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聖女と呼ばれぬあの方は

作者: トイレの蓋

これは井上ひさし先生の〝握手〟オマージュ作品です。それを踏まえた上で読んで下さると幸いです。


ガタン、と音を立てて馬車が揺れた。

膝の上で微かな重みが寄りかかる。それまで流れて行く景色を惰性で眺めていた私は吸い寄せられるように視線を落とした。


美しい白百合の刺繍が施された綿のハンカチに緩くくるまれているのは暗く濁った赤い石だ。それを見つめていると胸の奥がざわざわと蠢く。脳裏に浮かぶのはこの世の何より澄んだ紅玉だ。






「そろそろ故郷に帰ろうと思うのです。魔族は長生きですからね。心配なんてしなくても、きっと両親も健在でしょう」


目の前の魔族の女はそう言った。手元の紅茶を一口飲むと「美味しいですね、」と私を見て小さく笑った。


私もそれにならって紅茶を口にする。

カップの中でゆらゆらと揺らめく水面の色は赤の混じる茶色で、先生の瞳は純粋な赤だ。でも、液体を彷彿とさせられるくらい澄んでいて、宝石に例えることもできる。




幼い頃、先生に言ったことがある。


『先生の目は赤い宝石みたいできれいですね』


その言葉に先生は笑って


『あなたに綺麗と言われて嬉しいです。実は、私の旦那様も褒めて下さったところなんですよ』


自慢です、なんて悪戯っぽく弾んだ声色で答えた。


その後、私はなんて言ったのかは分からない。覚えていない。気が動転していたのかもしれない。




先生は教会で働いていた。

主に孤児を引き取ることに特化した教会で、児童養護施設としての役割を果たしていた。


そこに勤めるシスターの中で唯一の魔族が、この方だ。


どうして魔族が人間の国で人間の子供を育てていたのかと言えば、彼女は人間の男と恋に落ちたから。馴れ初めは確か、魔族の国に迷い込んだ男を先生が助けたことが始まりだったと思う。彼らはお互いを知る内に恋に落ち、先生は男に嫁ぐことを決めた。


それは簡単な決断ではない。

種族を越えた愛なんて反対されるに決まっている。隣国であり種族が違うこともあり長らく啀み合ってきたのもそうだが、種族が違えば子を持つことも簡単ではない。

 諦めなくては、ならなかったのだろう。

だから先生は家族を捨て、故郷を捨て、一族を裏切って、母親としての幸せまで捨てて、人間の住まう国で男と暮らし始めた。当時はかなり幸せだったらしい。


───でも、戦争が始まった。


元々、長らく冷戦が続いていたから火種なんてほんの小さな摩擦で生まれる。数の多い人間と、数は少ないが一個人の力が強い魔族との戦争。それは勿論激化した。人も魔族もたくさん死んだらしい。そして、先生の旦那も。


旦那は出兵した。一般人だったらしいが、志願兵として。総力戦ということもあり一般人も多く戦場に送り込まれる時代だったらしいが、その男は先生の気持ちを考えた上での判断だったのだろうか。



先生は止めたのだろうか。その宝石の輪郭を歪めて、雫を溢して縋ったのだろうか。

〝行かないで〟

と。言うことすら、許されなかったのだろうか。


私はそこら辺の事情を知らない。

子供ながらに〝聞く〟ことは相手の心に踏み入ることだという自覚があったし、その勇気もなかった。


ただ、その旦那について話す先生はいつだって楽しそうで、幸せそうで。きっと多くの人から褒められて然るべき人格者であったのだろうとは察しがつく。

でも、でも、私はその旦那が嫌いだ。

全てを捨てた先生から、女である幸せでさえ手放させた男が、どうして憎くないだろう。


私は一度だけその男を罵った。

持ちうる限りの言葉で泣きながら酷く言った。怒られるかもしれないとも頭を過ったけれど、口から飛び出る言葉が逆さまにしたグラスの水みたいに止まってくれなくて、いっそ全部言ってやれと思った。

