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 久しぶりに履くスニーカーの感触が、少しだけ不安を和らげてくれる。瀬奈の姿を借りた私は、大学の正門前に立ち、深く息を吐いた。


 ──さあ、始まる。


 通学中も、蓮はずっと大学へ行くことを心配していた。私の歩調に合わせ、荷物を持ち、何気ない話を投げてくれる。しかし、優しさが、時折冷たさのように感じられるのはどうしてだろう。


「教室まで送るよ。人混みもあるし、まだ無理はできないだろ?」


 蓮の声に頷く。誰もが目を向ける蓮の隣を歩くのは、少し気が引ける。けれど、心のどこかで、誰かに見せつけたくなるような誇らしさを感じてしまうのも、また事実だった。


「じゃあ、また後で。無理しないで」


 教室の前まで来ると、蓮は少し名残惜しそうに視線を残し、去っていった。


 その直後──


「あれ? ……瀬奈ちゃん?」


 少し甲高い声。振り返ると、艶のある茶髪をふわりと揺らした女の子が私を見ていた。沙耶。以前の蓮の“友人”というポジションにいたはずの子だ。


「やっぱり! 久しぶり〜! ……退院したって聞いてたけど、本当に来られるとは思ってなかったよ」


 満面の笑み。その奥に、わずかに揺れる光。

 ああ、これが“この人”の距離感だった。


「おはよう、沙耶さん。お久しぶりですね」


 丁寧に返すと、彼女の目が一瞬だけ泳ぐ。そう、私はいつも“沙耶ちゃん”と呼んでいたはず。本人に呼ぶように言われたから。丁寧語を使うのも、珍しいことだったのだろう。


「え、なにその他人行儀。あーそっか。体調悪かったもんね、そりゃ少し性格も変わるか〜。……でもさぁ、なんだかんだ“蓮くん”が毎日お見舞い行ってくれてたんだって? いいよね、幼馴染ってだけで特別扱いしてもらえてさ〜」


 くす、と笑う。笑っているのに、目は笑っていない。


 なるほど。これは過去の瀬奈に対する、見えない棘だ。

 この子はずっと、蓮のそばにいる瀬奈が気に入らなかったのだ。


「……特別扱い、だったんでしょうか?」


 私の声は静かだった。だけど、それが沙耶の耳には別の意味に届いたようで、眉をひそめる。


「え?」


「私はただ、彼に助けてもらってるだけ。幼馴染として、そして……人として、です」


 私の視線は揺れない。社交界で培った表情の奥にある“真意”を見抜く力は、今でも生きている。沙耶の目が、はっきりと困惑の色を浮かべた。


 そしてようやく、彼女は気づくのだ。

 今の“瀬奈”は、もう以前の瀬奈ではないのだと。


「……なんか、雰囲気変わったね。前はもっと……おとなしかったのに」


「そうかもしれません。でも、前より少しは自分を持とうと思ったんです」


 にっこりと微笑む。けれどそれは、受け入れられるための笑顔ではなかった。

 自分を守るための、戦うための微笑だった。



  沙耶とのやり取りを終え、私は一人、教室の席についた。


 誰もがスマートフォンを手にしながら、談笑し、課題について語っている。

 かつての瀬奈は、会話に混ざることもなく、ただそこに“いるだけ”だったのだろう。だからだろうか。周囲は私に大して興味を持つことなく、静かに時間は流れていった。


 ──それが、少しだけ、ありがたかった。


 教授が入ってきて、授業が始まる。前方の壁に“スライド”と呼ばれる映像が映し出され──その瞬間、教室が一気に静まり返った。

 ノートの取り方すら現代的だ。学生たちは画面を見ながらキーボードを打ち込み、質問には活発に手が挙がる。


(なんて効率的なの……)


 まるで魔法のようだった。

 紙とペンだけの世界で育った私にとって、知識がこうも開かれていることに、目を見張る。


 内容もまた、実に興味深かった。人の心の仕組み、社会と文化、環境の変遷──。

 思わず夢中になってしまい、気づけば授業が終わっていた。


(もっと、知りたい)


 エレオノーラとして過ごした日々でも、学ぶことは好きだった。

 ただ、それは教養として、将来の王妃としての義務だった。

 けれど、今は──ただ純粋に「知りたい」と思える。


 教室を出ると、ふと案内掲示が目に入る。


 《図書館 →》


(……図書館があるの?)


 誘われるようにその方向へ歩く。渡り廊下を抜けた先に現れたのは、想像を超えるほど広く静かな空間だった。


 天井は高く、棚には膨大な本が整然と並び、学生たちが静かにそれぞれの時間を過ごしている。


 圧倒された。けれど──心が震えた。


(ここが……知の宝庫)


 目を輝かせながら、ゆっくりと本棚を辿る。

 分厚い歴史書、色鮮やかな美術の本、言語、哲学、心理、科学──そのどれもが未知への扉のようだった。


(読みたい……この世界を、もっと)


 ふと手が止まった。

「死生観と宗教」「時代とともに変遷する愛の形」

 ──不思議と、惹かれるタイトルだった。


 本を抱えて、静かな席に腰掛ける。木製の椅子が小さく軋む音さえ心地よかった。


 ページをめくるたびに、言葉が心に染み込んでいく。

 この時ばかりは、エレオノーラも瀬奈も関係なく、ただ“学ぶ者”としてこの世界と向き合えていた。


 ──こんなに静かで温かい時間があるなんて、思わなかった。


 心の奥に、そっと灯るような感覚があった。

 それは、小さな希望だった


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