17
ひとつ、音が消えたような気がした。
沙耶が突然大学を去ったのは、ほんの数日前のことだった。
詳しい理由は誰の口からも語られず、公式には「体調不良による自主退学」という一文が、事務的に掲示板へ貼り出された。
けれど、その空白はあまりに整然としていて、どこか、不自然だった。
沙耶の痕跡は、大学だけでなくネット上からも、すべて消えていた。
あの日まで瀬奈の名前を呟いていた匿名のアカウントも、皮肉を並べていた裏垢も、気づけば綺麗さっぱり削除されている。
まるで――最初から存在しなかったかのように。
背筋に、ひやりとしたものが走る。
誰かが、意図的に“消した”のではないか。そんな、直感にも似た予感。
……だけど、考えてはいけない。
蓮が何かをした、なんて。
そんな風に、思いたくない。
私は蓮を――信じていたいのだから。
* * *
「瀬奈ちゃん、今日も蓮くんと一緒に帰るの?」
講義が終わった教室で、友人の一人が笑いながら声をかけてきた。
「うん……。いつも迎えに来てくれるから」
「相変わらず仲良しさんだね〜。うらやましい!」
その何気ない言葉に、私はふと微笑みながら頷いた。
心のどこかに、じんわりと温かいものが広がっていく。
――あれから毎日、蓮は私の隣にいる。
大学まで迎えに来て、一緒に帰って、夕食をとって、ソファで映画を観たり本を読んだりして。
私が「おやすみ」と言うまで、ずっとそばにいてくれる。
それが、もう“日常”になっていた。
広くて静かだった家に、声がある。
笑いがある。
誰かと一緒に過ごす空間が、こんなにもあたたかいものだったなんて、知らなかった。
独りだった日々では知り得なかった幸せ。
それを、今の私は――
いや。
私は、瀬奈ではないのに。
エレオノーラとして生きてきた私が、こんな幸せを得ていいのだろうか。
彼の隣にいる資格なんて、本当は、ないのに。
それでも、どうしようもなく。
彼が差し出してくれる優しさに、私は、何度も心を溶かされてしまう。
けれど、ふとした瞬間に、考えてしまうのだ。
――もし、本当の瀬奈の意識が戻ってきたら。
私は、そのとき、どうなるのだろう。
今は、この身体を、私が使っている。
けれど、本来は瀬奈のもの。
彼女の記憶、彼女の人生、彼女の家、彼女の――蓮。
そう思えば思うほど、胸の奥が冷たくなっていく。
私は、奪ってしまったのだろうか。
彼女の生きる場所も、彼の優しさも――
全部、私のものじゃないのに。
でも、頭では理解しているのに、心が叫ぶ。
いやだ。
消えたくない。
このまま、蓮と毎日笑い合って、ごはんを食べて、一緒に時を重ねたい。
知らなければ、願わなければよかったのだろうか。
独りでいいと、孤独に甘んじていれば、あの夜の温もりに心を揺らされることもなかったのに。
でも――
幸せを知ってしまった。
知らなければ、求めることもなかった。
でも、知ってしまった今――私はもう、自分がいなくなる未来を拒んでしまう。
私は、生きたい。
このまま、瀬奈としてではなく、エレオノーラとして。
彼の隣にいたい。
だけど、それは許されることなのだろうか。
彼は、いったい誰を見ているのだろう。
瀬奈? それとも――私?
時折、蓮の視線が静かに絡む。
その瞳の奥に映っているのが「彼の知っていた瀬奈」ではなく、今の私であってほしいと、願ってしまう。
それが、どれほどわがままで、罪深いことか分かっているのに――