そんな私に、そのときの先生は本当に哀しそうにして、困った顔をしながら笑った。

先生は全身が岩だらけの魔族で、顔も人間の様に分かりやすく判断できるものではないけれど、分からない程、私たちの仲は脆くない。いっそ、怒ってくれたら良かったのにな。



「先生の故郷は海が見えるのに緑の多いところでしたっけ」

「そうです!時期が合えばそこら中に木の実が成っていて、それを食べて育ちましたね。あの教会と似たような感じですよ」


話を続ければぱぁ!と幼子のように頬を綻ばせてから、過去の情景に思いを馳せているのか私から見て右斜め上に視線が流れる。

そうか、帰るのか。

先生が帰国するにあたって、やはり問題になるのは先生の両親や家族は敵国に渡った彼女を許してくれるのだろうか、ということだろう。私だったら自分の国を敗戦国に貶め、同族を虐殺し、土地を大幅に奪い取った人間に嫁いだ娘なんて、受け入れ難いと思うが。



同じような気候、同じような景色ならずっとここに居ればいいのに。


私が育った教会は丘の上にあった。どこまでも広がる海を眺められる小高い丘を少し下れば森が覆い茂り、美味しいキイチゴや毒々しい色合いのキノコ、可愛らしい小さな花などがあった。時期によって色を変える森がいつまで経っても飽きることなく好きだったし、子供たちの人気の遊び場で秘密基地も作られたりした。


先生だって、気に入っていただろうに。


そんな風に考えて、でもやっぱり故郷というのは理論で片付けられる程安いものではないのだろうと思い直す。彼女には私たちと同じくらい、将又それ以上に大事なものがあるのだから。



「…っと、私のことは良いのです。あなたは近頃どうですか?ちゃんとご飯は食べていますか?あなたにいじわるする方はいませんか?」

「はい、平気ですよ。上手くやっています。ご飯も、食べなくてはあなたに叱られてしまうでしょう?」

「あなたは好き嫌いのない子供だったのに、もう…」


先生が怒ったところなんて早々見たことがない。好き嫌いをする子供を注意するところは見たことがある。私は注意されたことがないのに冗談で言ってみれば頬をむくれさせる。想像通りの反応だった。


けれど一度だけ、先生は子供に手をあげたことがある。私ではない。私より一つ下の子供が夜になっても帰ってこなかったのだ。その間先生や他のシスターたちは落ち着かない様子でずっと部屋の中を歩き回っていて、私たち子供も不安が伝染して『もしかしたら川にでも落ちて死んだんじゃないか』なんてヒソヒソ話をされていた。


でも、そのときピシャリと先生が怒って『縁起でもないことを言わないで下さい!!』と怒鳴った。魔族である先生の怒鳴り声はよく通った。距離はあった筈なのに私も耳の奥がキーンとして泣き出した子供もいた。


先生も、怒ることがあるのだと思った。それに加えて常日頃どれだけ手加減して私たちに触れているのだろう、と。彼女の優しさを漠然と悟ったものだった。


「好き嫌いが激しいと言えば、アレンくんですね。覚えていますか?」

「はい、それは勿論。彼がどうかしましたか?」

「実はあの子、次の春に結婚するみたいなんですよ!」


それから無事帰って来て先生から平手打ちを食らった子供の名前はアレンである。魔族の豪快な平手打ちに死んだんじゃないかと言われた彼は無事に起き上がったが顔が赤紫に大きく腫れて、それが治るまで先生はずっと落ち込んでいた。そのせいで彼は暫く先生を悲しませた子供として私たちの間で微妙な雑用を寄せられていた。いじめという程ではないが地味にめんどくさい洗濯当番の籠片付けやご飯の前のテーブル拭きなどを押し付けられていたのだ。まぁ、本人にもそれだけのことをした自覚があったようで甘んじて受け入れていたが。


