2-4:オオカミくんたち
ジュリアの視線がちらと屋内プールにいって、獲物をとらえた獣のようにパスタに向いた。
「こちらとしてはイヤリングを返してもらえばそれでいい。でもそうね、お礼に記憶を治してあげる」
ジュリアの手が伸び、パスタの顎を2本指でクイと持ち上げた。やわらかい指先が、パスタの髭をじょりと撫ぜる。
そして蚊にでも問いかけるように、宙に独り言ちた。
「……ミリアム。ロレンツォの記憶の修復を」
そっと手が離れると同時、ジュリアの頭ががくりと下がった。糸の切れた操り人形のような様子に、パスタはおっかなびっくりに身を引く。
「な、なんだよ。どうかしたのか?」
やや間があった。再び声をかけようと思った矢先、ゆっくりと顔が上がり……どういう手品か、ジュリアの目の色は黒から青に変わっていた。
『……チッめんどくせェ』
青目のジュリアは舌打ちひとつ、デスクにどんと足を組む。顔をこれでもかとクシャつかせ、屋台飯が床に落ちるもかまわず、床に下品にツバを吐いた。
綺麗なレディはどこへやら、目の前のジュリアはスラムのチンピラそのものだ。
「な、なんか雰囲気変わった?」
あっけのパスタを、ジュリアは睨みあげるように一瞥した。綺麗な形の唇から、成人男性の声が漏れる。
『……俺はミリアム。北条ジュリアに寄生する、エキゾチック型エイリアンだ。エキゾチックは脳組織も再生できる。俺がお前の脳と記憶を再生してやるよ』
とたん、周囲の浴客がパスタの両腕をかかえ、立ち上がる。
「えっ、ちょ……え!?」
すぐさま子供たちが両足に飛びつき、パスタはあっというまに拘束された。まさかこれから腹を思い切り殴られるのではと目覚めるように顔をあげる。
ミリアムはデスクを蹴り飛ばしてバネのように立ち上がり、うんとパスタに顔を近づけた。鼻先がツンと触れる。
そのままおねだりする恋人のようにパスタの肩に両腕をかけ、頬をねっとり舐めあげた。そのまま耳たぶを甘噛みされ、パスタは思わず童貞のような声をあげる。
「!? うひぇぁっ、えっなっななッな何ッ……!?」
ミリアムは嘲笑一つ胸を押し付け、パスタの耳元で悪魔のように囁いた。
『浴客は全員、俺の配下だぜ。ヒトはほとんどが水でできてるし、水は俺の領域だ。浴びりャ俺の意のままだ』
パスタはまさかと周囲をみた。パスタを抑える浴客たちはうつろな目でぼんやりしている。その力は人間のそれとは思えぬほどの怪力だ。
ぞっとするパスタに、ミリアムの鼻がスンと動く。
『……お前、い~いニオイがするなァ? 俺のパパも、こんなニオイがしてた』
言って、パスタの頬を両手で挟む。応えるように、浴客たちはパスタの体を締め上げた。
「ちょ、ま、っ待て、待っ──」
困惑するパスタの言葉をふさいだのは、ミリアムの口づけだった。ミリアムのゼリーのように柔らかい唇に、パスタは全身に電流が走ったかと思った。スレンダーながらもセクシーな体がぴったりと密着し、舌先が歯の間にぬるりと滑り込む。
とたん、パスタはぎょっとした。まるでコンニャクをうんと硬くしたようなそれは、舌というには異様に長い。
そのまさに一瞬のことだった。パスタの喉奥に、舌が矢のように入り込む。
パスタは苦痛に顔を歪ませ、反射的に手足をばたつかせた。吐き出そうと懸命に叫んだが、浴客たちは逃がすまいとパスタの体をヘビのように締め上げる。喉の奥が無理やりこじ開けられ、流れ込む何かに呼吸が奪われる。
同時、うなじの奥で何かがプツと刺さった感覚があった。冷たい何かが脳に広がる感覚と同時、意識がみるみる遠くなる。
視界はぼやけ、セミの声が投げるようにぶつりと途切れた。
プールサイドに影2つ。ゴハンとパンは、まるで対岸の火事のように惨状を眺めていた。
かけつけた2人が見たのは、ジュリアに寄生するエキゾチックがパスタに乗り移る瞬間だった。
息をひそめるパンの視線が、周囲を舐めるように伺う。パスタを捕らえる浴客以外はマネキンのように動かない。
「浴客はすべてジュリア……もといエキゾチックの意のままか。エキゾチックは水場に溜まるというが、人から栄養も奪えるとあって、まさにうってつけの潜伏先だな」
パスタへの侵入を半ばで切り上げたミリアムは、残りのスライムを呑み込んだ。
