15
静まり返った部屋に、ティーカップが重なる音だけが響いていた。
カーテンの隙間から差し込む夕暮れの光が、私と蓮の影をやわらかく揺らしている。
私はソファの端に座ったまま、ぽつんと呟いた。
「……ありがとう、蓮。来てくれて、嬉しかった」
顔は見られたくなくて、うつむいたまま言葉を継ぐ。
「本当は、もっと強くいられると思ってた。ひとりでも、大丈夫だって……でも、今日……もう、だめかもって、思っちゃって」
声が震える。目元が熱くなり、涙がこぼれそうになるのをぐっと堪えた。
そんな私の隣で、蓮が小さく息を吐いた気がした。
次の瞬間、そっと肩に触れるぬくもり。静かに寄り添ってくれる蓮の存在が、胸をやわらかく満たしていく。
「……無理しないで」
優しい声が、耳に落ちた。
「俺の前では、強がらなくていい」
そう言って、蓮は何も言わず、そっと私の頭を撫でた。
その手のぬくもりが優しくて、愛しくて――もう堪えられなかった。
目を閉じると、ぽろぽろと涙がこぼれていく。
蓮は何も言わずに、ただそばにいてくれた。
「……蓮がいてくれて、よかった……」
涙まじりの声が、思わずこぼれた。
強がることも、気を張ることもない場所。
そんなぬくもりが、今の私には何よりも大切だった。
けれど。
涙が乾いたあと、胸の奥に浮かび上がってきたのは、別の感情だった。
(――この気持ちは、なんだろう)
蓮の優しさに触れるたび、心が甘くしびれる。
一緒に笑って、会話を交わすそのたびに、胸が熱くなる。
彼の手に触れたい。もっと、近づきたい。彼だけに見てほしい――
それは、ただの感謝や安心ではなくて。
もっと深くて、もっと切実で、もっと――求めてしまいたい気持ち。
もう、隠すことはできなかった。
《これが恋なのね》
その答えにたどり着いた瞬間、心が大きく波打った。
でも――
(私は、本当にこの想いを抱いていいの……?)
不安がすぐに顔を出す。
蓮の優しさを壊してしまいそうで、
この気持ちを告げた瞬間、すべてが崩れてしまう気がして怖かった。
私は、瀬奈ではない。
だから私は、何も言えずにただ隣にいた。
胸の奥に芽生えたばかりの、あたたかくて、でもまだ怖いこの想いを、
そっと両手で抱きしめるしかなかった。
やがて、カップの中のお茶は冷めきって、
夜の静寂が部屋を包み込んだ。
「今日は、瀬奈が眠るまで、そばにいるよ」
そう言って微笑んだ蓮の言葉が、胸の奥に優しくしみ込んでくる。
私は頷くことしかできなかった。
夕食は、簡単なものでよかったのにと言っても、
蓮はいつの間にかキッチンに立ち、まるでそれが日常であるかのように準備を整えてくれた。
テーブルの上に並んだ料理は、温かくて、彩りが綺麗で――
何より、そのひとつひとつに、私を想う気持ちが込められているようで。
私は何度も、涙がこぼれそうになるのをこらえながら箸を動かした。
「……美味しい」
そう言うと、蓮は穏やかに笑った。
「よかった。食べれる分だけでいいから無理しないで。」
何気ないそのやり取りが、どうしようもなく嬉しかった。
こんなにも当たり前のように一緒にいてくれる人がいることが、
今の私には、奇跡のように思える。
食事を終えたあと、リビングで少しだけ言葉を交わし、
私は眠気にまぶたを落としはじめていた。
「寝室まで送るよ」
未婚女性の寝室に男性を入れるなんて、本来ならあり得ないこと。
瀬奈の記憶を辿っても、恋人でもないのに、やはり非常識だと思った。
外聞なんてものはここにはないけれど、貞操的にはやはりまずい。
――でも、それ以上に。
今日は、蓮にそばにいてほしかった。
蓮の声に頷いて、ふらりと立ち上がった私を、彼はそっと支えてくれた。
ふわりと香る彼の匂いが、私の心をさらに緩めていく。
ベッドに横になった私の髪を、彼が静かに撫でる。
「……もう大丈夫だから。ゆっくり、おやすみ」
その言葉に、私はそっと目を閉じた。
眠りに落ちる直前、彼の指先が私の頬をなぞるような感触がして、
胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
――そして、どれくらい時間が経ったのか。
ぼんやりと目を覚ますと、時計の針は日付を跨いでいた。
水を飲むため、私は階下へ降りる。
リビングの明かりが静かに灯っていて、そこに彼の姿が見えた。
帰ろうとしていた蓮が、最後に私の方を見つめていた。
「起きちゃった? 俺はもう帰るけど、大丈夫?」
低く、優しい声だった。
だけどその瞳は、どこか遠くを、冷たく見つめていた。
「もう、なにも気にしなくてもいいよ。俺が全部、終わらせるから」
何を、どうやって?――問いかけたかった。
けれど、言葉が喉で詰まって出なかった。
彼の背中が、静かにドアの向こうへ消えていく。
その瞬間、私ははっきりと気づいていた。
あの瞳は――誰かを許さないと決めた人のものだった。
かつて社交界で幾度となく見た、「終わり」を告げる視線だった。
(……蓮)
胸の奥が、ひどくざわめいた。
怖い。
でも、それ以上に――
私は、あの人に守られたいと思ってしまった。
そして同時に、こんな私がその気持ちにすがっていいのか、また自問する。
私は、エレオノーラ。
この世界で「瀬奈」として生きる私に、その資格はあるのだろうか。
揺れる想いと共に、私は再び、まぶたを閉じた。
――静かな夜の、そのすぐ裏で。
誰にも知られぬまま、闇が動き始めていた。