そうか、アレン。あいつ結婚するのか。


私より年下の癖に、とは思ったが私が行き遅れているだけでもう既に結婚適齢期だろう。好き嫌いが多く、周りと衝突することも多かった彼のお相手がどんな人か聞けば、明るくて豪快な姉女房らしい。良かったな、まさにお似合いだぞ。


「あなたはどうですか?良い方は居なさそうですか?」

「そうですね、今は仕事に専念したいので、」

「確かに…王宮勤めなんて中々なれるものではありませんものね…本当にあなたはすごい人です」


その言葉に少し息が詰まった。先生にそんな意図はないとは分かっている。いっそ責めてくれたらどんなに楽かと考えたこともある。

でも〝すごい人〟

その言葉が喉につっかえた魚の小骨のように感じられて、口の中に含んでいたクッキーを押し込むように紅茶を流し込む。



私は十三の時、準男爵家の老夫婦の養子になった。子供に恵まれなかった老夫婦は準男爵家ということもあり跡継ぎについてあまり考えていなかったそうだが、終活を始めるにあたって一番に決めなくてはならなかったらしい。それで私と他にも何人か元孤児である子供が召し上げられ、真っ当な教育を与えられた。


私は吸収が早く、要領も悪くない。見た目がそれなりに良かったということもあり、王宮の召使いとして働かせてもらえることになったという訳だ。


でも、私は初めどうしても王宮では働きたくなくて、分かりやすく難色を示した。だって、だって王は魔族との戦争に踏み切った人間だ。人間と魔族が衝突する原因、判断を下した、先生を悲しませた。私が生まれる前のことであろうと、先生が苦しめられたのに、その男の住まう城で仕えろと言うのか。先生を裏切ってまで。


私が反抗するなんて初めてのことだったので老夫婦も無理はしなくていい、と言ってくれたけれどあまりにもその顔には落胆が滲んでいて、王宮からの手紙を焼くことによってこの家の立場、世間体が悪くなることも同時に理解させられた。


同じく養子になった子供は言った。

『確かにさ、オレも最初は先生のこと考えたら断った方が良いと思ったけど、どこで働いても税金は取られるし、先生はこんな機会無駄にした方が悲しむんじゃない?』と。


それに私も少し納得してしまった。だって、先生はそんなこと気にしない。私がちゃんとした場所で、食いっぱぐれることのない職に就けたことを喜んでくれる。自分のこと以上に安堵してくれる。戦争や種族間の遺恨など、思い当たりすら、しないだろう。


数日掛けて考えた末、了承の意を老夫婦に伝えた。すると本当に安堵したようで良かった、良かった、と何度も呟いていた。



でも、


「…ごめんなさい。あなたに育ててもらったのに、私は王宮になんて、仕えだして」


やっぱり私は先生に謝りたかった。私の勝手な自己満足だけれど魔族に育てられた子供が、魔族の国を壊滅させた男の元で働くなんて、そんなの──。


「なんで謝るのですか?あなたはとっても頑張って勉強をしたからすごいところで働けているんですよ。王宮なんて、すごいじゃないですか!なんで私が出てくるんです?私が魔族であることに負い目を感じているのなら、やめて下さい。本当に悲しいです」

「…すみません、忘れて下さい」

「そうですよ。あなたは人一倍優しい子でしたから、気に病んでしまうのも分かりますが種族なんて傲慢なことを言ってはいけません。そこに一個人がいる、それだけです」



私の声は裏返っていた。指の先も真っ白になる程スカートの端を握り締めて、顔を伏せていた。

ずっと、ずっと、働き始めてからずっと謝りたかった。合わせる顔がないと思っていた。それなのに、その不安は神のように崇高な言葉に塗り潰される。


なんで、なんで先生はそう(・・)なんだろう。申し訳なさも不甲斐なさも、どうしようもないくらいの遣る瀬無さも。自分がなにもしてあげられない悔しさも、自分の無力さが憎くて死にたくなるこの心情も。全部先生には理解してもらえないんだろう。あなたは善人だから。純白の羽のような人だから。人の汚い部分なんて、洗剤でも消せないシミのような私の内面なんて知り得ないんだろう。でも、それを目の当たりにしても否定したりせず、ただ困ったように笑って受け入れてくれるんだろう。あぁ、なんて、酷い人。私をその旦那の代わりになんて、してくれない癖に。


