表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/23

14

 翌朝、大学へ向かう足取りは、どこか重かった。

 蓮と顔を合わせられなかった昨日が、まだ胸の奥におりのように残っている。

 彼が忙しかっただけ。そう思いたいのに、不安は勝手に育っていく。


 それでも――気を取り直して、大学の校舎へ足を踏み入れた、その瞬間だった。


 ざわ……と、空気が揺れる。


 誰かが私を見ている。

 いや、誰かだけじゃない。すれ違う学生たちの視線が、妙に刺さる。

 ひそひそと囁く声、携帯を見ながらちらりと視線を向けてくる女子たち。


「……何?」


 まただ。昨日から続いている、あの“違和感”。


 けれど、今日はそれが格段に強い。

 ただの視線じゃない。悪意を孕んだ明確な敵意が、肌にじりじりとまとわりついてくるようだった。


 講義に出ようと教室に入ったとき、それは決定的になった。


「……あの子がそうなんでしょ?授業中に教授に言いがかりつけたって」


「“自分はそういう解釈はしない”とか、“この文献の読み方は間違ってる”って、大声で否定したって……普通、ありえなくない?」


「え、それってヤバくない?」


 教室の後方でささやかれていた声が、耳に入る。

 内容に心当たりはない――けれど、どこかで聞いたような言い回し。


(まさか……)


 座席につきながら、恐るおそるスマホの画面を開くと、そこにはーー


 非公式の学生アカウント――いわゆる裏垢――に、まるで自分のことを書いたような内容が複数投稿されていた。


「○○の授業中、教授に逆ギレした女マジで怖い。聞いた話だけど、やばすぎ……」

「この前のプレゼンでも、自分ばっか話してたらしい。空気読めない系?」

「最近、某イケメンに粘着してるとか? 怖……」

(投稿者:サブアカウント、明らかに“身内”が知っている内容)


 ひとつひとつの言葉が、胸に杭のように打ち込まれていく。

 事実と違う。けれど、訂正する術はない。

 名前こそ出ていないものの、どう見ても“瀬奈”を指していることは明らかだった。


 思わず視線を落とし、机の下で両手をぎゅっと握りしめる。

 心が、ざわつく。


(どうして……私、そんなことしていないのに)


 いつもなら、冷静に状況を整理できる。

 前世で王太子妃として、数々の策略や噂話にさらされてきた経験がある。

 けれど今は――胸が締めつけられて、言葉が出ない。


 周りの空気が、冷たい。

 誰も、目を合わせてくれない。

 挨拶をしても返ってこない。


(蓮……)


 その名前が心の中で浮かんでしまう。


 こんなとき、彼ならきっと――。

 でも、今ここにはいない。


 1人で強くあろうとしていたのに、いつの間にか彼に頼ることに慣れてしまっていた。

 自分がこんなにも弱くなっていることに、悔しさと寂しさが入り混じる。


 講義が終わると同時に、教室を出て図書館に逃げ込んだ。

 けれど、そこにも安らぎはなかった。


 背後からひそひそと聞こえる女子たちの声。

 “あの子、また来てる”

 “教授に媚びてるんでしょ”

 “イケメンと一緒にいるの、見たことある”


 まるで、悪意の濁流に飲み込まれていくようだった。

 図書館の奥、陽の届かない静寂の中。

 ページをめくる音も、鉛筆の走る音も消えていた。


 私はただ、本の影に身をひそめるように座っていた。

 背中を丸め、震える指先でノートをめくる。目の前の文字がぼやけるのは、きっと、疲れているせいだ。


「……私は、なにをしているの……」


 堪えていたものが、ふいにこぼれ落ちた。

 何をしても、誰にも届かない。言葉は曲解され、沈黙は罪になる。


 誰かの声が聞こえる気がした。でも違った。

 もう、誰も味方なんていないのかもしれない。


 そんなふうに思ったその時だった。


 ふわりと、肩にぬくもりが落ちた。

 誰かの腕が、そっと私の身体を包む。


 びくりと小さく震えた瞬間、すぐにその声が耳元に届いた。


「……うちへ、帰ろう?」


 その言葉は、まるで冬の陽だまりのように、優しくて、あたたかかった。

 耳元にかかる吐息に、ぞくりとするのは、きっと涙がこぼれそうだったから。


 私は、なにも言えなかった。

 ただ、その胸の中で目を閉じる。何も言わず、何も求めず、包み込んでくれるその腕に、私は初めて自分の弱さを委ねた。


 蓮の指が、そっと私の髪に触れる。何も咎めず、ただそこにいてくれる。

 その静けさが、心の奥まで染み渡る。


 どれほど時間が経っただろう。

 やがて私は、小さく頷いた。

 言葉なんていらない。ただ一緒にいたいと思えた。


 蓮は、それだけで全てを理解してくれたように、私の手をそっと握った。


 そして私は、蓮とともに――誰にも邪魔されない、ふたりだけの世界へと帰っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