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 ひとつ、音が消えたような気がした。


 沙耶が突然大学を去ったのは、ほんの数日前のことだった。


 詳しい理由は誰の口からも語られず、公式には「体調不良による自主退学」という一文が、事務的に掲示板へ貼り出された。


 けれど、その空白はあまりに整然としていて、どこか、不自然だった。


 沙耶の痕跡は、大学だけでなくネット上からも、すべて消えていた。

 あの日まで瀬奈の名前を呟いていた匿名のアカウントも、皮肉を並べていた裏垢も、気づけば綺麗さっぱり削除されている。


 まるで――最初から存在しなかったかのように。


 背筋に、ひやりとしたものが走る。

 誰かが、意図的に“消した”のではないか。そんな、直感にも似た予感。


 ……だけど、考えてはいけない。

 蓮が何かをした、なんて。

 そんな風に、思いたくない。


 私は蓮を――信じていたいのだから。


 * * *


「瀬奈ちゃん、今日も蓮くんと一緒に帰るの?」


 講義が終わった教室で、友人の一人が笑いながら声をかけてきた。


「うん……。いつも迎えに来てくれるから」


「相変わらず仲良しさんだね〜。うらやましい!」


 その何気ない言葉に、私はふと微笑みながら頷いた。

 心のどこかに、じんわりと温かいものが広がっていく。


 ――あれから毎日、蓮は私の隣にいる。


 大学まで迎えに来て、一緒に帰って、夕食をとって、ソファで映画を観たり本を読んだりして。

 私が「おやすみ」と言うまで、ずっとそばにいてくれる。


 それが、もう“日常”になっていた。


 広くて静かだった家に、声がある。

 笑いがある。

 誰かと一緒に過ごす空間が、こんなにもあたたかいものだったなんて、知らなかった。


 独りだった日々では知り得なかった幸せ。


 それを、今の私は――


 いや。

 私は、瀬奈ではないのに。


 エレオノーラとして生きてきた私が、こんな幸せを得ていいのだろうか。

 彼の隣にいる資格なんて、本当は、ないのに。


 それでも、どうしようもなく。


 彼が差し出してくれる優しさに、私は、何度も心を溶かされてしまう。


 けれど、ふとした瞬間に、考えてしまうのだ。


 ――もし、本当の瀬奈の意識が戻ってきたら。

 私は、そのとき、どうなるのだろう。


 今は、この身体を、私が使っている。

 けれど、本来は瀬奈のもの。

 彼女の記憶、彼女の人生、彼女の家、彼女の――蓮。


 そう思えば思うほど、胸の奥が冷たくなっていく。


 私は、奪ってしまったのだろうか。


 彼女の生きる場所も、彼の優しさも――

 全部、私のものじゃないのに。


 でも、頭では理解しているのに、心が叫ぶ。


 いやだ。


 消えたくない。

 このまま、蓮と毎日笑い合って、ごはんを食べて、一緒に時を重ねたい。


 知らなければ、願わなければよかったのだろうか。

 独りでいいと、孤独に甘んじていれば、あの夜の温もりに心を揺らされることもなかったのに。


 でも――


 幸せを知ってしまった。


 知らなければ、求めることもなかった。

 でも、知ってしまった今――私はもう、自分がいなくなる未来を拒んでしまう。


 私は、生きたい。


 このまま、瀬奈としてではなく、エレオノーラとして。

 彼の隣にいたい。


 だけど、それは許されることなのだろうか。


 彼は、いったい誰を見ているのだろう。

 瀬奈? それとも――私?


 時折、蓮の視線が静かに絡む。

 その瞳の奥に映っているのが「彼の知っていた瀬奈」ではなく、今の私であってほしいと、願ってしまう。


 それが、どれほどわがままで、罪深いことか分かっているのに――

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