喉元まででかかった傲慢な言葉を無理矢理呑み下す。この優しい方にこれ以上迷惑をかけたのなら、私はこれまで以上に自分が許せなくなる。あと五年も前だったのなら、口をついて出てしまったかもしれないが、それだけ私も大人になったのだろう。



「それより、なにか私に言っておきたいことはありませんか?故郷に帰ってしまえば簡単には会えなくなるでしょうから」


小さく笑った先生に無意識のうちに目を見開いてしまった。先生がそうやって小さな笑みを浮かべるとき、大抵良いことはない。

 嫌な予感

 虫の知らせ

そんな言葉が脳裏を過って、思考が冷静になれと本能を諌める。でも〝簡単には会えなくなる〟その言葉になにかが引っかかる。先生はあまり私たちを不安にさせたり脅したりする言葉を使いたがらない。津波注意報が出ていると伝える時も『もしも津波が来たら大変だから』と可能性を下げて伝えるし、野菜を食べなくては将来困ってしまうかもしれない、と。野菜を食べなくては病気で死ぬと言えば良いものを、どこまでもこちらの心を守る言動を心掛けてきた方だ。私が大人になったから?いや、違うだろう。先ほどから彼、彼女という言葉を使わず三人称を『あの子』に統一している先生のことだ。そんな思考元よりない。私たちはいつまで経っても先生にとって可愛い子供だ。なら、なぜ─。


そこまで辿り着いてはたと気付く。

先生は、もうすぐ死ぬんじゃないだろうか、と。

優しい先生のことだ。魔族といるところを他者に見られたら、なんて考えて滅多に買い物にすら行かなかったのにこうやって巣立った子供に帰国することを伝えるために態々会ったりするだろうか。普通の人間なら当然だが、この方なら、度を超えて優しい自責思考のこの方なら、手紙で済ますだろう。死の間際でなんかなくては、会いになんて。


魔族は長生きする生き物だ。

人間のように簡単に死ぬ程身体の構造も脆くないし、寿命も長い。そんな先生が死ぬ理由を考えたとき、真っ先に思い至るのは人間の国にいる、ということである。


人間には筋肉の塊である心臓があるけれど、魔族にはない。その代わりに魔石がある。魔石は魔族が生まれた時から身体の中にある臓器のようなもので、そこから全身に魔素を送っているらしい。


魔族にとって人間のご飯のようなものが魔素だ。人間のように魔族もご飯を食べるけれど、肉とか野菜とかから栄養を摂る訳じゃなくて、それに含まれる僅かな魔素を目的に摂っている。

魔素は血と同じ役割で、少なくなっては死んでしまう。

魔族の国では空気中、野生生物、そこら辺に生えてる雑草に含まれる魔素の量も人間の国とは比べ物にならない程に多いらしい。人間はあまり魔素に慣れていないから、少量なら健康に良いけれどあまり量を摂取してしまうと死んでしまう。だから聖女がこの国に結界を張って、空気中の魔素の量を調節している。


この国に居るせいで、先生は空気中や色々なものから魔素を摂取できなくて、その身体は腐り落ちる寸前なのだろうか。


魔族は十分に新鮮な魔素が得られない状況下の場合、体内に残る魔素を巡らせてなんとか生命活動を保つのだと老夫婦の家にあった本で読んだ。だから、何十年か魔族の国に帰れていない先生の身体には今、古く穢れた老廃物が巡っているのだろう。全身が痛い筈だ。血の巡りが悪い腰や肩を歳を取る毎に痛めるように、魔素の巡りが悪くなった場所では痛みを覚えるそうだ。呼吸さえ、苦しくなることもあるそうだ。考えてみれば先生は一度紅茶を飲んだだけで、目の前の三つに段が積まれているティースタンドに一度も手を付けていない。


