『夏の蜃気楼』 ソラがくれた永遠の色
私の全世界は四畳半という、閉じた箱の中。開閉が渋い窓は、外の世界との唯一の繋がりを拒むように重く、その向こうは、ただ眩しすぎる太陽と、やかましい蝉の声や街の音で溢れているだけ。使い古されたスケッチブックを置いたちゃぶ台だけが、この部屋のすべてだった。私は、いつもこの場所で、心の中の風景ばかりを描いていた。
私の名はメイ。
現実の景色はすべて色を失い、色を持つのは、私の想像の中だけ。友達と呼べる存在もなく、誰にも理解されない孤独が、私という人間を、虚ろな空っぽの器のように形作っていた。
そんなある日、私は古書屋で一冊のスケッチブックを見つけた。その店は街の隅にある古びた秘密の洞窟のような場所だった。表紙には褪せた金色の星がちりばめられていて、紙は少し黄ばんでいる。この本に描いたものは、たった一度だけ、命を宿すだろう……と、達筆な文字で書かれていた。私はそれを誰かの遊び心だと思い微笑ましく思ってその本を買った。その時はそれが私の人生を変える「運命の書」だとは知る由もなかった。
その日の夜、私は夢を見た。そこは、私の部屋だった。けれど、いつもの重く淀んだ空気はどこにもない。窓から差し込む月の光が、床に銀色の絨毯を敷き詰めるように部屋全体を照らし、埃の粒子さえも、まるで星屑のようにキラキラと輝いている。私は、その光の真ん中に、一人の女の子が立っているのを見つけた。
彼女は、私が心を閉ざしたこの部屋には決して似合わない、清らかな光を放っていた。風に揺れる銀色の髪は、月明かりを反射して淡く光り、少し困ったように眉を下げた柔らかな瞳は、私の不安をすべて見透かすようだった。彼女は、夢の中でしか見たことのない、切ないほど優しい微笑みを浮かべていた。
彼女は、何も言わずに私に近づいてきた。そして、ちゃぶ台に置かれた、私のスケッチブックをそっと指差す。
「あなたの描く世界は、とても温かいね」
彼女の声は、夏の風鈴のように涼やかで透き通っていた。私は驚きと戸惑いで、何も言えなかった。私のモノクロの世界を、どうしてこの子は「温かい」と言ってくれるのだろう。
彼女は、ゆっくりと私に手を差し伸べた。その手は、月の光のように白く、透明に輝いていた。私はその手を掴みたいという衝動に駆られた。けれど、その手は触れることも叶わず、指先からゆっくりと霞んでいく。
「また、会えるよ。…メイが、私を描いてくれるなら。」
彼女の最後の言葉が、夏の夜の空に溶けていくように、静かに消えていった。
気がつくと、私はベッドの中で、冷たい汗をかいて目覚めていた。部屋には、相変わらず埃っぽい空気と、窓の外から聞こえる蝉のやかましい声。月の光はすでに消え、いつもの孤独な朝が私を包み込んでいた。
夢だった。
そう、わかっているのに。彼女の銀色の髪の輝きも、柔らかな瞳も、そして、あの優しい声も、あまりにも鮮やかに心に残っていた。何よりも、彼女の手を掴むことができなかった、あの指先の感覚が、現実の私を強く突き動かした。
私は、まるで何かに憑かれたように、スケッチブックを手に取った。震える手で、私は夢の中の女の子を描いた。鉛筆を走らせるたびに、胸の奥が不思議な熱を帯びていく。彼女の特徴的な、風に揺れる銀色の髪。少し困ったように眉を下げた、柔らかな瞳。そして、口元に浮かぶ、切ないほど優しい微笑み。細部まで記憶の断片を拾い集め、夢中で筆を走らせた。その女の子を二度と夢で会えなくても、私の心の奥に閉じ込めておきたかった。
描き終えた瞬間、スケッチブックから、金色の粒子がふわりと舞い上がった。それは、まるで星屑が降り注ぐようだ。粒子は、夏の熱気で揺らめく空気の中で形を成し、私の目の前に、夢の中の女の子が立っていた。
「…メイが、私を描いてくれたの?」
彼女の声は、夏の風鈴のように涼やかで透き通っていた。その声を聞いた瞬間私の心臓は止まったかのように静まり返った。夢じゃない。これは現実。目の前にいるこの子は紛れもなく私の手によって生まれた。
私は、驚きと混乱で声も出なかった。彼女はそんな私を見て、困ったように微笑んだ。その微笑みは、夢で見た時と同じ切なさを秘めていた。
「大丈夫だよ。私は、メイが描いたスケッチブックの中で、夏の間だけ、生きているの。」
彼女の名前はソラ。彼女は、私が心を閉ざしていた夏の部屋に一陣の風を連れてきた。
私たちは、毎日、たくさんの話をした。私は、自分の孤独や、外の世界への怯えを、少しずつ彼女に語った。ソラはそれを、決して否定せず、ただ静かに聞いてくれた。そして、彼女は、私が描いた絵の物語を、まるで本当に見たかのように語ってくれた。
「ねえ、メイが描いたこのお花、本当はもっと鮮やかな色なんだよ。太陽の光を浴びると、キラキラ光って、とっても綺麗なんだ。」
