海の底には町がある
「すみませーん」
青年に声をかけるが、聞こえなかったのかピクリとも反応しない。
「すみません!」
近づいて、大声を出す。
「はい?」
やっと顔を上げた青年は、神経質そうな顔をしていた。
「あの、トンネルでも本を読んでましたよね」
「ええ」
「本、お好きなんですね」
「好きだよ。用件はそれだけ?」
「いえ、ちょっとうかがいたいことがございまして」
「今いいとこだから、手短にお願いしたい」
「本は、この世から持ってきたんですか?」
「用件って、もしかしてそんな質問?」
青年が、悪気はなさそうに首をかしげる。
「違いますよ。興味持っただけ」
「第一の町で買った……というか、もらった。プルーストの『失われた時を求めて』。生きてる間に読み切れなかったからありがたいよ」
「はあ」
聞いたこともない本に、尋ねておいて生返事をする。
「面白いんですか」
「そりゃ、死んでからも読むくらいだから。で、用件は?」
「すみません、これも前提として確認しておきたいことなんですけど、ゴールには向かわなくていいんですか?七日で次の町につかないと発狂するらしいですよ」
もし彼が晴山のように掟破りな人間だったら困る。環は一応確認をはさんだ。これで目を泳がせたりしたら、頼らない方がいい。
「何その話。聞いてないんだけど」
青年は目を見開いた。
「トンネルでアナウンスしてたじゃないですか」
「アナウンス?」
「もしかして、魂が消されていたのも知らない?」
「そんな恐ろしいことがあったの」
両目をさらに見開く。晴山のような人間ではなさそうで、内心ホッとする。
「トンネルに入ったときからずっと本を読んでたんですか」
「うん。ランタンの灯で。歩きながらでも意外と読めるから、あの世は読書環境としては最高だ」
環は唖然とした。寒々しいあのトンネルで本を読むなんて、気が滅入りそうだ。
「じゃ、俺は行かなくちゃ。教えてくれてありがとう」
青年がボートを漕ぎ始める。
「ちょっと待ってください。本題はここからです」
環は彼を追う。
「七日しかないんでしょ?距離もわからないのに。すでに出遅れてるから巻き返さないと」
話も聞かずに青年はボートを漕ぐ。この人もマイペースだなと環は必死についていく。
「ですけども!神にも解けない問題に興味ありませんか?」
「神に解決できない問題……?」
青年が急に止まる。勢いよく進んでいた環のボートがぶつかった。
「うわ!」
二人のボートが横転し、海に落ちる。
資料が散らばってしまう。目を開いた環は、海中に広がる光景に瞠目した。
海の底には、町があった。ナルディラが、忙しさのあまり町を沈めてしまったと言っていたことを思い出す。石造りの建物の上で、光のカーテンがゆらめいている。光が届かない場所には凝縮した青が溜まり、青だけの濃淡で視界がいっぱいになる。
しばらく見とれていた環は我に返る。資料がどこかへいってしまう。慌てて探すが、どこにもなかった。
青年にも手伝ってもらおうと、海から顔をあげる。
「自殺教唆の重大性について再定義したい、と……」
仰向けに浮かんだ青年が、資料を読んでぶつくさ言っている。
「すみません、拾ってくれたんですね」
集中しているのか、彼は答えない。環はボートに戻る。魂だからなのか、少しも濡れていなかった。
青年が紙をめくる音が響く。瞬く間に読んでしまうと、環のボートに上がってきた。一人乗り用のため、かなり狭くなる。
「あなたのボートあっちですよ」
「あ、そうか。これありがとう」
青年が環に資料を返し、自分のボートに戻ろうとする。
「うわっ」
滑って海に落ちた。
「あれまあ……」
けっこうどんくさいのかもしれない。
「ぷはっ、下が町になってるんだね」
青年が顔を出す。ズレた眼鏡をかけなおした。
「今気づいたんですか」
「さっきは資料を拾うのに必死だったから」
「その件はありがとうございます」
環は手を差し出す。青年が環のボートに上がってくる。今度は落ちずに、自分のボートに戻ることができた。