本当は、お菓子を食べることだけでも、辛いのか。



私はティースタンドに乗ったスコーンにクロテッドクリームをふんだんに付けて口に運ぶ。


自分の問いを無視した行動に先生は怒ることもなくテーブルに肘をついて私を見つめた。優しくて、暖かくて、どこまでも慈愛が滲んだ視線は私を射抜いた。「美味しいですか?」なんて続けられた言葉に咀嚼しながら頷けば首を傾げて「良かった、ここのお店はスコーンが美味しいらしいんです。あなたは甘い物が好きだから、一度一緒に来てみたかったんですよ」と。鈴を転がすような声で笑った。首を傾げるのは先生がなにか嬉しいことがあったときする癖だ。


私の頭は大分混乱していた。突然の訃報を耳に入れたような衝撃だった。まぁ、事実そうなのだが。後頭部になんの予兆もなく鈍器を振り下ろされたような感覚、と言えば分かりやすいだろうか。

でも、本能が勝手に先生に美味しそうにものを食べる姿を魅せなくては、と。私の身体を支配していた。私たちが楽しそうにしているだとか、美味しそうにご飯を食べているだとか。先生はなによりそういう状況を見て幸せそうに首を傾げるから。だから、私は魅せなくては。


大口で食らったため、もぐもぐと何度も咀嚼をして飲み込んでからもうすっかり冷めてしまった紅茶を空にした。


言いたいこと、あります。いろいろあります。


でも、それを言葉にしたら、あなたの優しさを無碍にすることになる。きっと、歯止めが利かなくなる。

今すぐ国に送り返して、他の子供たちに別れの言葉を言わせないかもしれないし、優秀な医者を探し出して無理矢理治療を受けさせるかもしれない。かくん、と寝落ちするように死のうとしているだろう先生を、私は管に繋いで上手く話せない中でも無駄に生き長らえさせるかもしれない。自分が、なにをしでかすかなんて、理解()かりたくない。


最後、最後だ。先生に会えるのは、これで最後。


なにを言ったら良いのかも分からず、ぐるぐると思考が回って、刻一刻と時間は過ぎていく。ここで待ち草臥れてぷつんと切るような人だったら、こんなにも苦しまなかったのにな。




「────お願い、なんですけど、」

「…はい、できる限りお応えしたいですよ。ふふ、あなたが私にお願いだなんて、珍しいですね。嬉しいです」


お昼時から人気のカフェでお茶をしていた私たちだったけれど、いつの間にか日は落ちかけて西陽が先生の頬を照らしていた。非対称にボコボコと飛び出る岩の顔に光が歪んだ稜線を作っている。

魔族が居る

ただそれだけなのに先生はどこまでも優しい母親のような顔つきで、私は鼻の先がツンとした。不意に泣きたくなった。


手の平を合わせて子供のように無邪気に笑った先生になんとも言えない気持ちになりながら、喉から必死に絞り出した虫の鳴くような声で、私はお願いをした。





私の膝に乗せられた濁った石は先生の心臓だ。

魔族は自然と共に生きることを望む種族で、魔石以外は土に還し、遺族はそれに縋って生きていく。


私は『先生がもしお亡くなりになったときには、私にあなたの心臓をくれませんか』と言った。本当に故郷に帰れたのならそれでいい。このお願いを聞かなくていい。寧ろこんな願い叶わなければいい。


