14
翌朝、大学へ向かう足取りは、どこか重かった。
蓮と顔を合わせられなかった昨日が、まだ胸の奥に澱のように残っている。
彼が忙しかっただけ。そう思いたいのに、不安は勝手に育っていく。
それでも――気を取り直して、大学の校舎へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
ざわ……と、空気が揺れる。
誰かが私を見ている。
いや、誰かだけじゃない。すれ違う学生たちの視線が、妙に刺さる。
ひそひそと囁く声、携帯を見ながらちらりと視線を向けてくる女子たち。
「……何?」
まただ。昨日から続いている、あの“違和感”。
けれど、今日はそれが格段に強い。
ただの視線じゃない。悪意を孕んだ明確な敵意が、肌にじりじりとまとわりついてくるようだった。
講義に出ようと教室に入ったとき、それは決定的になった。
「……あの子がそうなんでしょ?授業中に教授に言いがかりつけたって」
「“自分はそういう解釈はしない”とか、“この文献の読み方は間違ってる”って、大声で否定したって……普通、ありえなくない?」
「え、それってヤバくない?」
教室の後方でささやかれていた声が、耳に入る。
内容に心当たりはない――けれど、どこかで聞いたような言い回し。
(まさか……)
座席につきながら、恐るおそるスマホの画面を開くと、そこにはーー
非公式の学生アカウント――いわゆる裏垢――に、まるで自分のことを書いたような内容が複数投稿されていた。
「○○の授業中、教授に逆ギレした女マジで怖い。聞いた話だけど、やばすぎ……」
「この前のプレゼンでも、自分ばっか話してたらしい。空気読めない系?」
「最近、某イケメンに粘着してるとか? 怖……」
(投稿者:サブアカウント、明らかに“身内”が知っている内容)
ひとつひとつの言葉が、胸に杭のように打ち込まれていく。
事実と違う。けれど、訂正する術はない。
名前こそ出ていないものの、どう見ても“瀬奈”を指していることは明らかだった。
思わず視線を落とし、机の下で両手をぎゅっと握りしめる。
心が、ざわつく。
(どうして……私、そんなことしていないのに)
いつもなら、冷静に状況を整理できる。
前世で王太子妃として、数々の策略や噂話にさらされてきた経験がある。
けれど今は――胸が締めつけられて、言葉が出ない。
周りの空気が、冷たい。
誰も、目を合わせてくれない。
挨拶をしても返ってこない。
(蓮……)
その名前が心の中で浮かんでしまう。
こんなとき、彼ならきっと――。
でも、今ここにはいない。
1人で強くあろうとしていたのに、いつの間にか彼に頼ることに慣れてしまっていた。
自分がこんなにも弱くなっていることに、悔しさと寂しさが入り混じる。
講義が終わると同時に、教室を出て図書館に逃げ込んだ。
けれど、そこにも安らぎはなかった。
背後からひそひそと聞こえる女子たちの声。
“あの子、また来てる”
“教授に媚びてるんでしょ”
“イケメンと一緒にいるの、見たことある”
まるで、悪意の濁流に飲み込まれていくようだった。
図書館の奥、陽の届かない静寂の中。
ページをめくる音も、鉛筆の走る音も消えていた。
私はただ、本の影に身をひそめるように座っていた。
背中を丸め、震える指先でノートをめくる。目の前の文字がぼやけるのは、きっと、疲れているせいだ。
「……私は、なにをしているの……」
堪えていたものが、ふいにこぼれ落ちた。
何をしても、誰にも届かない。言葉は曲解され、沈黙は罪になる。
誰かの声が聞こえる気がした。でも違った。
もう、誰も味方なんていないのかもしれない。
そんなふうに思ったその時だった。
ふわりと、肩にぬくもりが落ちた。
誰かの腕が、そっと私の身体を包む。
びくりと小さく震えた瞬間、すぐにその声が耳元に届いた。
「……うちへ、帰ろう?」
その言葉は、まるで冬の陽だまりのように、優しくて、あたたかかった。
耳元にかかる吐息に、ぞくりとするのは、きっと涙がこぼれそうだったから。
私は、なにも言えなかった。
ただ、その胸の中で目を閉じる。何も言わず、何も求めず、包み込んでくれるその腕に、私は初めて自分の弱さを委ねた。
蓮の指が、そっと私の髪に触れる。何も咎めず、ただそこにいてくれる。
その静けさが、心の奥まで染み渡る。
どれほど時間が経っただろう。
やがて私は、小さく頷いた。
言葉なんていらない。ただ一緒にいたいと思えた。
蓮は、それだけで全てを理解してくれたように、私の手をそっと握った。
そして私は、蓮とともに――誰にも邪魔されない、ふたりだけの世界へと帰っていった。