5
瀬奈の中に私がいる。そう認識した次の瞬間、頭の中に一気に先ほどより濃い記憶の奔流が押し寄せ、目を閉じた。
淡く霞んだ日々。
ベッドの上で過ごした幼少期。
母に名前を呼ばれる声――冷たい声。
小さな頃、熱で動けず、寂しくて泣いた夜。
学校にもなかなか行けず、浅い付き合いしかない友 人たち。
優しく笑ってくれた幼馴染。繋がれた手の温もり。
でも、決して手に入らなかった“家族”というぬくもり。
エレオノーラは鏡に向き直り、もう一度、瀬奈の顔を見つめる。
触れた頬は、自分のものだと信じがたかった。
「……あなたは、こんなにも、泣いていたのね……」
小さくつぶやいた言葉が、鏡の中で反響した。
その瞳の奥に、かつての自分――
愛されることなく、誇りだけで立っていた、孤独な自分の姿が重なる。
けれど、違っていた。瀬奈は、ひとりで耐えていたのではない。
耐えることすら諦めて、誰にも気づかれぬように、心を隠していた。
「あなたの人生を、私が……生きてしまって、いいの……?」
ふと、胸にひとつの痛みが走る。
それは罪悪感だ。
この少女の命が終わり、自分がその体に宿ったのだとしたら――
自分は、誰かの人生を奪って生きていることになる。
「……ごめんなさい。瀬奈……」
吐き出したその声が、微かに震えていた。
涙が、もう一筋、頬を滑る。
「どうして、私なの……?」
鏡の中の少女は、何も答えなかった。
扉がそっと開く音がした。
かすかな足音。柔らかな白い光が差し込む中で、その人影はゆっくりと近づいてくる。
エレオノーラ――いや、瀬奈としてこの身体に目覚めた“私”は、ベッドの上で静かにその気配を受け止めた。
「……瀬奈」
その声に、胸の奥がわずかに揺れた。
――蓮。
瀬奈の記憶の中にあった名前。
幼馴染で、どこまでも優しく、どこか不器用な、唯一彼女に寄り添ってくれた存在。
けれどその姿を目にした瞬間、“私”は直感した。
この青年の中にあるのは、ただの幼馴染としての好意ではない。
それは――ひどく鋭く、痛いほどに真っ直ぐな眼差し。
「……調子はどう?」
優しく問うその声の裏に、淡い緊張がある。
(記憶にある蓮とは……少し違う)
思わず息を呑む。
瀬奈の記憶の中にある彼より、今の蓮はずっと“大人”だった。
目の奥には何かを押し殺しているような、沈んだ静けさがある。
「……うん。大丈夫、少し……まだ頭が重いけれど」
記憶をなぞるように、自然とそう口をついていた。
この身体が、彼の前でそう反応するように馴染んでいた。
蓮は、すこしだけ目を見開いた。
けれどすぐに微笑んで、ベッドのそばの椅子に腰を下ろした。
「そうか……よかった」
その言葉のあとに、短い沈黙が落ちる。
彼は何かを探るように、こちらをじっと見つめていた。
まるで――目の前の“瀬奈”が、本当に彼の知っている少女なのか、確かめるように。
(この目……懐かしくもあり、少し怖い)
エレオノーラの自我が、心の奥で静かに身構える。
蓮は、静かに続けた。
「なんだか、今日の瀬奈……いつもと、少し雰囲気が違う」
その言葉に、心臓が跳ねた。
彼の声音は穏やかだった。
けれど――どこか、疑念にも似た感情が混ざっていた。
「……そうかな」
微笑みながらそう返した声が、少しだけ震えていたのを、自分で自覚する。
彼が何を感じ取ったのかはわからない。
けれど、彼の目は確かに“違和感”を捉えていた。
(まだ私が“瀬奈ではない”ことを悟ったわけではない。けれど――鋭い人だ)
この世界で、“私”はどう生きるのか。
そのための鍵のひとつが、この蓮という青年にあるのだと、本能的に感じた。
彼はふっと視線を落とし、手元で指を組んだ。
「……無理しなくていいよ。話したくないなら、黙っていてもいい。
ただ、君がこうして生きていてくれて……それだけで、俺は十分だから」
その言葉に、胸の奥にかすかな痛みが走った。
瀬奈がどれほど、この言葉を欲していたのか。
その思いが、記憶の奥から波のように押し寄せてくる。
(私は……あなたが愛していた瀬奈じゃない。けれど――)
何も返せなかった。
ただ、黙ってその視線を受け止めることしかできなかった。