ソラは、私の描いたモノクロの絵に、想像の色を塗り足してくれる。彼女の言葉を聞いていると、私の部屋の窓から見える景色が、少しだけ輝きを増したような気がした。窓の向こうの、遠い街のざわめきが、以前のように私を怖がらせることはなくなった。
私たちは、たくさんの絵を描いた。私が描いた猫の絵は、次の瞬間、フワフワの毛並みを持つ小さな猫になって、私の膝の上で眠った。私が描いた虹の絵は、部屋の壁に、淡く優しい七色の光を放った。けれど、それはどれも、一晩限りの、儚い命だった。
「どうして、消えちゃうの?」
私がそう聞くと、ソラは切なそうに笑った。
「だって、それはメイが描いたまぼろしだからだよ。このスケッチブックの魔法は想いを一晩だけ形にするの。…夏の夜の夢みたいにね。」
私は、その言葉に胸を締め付けられた。彼女自身もまた、「まぼろし」なのだと、心のどこかで悟っていたから。ソラとの時間は、誰にも言えない、二人だけの秘密の宝物だった。この夏が終われば、この宝物も、幻のように消えてしまうのだろうか。そう思うと、胸が苦しくてたまらなかった。
ある日、私がソラに「外の世界に出てみたい?」と聞くと、彼女は首を横に振った。
「私は、この部屋の中が一番好きだよ。メイが私を描いてくれた、メイだけの世界だから。」
彼女の言葉に、私の胸はキュッと締め付けられた。それは、彼女が私を心から大切に思ってくれている証拠だとわかっていたから。私もまた、この部屋の中の、ソラと二人だけの世界が、何よりも大切だった。
しかし、夏は永遠ではなかった。
ある日、ソラと向かい合って話していると、彼女の輪郭が、少しだけ透けて見えることに気づいた。まるで、真夏の陽炎のように、ゆらゆらと揺れている。私の心臓は、ドクリ、と大きな音を立てた。ついに、この時が来てしまったのだと、全身が警鐘を鳴らしていた。
「ソラ…?」
私の声は、ひどく震えていた。彼女は、そんな私を見て、優しく微笑んだ。その微笑みは、悲しみを隠そうとする、ひどく切ないものだった。
「……もう行かないと」
彼女の言葉に、私は何も言えなかった。涙が、知らず知らずのうちに溢れ出す。私は、この夏を永遠に終わらせたくなかった。このまま時間が止まって、ソラと二人で、この部屋に閉じこもっていたかった。そんな子供じみた願いが、心の奥底から湧き上がってくる。
「大丈夫。私は消えても、メイの心の中には、ずっといるから。メイが描いた私の姿は、メイの心の中で、ずっと生き続けるから。」
彼女の瞳は、悲しみよりも、私との思い出を大切にする、優しい光で満ちていた。その瞳を見ていると、私は自分のわがままが恥ずかしくなった。彼女は、別れを恐れていない。むしろ、この夏を、私と出会えたことを、心から幸せに思っているようだった。
その日の夕方、部屋の外から最後の力を振り絞るように、一匹の蝉の声が聞こえてきた。その音が私の心をえぐり取るように響いた。
「ソラ…行かないで…」
私の願いも虚しく、ソラの姿は、どんどん透けていく。まるで、水面に落ちた絵の具のように、輪郭がぼやけていく。私は、彼女の手を、必死に握りしめた。けれど、掴んだはずの感触は、もうそこにはなかった。
「ありがとう、メイ……君が私を見つけてくれたから、私は、こんなにも素敵な夏を過ごせたよ……」
彼女の最後の言葉が、夏の熱気で揺らめく空気の中を、かすかに響いた。そして、私の目の前で、ソラの姿は、ふわりと金色の粒子となって消えていった。
私の部屋は、再び、静寂に包まれた。
窓の外からは、もう蝉の声は聞こえない。代わりに、秋の虫の音が遠くで小さく聞こえている。その音は、私にとって、ソラのいない現実を突きつける、残酷な音。
私は、スケッチブックを手に取った。ソラを描いたページを開くと、そこには、ただ白い紙があるだけだった。
(ソラ…)
心の中で、彼女の名前を呼ぶ。すると、私の胸の奥に、あの夏の温かさが、確かに残っているのを感じた。
ソラがくれた、たくさんの色。ソラが教えてくれた、外の世界の輝き。
私は、もう一人じゃない。
私は、スケッチブックに新しいページを開いた。描くのは、窓の外に見える、少しだけ色づいた葉っぱの絵。ソラが教えてくれた、あの鮮やかな色で、私は筆を走らせた。私の世界はもうモノクロじゃなかった。ソラとの思い出が、私の心に永遠の色を灯してくれた。
あの夏は、まるで儚い夢のようだったけれど、その想いは、私の心の中に確かに残っている。これは私とソラだけの、誰にも言えない、大切な物語。これからも、私は、ソラがくれた色で、世界を描き続けていくだろう。
そしていつか、このスケッチブックを誰かの手に渡す日が来るかもしれない。その時にきっと、また新しい色を見つける事だろう。
fin