最後の神
あの世の終着点は、光にあふれていた。
環は、川が切れて滝となっている崖の上から、最後の町を眺めていた。
広大で果ての見えない草原は、小麦のような金色に輝いている。滝がのびて再び川となり、遠くにある大樹まで続いている。木には桜のような淡いピンクの光が咲いていた。蛍のように飛び交う光は、その花びらなのだろう。空は春の夜明けのようなパステルのグラデーションに染まっていた。
川を軽々泳いでいく魂に、表情はない。それでも、シュタインのときのように、環には笑っているように見えた。
観察していると、滝壺から川へ降りた魂のうち、川から弾かれるものがあるようだ。おそらく、後悔や未練が残っている者なのだろう。弾かれた魂は星型をしており、重い足取りで草原を歩いている。
第五の町で、理想の来世に生まれ変わるには、魂のエネルギーが必要だと聞いた。不誠実に生きてきた者は、最後の最後でエネルギーを削られ、理想の来世に生まれ変わることができないのかもしれない。
地獄でも天国でもないあの世でも、生きてきた結果は確実に反映されている。残酷なようで、正当だ。環は口を引き結ぶ。いつか自分が生きてきた結果も、ここで反映されるのだ。
崖を蹴って、大樹へ向かう。花びらの光がたわむれるようにまとわりつき、自然とスピードはゆっくりになる。
大樹に近づくと、木の上に誰かが立っているのが見える。きっと、この町の神だろう。環は高度を落とす。上から対面して良い相手ではない。
大樹までいきついた川は、幹をはいのぼっていた。川によって大樹の枝まで運ばれた魂たちは、光の花びらにのってふわふわと飛んでいく。そして、淡い色の空に吸い込まれていった。
その空が次の人生に続いていることは、環にも分かった。
歩いて草原を越えた魂は、木の幹も自分で登っていく。途中で力尽きて、落ちてしまう者もいた。なんとか花びらに乗れた魂も、つぶれた餅のように元気がない。
これがあの世の終着点であり、この世への出発点。
やっとここまで来たんだ。環は抜けそうになる力をぎゅっと引き締める。本番はここからなのだ。魔物に敗れるわけにはいかない。天使たちでも歯が立たなかったというから、きっとヒネよりもずっと手ごわいだろう。神からの武器を借りていようと、簡単に越えられるものではないはずだ。
大樹の前で、草原に降りる。上にいる神は、意外にも娘の姿をしていた。
長い黒髪に、黒い瞳。陶器のように白い肌は、まるで日本人形のようだった。自分と同じくらいの歳に見える。白い着物を金色の帯で締めており、薄紅色の半襟がアクセントになっていた。
『お待ちしておりました。夜見環さん』
口を開けていない。直接声が響いてきている。
「あなたが、この町の神……」
『そうです。娘の姿で、驚きましたか?』
心の内を覚られて、ビクッとする。
『私に姿はありません。親しみが湧くよう、あなたの属性に合わせて仮の姿を作ったまでです』
仮の姿だからなのか、表情が全く変わらない。
『ここまでのあなたの道のり、全て見させていただきました。第五の町では、私のことを呼ぼうとしていましたね』
「……もしかして、第二の町で聞いた『上位存在』というのは、あなたのことだったんですか」
『はい。私は全ての魂の母にして、あの世の管理者。神々を監視する存在です』
黒い瞳に、宇宙のような光が宿る。この神に隠し事はできないのだろう。
『だからこそ、神々の性格も熟知しています。よく対応してきましたね。あなたに武器を貸さないのではという神もいましたが』
環は思わず苦笑する。困難の連続が頭をめぐった。
「大変でした。でも……成長もさせてもらったんです。私、私に向き合う覚悟ができました」
表情の変わらない神が、一瞬微笑んだような気がした。
『それは、あなたが真っ直ぐな心で生きてきた証です。よく頑張りました』
神がゆったり手を上げると、環を中心につむじ風が吹く。辺りをぼんやりと漂っていた花びらが、環に集まる。花びらは光輪となり、環の頭の後ろで輝いた。
『この町の武器、エウロギアです』
環には自分の頭上で輝く武器を見ることができなかったが、温かさと力を感じていた。全身を包む安心感に、自然と自信がみなぎってくる。
『ここまで無事にたどり着いたあなたへの、私からの祝福です。他の武器は神から借りたものでしょうが、これはあなたに与えたもの。困難が続く限り、あなたを守ってくれるでしょう』
「ありがとうございます」
環は深く頭を下げた。
『最後にひとつ、あなたに伝えたいことがあります』
残ったつむじ風が、あの世の管理者の黒髪をふわりとなびかせた。
『誰しも、生まれた瞬間から寿命が定められています。その日まで、たとえどんな目に遭おうとも、死ぬことはないのです。それは、個々人の存在に使命があるから。使命とは、成し遂げるものがあるという意味ではありません。パズルのピースと同じです。その場所に存在することに、大きな意味がある』
神の姿が、空へ溶け込むように消えていく。若々しかった声は、大いなる母にふさわしい低い響きをまとっていった。
『今、あなたの体には別のものが入っています。それは人類というパズルの絵を乱す由々しき事態です。エウロギアは、この悪しき歪みを正す力を持っています。大丈夫。あなたは決して負けません』
大樹が強い光を放つ。環は、ぎゅっと目を瞑った。温かさが全身を包み、足元が崩れていく。
大きな波に押されるような感覚が、環を襲い続ける。しかしそれは荒れ狂う海のようではなく、穏やかな波のようだった。環は、母の胎内を思う。生まれる前の十月十日、人は海に抱かれているのかもしれない。
やがて光が消えて、恐る恐る目を開ける。
環は、あの日倒れていた河原に立っていた。
「おっかえり~」
真夜中の橋の上から、自分の体が手を振っていた。
いつも読んでくださってありがとうございます!
物語はラストスパート。環の行く先を、ぜひ見届けてくださいね。