…でも、でももしもあなたが、この国で死ぬつもりならば──。


私の願いに相も変わらぬ笑みを浮かべた先生は了承をくれた。悪戯を見破られた子供のように頬を掻いて首を傾げていた。




先生はやはりこの国で一生を終える腹積もりだったらしい。最後の子供に暇乞いした帰り道、先生は倒れたそうだ。

緊張の糸が切れたのだろう

やり遂げたと安堵したのだろう

道の真ん中で砂を掴み、苦しげに浅い息と喘鳴を繰り返した後、先生はそのまま息を引き取った。


周囲の人間は、誰も助けなかったらしい。


別れた子供も私と同じことを察したのだろう。けれど踏ん切りがつかなかった。でも、それでもどうしても言っておきたいことがあって、暫くしてから追いかけたその先で、警察の人間に獣の死骸のように運ばれる先生を見たそうだ。

何度も先生と呼んだ。先生は私たちの声を無視することなどなかった。沈黙は、なによりの肯定だった。

野次馬であった人間に先生の死の間際の話を聞き、その子供は激昂した。

『なんで助けてくれなかったんだ!あの優しい人に、どうして砂なんか掴ませた!!』

そう胸倉を掴んで怒鳴りつければその人間は酷く狼狽えて、怖かったんだと白状した。


人間の国で倒れた魔族。戦後の時代。どんな報復を受けるか分からないと思った愚かな人間は、誰より優しいその方を孤独に死なせたのだ。



ねぇ、先生。

私、魔族の心臓が欲しかった訳じゃないんです。

あなたをあなたの文化に則って弔ったら、これ以外残らないから、なにか縋れるものが欲しかったの。

でも、でも、これは先生じゃない。先生が生きた確かな痕跡だけど、でもただの抜け殻なんですよ。



その魔石を持ち上げて西陽に照らすとちらちらと内部で光を反射して、宝石のように見えた。これは汚染された魔素で満たされているから、こうやって光を屈折する。凱旋パレートで見せしめられた高位魔族の魔石はもっと透明度が高く、そのまま光が貫いていた。


これが先生の生きた証だと思うと胸が苦しくなった。こんなに穢れて、寿命を縮めてまで私たちを育ててくれた事実が憎い。いつも感じている申し訳なさやら不甲斐なさやらがより急激に肥大化して泣きたくなった。いや、もう既に泣いているのだけれど。



ぼろぼろと私の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。それを払うこともなく放置する。もう葬式からずっとこの調子なのだ。先生との最後の会話が、声がぐるぐると頭を占める。あの時の陽に照らされた先生の、母親の顔を忘れることなんてある筈ないと思うのに、どこか冷静に自分を見つめるもう一人の私は、この声もいつか思い出せなくなるのだと告げる。すると勝手に脳が涙の量を増やして表面張力では耐えきれなくなった涙が目尻から溢れた。




膝に戻した魔石の固い感覚に、立場が逆転したことを静かに悟る。


先生は子供たちを膝に乗せるのが好きだった。私たちの間で決まっていたルールは

〝先生の膝を断るべからず〟

だ。先生は岩だらけの身体だったから、膝に乗ると子供の尻が悲鳴を上げた。でも、先生は本当に嬉しそうに鼻歌を歌いながら頭を撫でるから、だから先生を悲しませたくなくて私たちは断らなかった。


私は、先生の膝が好きだった。確かにお尻は痛いけど、でも先生の瞳が近くて、先生が故郷の歌を歌ってくれる。私たちに共有してくれることが嬉しくて、なにより幸せで。


「〜〜〜〜〜〜、〜〜」


先生の鼻歌は偶に歌詞が混ざっていた。魔族の言葉だ。なんて言っていたかは分からないけれど、でもきっとあれは子守唄だったんだと思う。先生が、先生の母親に歌ってもらっていた歌。先生が子供だったときの、思い出の歌。



