなぞるように言葉を続ける。
「……それが、怖かったのだ」
そして、ほんのわずかに微笑んだ。
「君との日々は、どれも楽しかった。朝になれば『おはよう』と声を交わし、帰れば『おかえり』と迎えられる。……そんな当たり前のことが、私にとっては何よりも得難く、心地よいものだった」
その声音は、どこか遠くを懐かしむようで――
「……だから、壊したくなかったのだよ」
その言葉の重さに、息が詰まる。
――翌日になれば、忘れられてしまうかもしれない。
それでもなお、ユーディアはその“当たり前”を守りたかったのだ。
「……なら、なんで今さら、打ち明けようと思ったんだよ」
そこまで恐れていたのなら、これまで通り隠し通せばよかったはずだ。
わざわざ俺に話す理由なんて、ない。
「君には――誠実でありたいと思ったのだ」
ユーディアは迷いなく答える。
「弟子であり、友人でもある君に対して……私の技能のせいで命が脅かされている現状を、いつまでも黙っているのは不誠実だと思った」
真っ直ぐで、嘘のない言葉。
けれど――
「……それだけか?」
思わず、そう問い返していた。
ユーディアにしては、あまりにも控えめだ。
まだ何かを飲み込んでいる。そんな気がした。
「まったく…………君には隠し事ができんな」
小さく息をつき、ゆっくりとマゼンダ色の瞳を開く。
「……もうひとつ、理由がある」
そして、わずかに身を乗り出し――まっすぐ俺を見据えた。
「君に、助けて欲しいと思ったからだ」
――その一言に、息が詰まる。
これまでも無茶ぶりはされた。
だがそれは、あくまで意見を求める程度で――最後は必ず、ユーディア自身が解決してきた。
そんな男が。
誰よりも頼りになる師匠が――
真正面から、「助けてほしい」と言った。
「長年、私は自分の《定理技能》に悩まされてきた。あらゆる手を尽くしたが……結局、一人ではどうにもならなかった」
ユーディアはそっと俺の手から離れ、背筋を伸ばす。
「……だが、ダンジョンで君に何度も救われた。手を取り合い、諦めずに進み続けた結果……本来ならあり得ないはずの深層から、生きて帰ることができた」
静かに、けれど確信を込めて続ける。
「アルノー君。君は私にとって――希望であり、幸運の星なのだ」
「希望に、幸運の星って……大げさだろ。あれは全部、たまたまだ」
苦笑しながら返すが、ユーディアは首を横に振った。
「弱肉強食のダンジョンにおいて、“たまたま”を引き寄せ続けること自体が才能だ。それに、君の視点や発想は私とは違う。……それが、解決の糸口になるかもしれない」
その声には、確かな期待が滲んでいた。
ユーディアは両手を組み、わずかに力を込める。
「私一人では、君が消えないよう立ち回りながら、《定理技能》の解決策を探ることは不可能だ。だから――すべてを打ち明け、共に探したいと思った」
そして、静かに手を差し出す。
「茨の道になるかもしれない。君に多くの負担を強いることになるだろう。それでも――どうか、私を助けてほしい」
一拍、置いて。
「君も、私も……消えないために」
その手は、わずかに震えていた。
――世界を書き換える神の如き力を、どうにかする。
それがどれほど無謀なことか、分からないほど俺は馬鹿じゃない。
この世界に来て間もない俺は、まだ何も知らない。
一人で生きることすら、やっとだ。
それでも――
そんな俺に、手を伸ばしてくれている。
「助けてほしい」と言ってくれている。
なら、答えは一つだ。
ーー断る理由なんて、どこにもなかった。
「茨の道かどうかは知らねぇけどさ」
俺は、その手を強く掴む。
「ダンジョン深層に比べりゃ、舗装された道みたいなもんだろ。――任せとけよ、師匠」
不肖の弟子なりに、やれることはやってやる。
2人で考えれば、きっとどうにかなる。
そう言うと、ユーディアは一瞬だけ視線を落とし――マゼンダの瞳をわずかに潤ませた。
だがすぐに顔を上げ、いつものように口元を歪める。
「……その鼻声では、締まらんな」
「う、う、うるせぇ!!」
お前のせいだろうが!!
思わず、涙を拭っていたタオルを投げつける。
「やめんか、汚い!」
軽く払いのけるユーディアの顔は――
ほんの少し、口元が緩んでいて。
それでいて、これまで見たことがないほど――晴れやかな笑顔だった。




