10
久しぶりに履くスニーカーの感触が、少しだけ不安を和らげてくれる。瀬奈の姿を借りた私は、大学の正門前に立ち、深く息を吐いた。
──さあ、始まる。
通学中も、蓮はずっと大学へ行くことを心配していた。私の歩調に合わせ、荷物を持ち、何気ない話を投げてくれる。しかし、優しさが、時折冷たさのように感じられるのはどうしてだろう。
「教室まで送るよ。人混みもあるし、まだ無理はできないだろ?」
蓮の声に頷く。誰もが目を向ける蓮の隣を歩くのは、少し気が引ける。けれど、心のどこかで、誰かに見せつけたくなるような誇らしさを感じてしまうのも、また事実だった。
「じゃあ、また後で。無理しないで」
教室の前まで来ると、蓮は少し名残惜しそうに視線を残し、去っていった。
その直後──
「あれ? ……瀬奈ちゃん?」
少し甲高い声。振り返ると、艶のある茶髪をふわりと揺らした女の子が私を見ていた。沙耶。以前の蓮の“友人”というポジションにいたはずの子だ。
「やっぱり! 久しぶり〜! ……退院したって聞いてたけど、本当に来られるとは思ってなかったよ」
満面の笑み。その奥に、わずかに揺れる光。
ああ、これが“この人”の距離感だった。
「おはよう、沙耶さん。お久しぶりですね」
丁寧に返すと、彼女の目が一瞬だけ泳ぐ。そう、私はいつも“沙耶ちゃん”と呼んでいたはず。本人に呼ぶように言われたから。丁寧語を使うのも、珍しいことだったのだろう。
「え、なにその他人行儀。あーそっか。体調悪かったもんね、そりゃ少し性格も変わるか〜。……でもさぁ、なんだかんだ“蓮くん”が毎日お見舞い行ってくれてたんだって? いいよね、幼馴染ってだけで特別扱いしてもらえてさ〜」
くす、と笑う。笑っているのに、目は笑っていない。
なるほど。これは過去の瀬奈に対する、見えない棘だ。
この子はずっと、蓮のそばにいる瀬奈が気に入らなかったのだ。
「……特別扱い、だったんでしょうか?」
私の声は静かだった。だけど、それが沙耶の耳には別の意味に届いたようで、眉をひそめる。
「え?」
「私はただ、彼に助けてもらってるだけ。幼馴染として、そして……人として、です」
私の視線は揺れない。社交界で培った表情の奥にある“真意”を見抜く力は、今でも生きている。沙耶の目が、はっきりと困惑の色を浮かべた。
そしてようやく、彼女は気づくのだ。
今の“瀬奈”は、もう以前の瀬奈ではないのだと。
「……なんか、雰囲気変わったね。前はもっと……おとなしかったのに」
「そうかもしれません。でも、前より少しは自分を持とうと思ったんです」
にっこりと微笑む。けれどそれは、受け入れられるための笑顔ではなかった。
自分を守るための、戦うための微笑だった。
沙耶とのやり取りを終え、私は一人、教室の席についた。
誰もがスマートフォンを手にしながら、談笑し、課題について語っている。
かつての瀬奈は、会話に混ざることもなく、ただそこに“いるだけ”だったのだろう。だからだろうか。周囲は私に大して興味を持つことなく、静かに時間は流れていった。
──それが、少しだけ、ありがたかった。
教授が入ってきて、授業が始まる。前方の壁に“スライド”と呼ばれる映像が映し出され──その瞬間、教室が一気に静まり返った。
ノートの取り方すら現代的だ。学生たちは画面を見ながらキーボードを打ち込み、質問には活発に手が挙がる。
(なんて効率的なの……)
まるで魔法のようだった。
紙とペンだけの世界で育った私にとって、知識がこうも開かれていることに、目を見張る。
内容もまた、実に興味深かった。人の心の仕組み、社会と文化、環境の変遷──。
思わず夢中になってしまい、気づけば授業が終わっていた。
(もっと、知りたい)
エレオノーラとして過ごした日々でも、学ぶことは好きだった。
ただ、それは教養として、将来の王妃としての義務だった。
けれど、今は──ただ純粋に「知りたい」と思える。
教室を出ると、ふと案内掲示が目に入る。
《図書館 →》
(……図書館があるの?)
誘われるようにその方向へ歩く。渡り廊下を抜けた先に現れたのは、想像を超えるほど広く静かな空間だった。
天井は高く、棚には膨大な本が整然と並び、学生たちが静かにそれぞれの時間を過ごしている。
圧倒された。けれど──心が震えた。
(ここが……知の宝庫)
目を輝かせながら、ゆっくりと本棚を辿る。
分厚い歴史書、色鮮やかな美術の本、言語、哲学、心理、科学──そのどれもが未知への扉のようだった。
(読みたい……この世界を、もっと)
ふと手が止まった。
「死生観と宗教」「時代とともに変遷する愛の形」
──不思議と、惹かれるタイトルだった。
本を抱えて、静かな席に腰掛ける。木製の椅子が小さく軋む音さえ心地よかった。
ページをめくるたびに、言葉が心に染み込んでいく。
この時ばかりは、エレオノーラも瀬奈も関係なく、ただ“学ぶ者”としてこの世界と向き合えていた。
──こんなに静かで温かい時間があるなんて、思わなかった。
心の奥に、そっと灯るような感覚があった。
それは、小さな希望だった