私は馬車が王都に着くまで、ぼんやりとその歌を繰り返していた。






「─ねぇ、なんで紅茶ない訳?」

「…申し訳ありません」


なんでない。

用意していなかった。


それ以外答えはないが、私に言い訳する権利はない。だって、この人はこの国の英雄なのだから。


〝聖女〟


現国王の妻。つまりこの国の女王陛下。魔族との戦争で誰より戦果を挙げた女。


彼女は確かに美しい容姿をしていた。豊かな濡羽色の御髪に上下長く生え揃った烟るような睫毛。透き通る玉のような肌と柔らかな桜唇。誰が見ても愛らしい女。妙齢は過ぎているというのにも関わらず、歳など取らない様に女はいつまでも美しい見た目を保っていた。


そんな女は湯水の様に金を使った。

ドレスだのアクセサリーだの、将又流行りのお菓子だの。それに応えるために常に何人もの使用人たちが彼女の周りに控え、神妙に一挙一動に気を配っている。

それでも皆文句はなかった。

魔族の国を壊滅させてくれた英雄。美しき女神。そんな彼女に仕えられるのなら家畜の様に扱われても喜ぶという輩の集まりだった。










        ふざけるなッ!!!







あぁ、なんて酷い顔だろう。辺境の金銀花とまで呼ばれた美しい顔が台無しである。


私は眉間に深いシワを寄せ、瞳孔をカッと開いて自身を落ち着かせるように深い呼吸を荒く繰り返しながら肩を強張らせていた。それに気付いたのはお湯を沸かすために鍋に水を張って水面に顔が映っていたからである。


獣の様に犬歯を剥き出しにしたせいで水面に唾が垂れそうになる。慌てて口元を手の甲で拭った。

異物混入だ。いや、いい気味か?

そこまで思って私は無言で胸ポケットを撫でた。


そこからハンカチを取り出して中身の感触を布越しに確かめる。


すりすりと親指で撫でながらあの女を殺してしまうのもアリだよな、と。いつもの思想が助走付ける。


だって、聖女と呼ばれ、国民に慕われるこの女は傲慢で、馬鹿で、無能だ。それなのに聖女と呼ばれぬあの方は祖国の地を踏むこともなく孤独に死んでいった。この女はどうせ国葬までも開かれるのだろう。


…可笑しい、可笑しい、あまりに可笑しい!


魔石は人間にとって猛毒だ。

人間が摂取した場合、まずあまりに強大な魔素に藻掻き苦しむだろう。加えて先生の魔石は酷く穢れているのだから、聖女の力がある人間なら殊更辛いだろう。


ぶくぶくと鍋の底から大きな泡が弾けては生まれる湯の上に魔石を構える。

熱い

早く火を消せと言わんばかりに立ち昇る蒸気が私の指に纏わりついて直ぐに魔石の表面を曇らせてしまう。

魔石が溶ければ湯に赤の色はつくだろうけど、紅茶にしてしまえば気付くタイミングすらないだろう。



私の口元が醜く歪んだ。









カップに飴色の液体を注ぎ、テーブルに揃える。ソファーの上で寝転がりながら華美なネックレスのカタログを捲る女はそれを見ると「あ、やっと来た!」と嬉々として起き上がり、本を適当に置いてカップの持ち手を握った。



私はその液体が女の柔い唇に触れるのを隣で眺める。女が口内に侵入を許すと、その細い喉がこくりと跳ねた。


「ぷは、おいし。やっぱあんたが一番紅茶淹れるの上手だよね。言われるまでやんないのが玉に瑕だけど。ありがとね」

「……いえ、身に余る御言葉に御座います」


満足げに笑った女はまたカタログに戻る。仕事を終えた私もまた壁に戻る。





私は今日も今日とて、この女に毒を盛らなかった。

この話は主人公とルロイ修道士が女同士だった場合もっと湿度上がったろうな、と思って作られた話です。

因みにこの話の先生は魔族の寿命で言うとまだ子供で御座います。

皆さん、是非井上ひさし先生の〝握手〟を読んで貰えないでしょうか。読んで頂けたら嬉しすぎて作者が一日三回マ◯ケンサンバ踊ります。

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