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9

 食後、蓮はソファの上で紅茶の湯気を見つめる彼女の横顔をそっと見つめながら、静かに口を開いた。


「……来週から、大学行くんだよね?」


 エレオノーラ――瀬奈として生きる彼女は、手の中の温かい紅茶を見つめながら、ゆっくりと頷いた。


「うん。医者からも許可は出たし、家でじっとしてるのも……そろそろ退屈だもの」


「でも、まだ本調子じゃないでしょ。……無理しなくていい」


 その声は穏やかだったけれど、どこか刺すような強さがあった。

 優しいだけじゃない――どこか、手放したくないという気配がにじんでいる。


 けれど、それがなにに対する執着なのか、エレオノーラにはまだはっきりとはわからなかった。


(彼のことは“知ってる”。でも、“わかってる”わけじゃない)


 瀬奈の記憶としての蓮。

 幼なじみで、いつも傍にいてくれた優しい彼。

 けれど、今目の前にいる彼は、その記憶の中の彼とは少し違う気がしてならない。


「……大丈夫。もし体調が悪くなったら、すぐ休むし」


 そう言って笑いかけると、蓮はほんの少しだけ眉をひそめた。


「じゃあ、俺、朝迎えに行くよ。帰りも送る」


「え……でも、そんなの悪いわ」


「悪くないよ。俺がそうしたいだけだから」


 まっすぐな言葉に、エレオノーラは返す言葉を失った。


 それはまるで、彼女の意思など関係ないような響きだったけれど――

 それが、どこか懐かしくもあり、温かくもあった。


(この世界で、誰かにこうして気にかけられるのって……慣れてない)


 貴族の娘として、愛されず、期待ばかり背負わされていた日々。

 誰かが、自分を“心配”するなんてこと――本当は、ずっと欲しかったのかもしれない。


「……ありがとう。お願い、するわ」


 素直にそう言えた自分に、少し驚く。


 蓮は、それを聞くと少しだけ微笑んだ。

 けれど、その笑みに込められた意味までは、まだ読み取れなか



「あと……頼みがあるんだ。無理にとは言わないけど……」


 蓮の声は静かだったが、その奥には抑えきれない切実さがあった。


「俺に合鍵を……くれないか?」


 その言葉に、エレオノーラは一瞬、驚きの表情を浮かべた。


「……合鍵、ですって?」


「うん。君が一人でここにいるのは分かってる。両親は海外で仕事してるし、君が倒れたりしてないか心配で……何かあったらすぐに駆けつけたいんだ」


 蓮は言葉を続けた。


 その告白に、エレオノーラの胸の中に複雑な感情が渦巻いた。


 恐れ。戸惑い。

 でも、それ以上に……


「……わかったわ。合鍵、渡すわ」


 合鍵を渡すことの意味がわからないほど、私も無垢ではない。彼が何かするとは思わないけれど、男性に合鍵を渡すことの危うさぐらいは理解している。

 それでも――

 心のどこかで、彼の存在にすがりたいと思っていたのだ。



 蓮は柔らかく微笑み、そっと手を差し出した。


「ありがとう。絶対に君を守るから」


 その言葉に、エレオノーラはかすかに震える指で合鍵を握った。



 翌朝──。



 けたたましい目覚ましの音とともに、エレオノーラはもぞもぞとベッドの中で身じろぎをした。

 目を開けたとき、ほんの一瞬、ここがどこか分からずに戸惑う。それでも、すぐに“瀬奈”としての部屋の記憶が浮かび上がってきた。


「……今日から、大学……」



 ぽつりとつぶやいたその時だった。

 カチャ、と1階からカチャカチャと音が聞こえた。


 エレオノーラは身を起こし、顔をしかめた。


「まさか……」


 寝癖も気にせずに部屋着のままリビングに向かうと、やはりそこには、エプロン姿で慣れた手つきで朝食の準備を進めている蓮の姿があった。


「おはよう。ちょうどできたところ」


 蓮は振り返って微笑む。

 まるでここが自分の家であるかのような自然な動き。


「……蓮、いつから来ていたの?」


「鍵、もらったからね。寝坊してても、ちゃんと朝ごはん食べていけるようにって思って。体調のこと、やっぱり気になるし」


 蓮の声は穏やかだったけれど、その目には確かな決意と、どこか張り詰めた執着のようなものが滲んでいた。

 “守りたい”という思いが、彼のすべての行動の源になっているのだと、エレオノーラは感じた。


「……普通、そこまでするかしら……?」


 ぼそりと呟いたその言葉に、蓮は手を止めてエレオノーラを見つめる。


「.......俺がしたいから、してるんだよ。」


 その言葉の意味は、深く、重かった。

 エレオノーラの胸の奥に、ゆっくりと温かさが広がる。けれど同時に、得体の知れない何かが、背筋を這うように忍び込んでくる。


「……ありがとう。食べるわ」



 彼の気持ちを正面から受け止めるのは、今はまだ怖かった。

 だからエレオノーラは、わずかに視線をそらしながら、テーブルについた。



 そうして静かに始まった、彼と自分の、不思議で穏やかな“朝”。

 ──それが、大学復帰の第一歩となる日だった。


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