白目を剥くパスタが膝をつき、力なくその場に倒れ込む。浴客たちは何事もなかったかのようにプールへと戻っていった。
フゥと一息、ミリアムの目がじろりと柱の人影に向く。
人影ことMIB。先陣を切ったパンが、隠しナイフを手にミリアムに歩み寄る。
「久しぶりだな、北条ジュリア」、言いもって流れるように切っ先を向ける。
その隣で、陽気なナンパ男ゴハンがひらひらと手を振った。
「よぉ、話終わった? ひと泳ぎいこうぜ~」
ミリアムは百も承知に向き直った。心底面倒くさい顔で睨みつける。
『……うッせェ、MIB。言いたいことがあンなら言えよ』
財布でも出すかのように、さてとゴハンが銃を抜く。
「その声、ミリアムか。お前なんでジュリアちゃんに寄生してんの?」
ミリアムはまばたきひとつ。眼の煌めきが、青から黒に戻った。
「……北条ジュリアよ、今はね」
ジュリアは溜息のように一言。気だるげに倒れた椅子を直し、静かに腰を落とす。
とたん、黒豹チビがプールからザバとあがった。水を含んだ滑らかな毛が、海原のように太陽を照り返す。
思わず一歩身を引くパンを横目、チビはのんびりジュリアの隣におすましした。ジュリアの白魚のような指が、肘置きがてらチビをなでる。その風貌は避暑地の気だるげな女優のようだ。
「アーロンはいないわ。どこにいるのかもわからない。でも協力はしてあげる」
パンはチラと、床でくたばるパスタを見た。パスタは絞められた魚のように痙攣している。エキゾチックにやられた時の典型的な末梢神経反射だ。パンが煽るように切っ先を揺らす。
「一体どういうつもりだと訊いている。その男はMIBだ、危害を加えたとあらば交戦も辞さないぞ」
ジュリアはどうということなく、ゆったり扇を仰ぐように返した。
「ミリアムを半分飲ませただけよ。彼の脳、半分無いもの」
「無い?」
「ええ、左脳の大半が脳脊髄液だけみたい。記憶がないのもそのせい。だから元通りに再生中。別に獲って食いやしないわ」
ゴハンとパスタは見合って、敵意のないジュリアに拍子抜けた。エキゾチックは分化すればするほど力が激減する。今のジュリアは浴客全員を操っている状態からさらにパスタに分化しているため、MIBよりうんと弱いのだ。
ゴハンは両手を軽くあげてみせ、銃をおさめた。
「まさかミリアムと一緒とはね。一体何があったんだよ?」
言いもってふと、チビの熱い視線に気付く。チビの目はゴハンの足元……床に落ちた屋台飯に釘付けだ。視線そのままゴハンの足元につき、伺うようにジュリアに振り返る。
『ジュリア、たべていー?』
チビの少年のように可愛らしい声に、ジュリアはゆったり頷く。
「容器は食べちゃダメ」
チビは『やったあ』とチキンの骨をひと舐めでたいらげた。子猫のように床を舐める仕草は昔のままだ。
ゴハンが目を丸くして、思わずジュリアに問いかける。
「あの可愛かった子猫チビが、こーんなでっかくなっちゃって! 猫じゃなくて豹だった?」
『……チビの半分はビッグメンだ。だからそンなに大きくなッた』
青い瞳のジュリアことミリアムはそう言って、王様のようにソファに座りなおした。
ゴハンは転がった椅子をたてなおし、ミリアムの対面に腰かけ肘をつく。
「あっそ。ビッグメンはエレナちゃんのレンズでぶっ飛んだと思ってたけど」
その目は尋問する軍人のそれだ。ミリアムの視線がじろりと上がり、ゴハンを睨む。
『レンズの光で、穢れていた生体細胞だけが消滅したンだよ……。残った欠片をサムソンが回収して、チビの中で培養したンだ』
2人の間を取り持つように、パンが手元のライトをさす。ライトはホログラムとなって、デスクに映像を映した。
映像は【北条家虐殺事件の計画書】だ。ミリアムの視線がちらと動くも、興味なさげに視線をそらす。逃がすまいと、パンが刑事のように問いかけた。
「君はなぜ、北条邸の地下にいた? この書類も知っているはずだ。答えろ」
ミリアムは無言で目を閉じた。やがて、黒い瞳が力なくパンを見る。黒い瞳……ジュリアだ。
ジュリアは髪を耳にかけ、悩まし気なため息ひとつ。
「アーロンに最後に会ったのは、2年前のあの日……先生が死んだ日よ」
言って、二日酔いのようにうんざり頭をもたげた。その視線はぼんやり遠い。
「ミリアムと1つになった私は、初めてその【北条家虐殺事件の計画書】を見たの……」
ジュリアは心ここに非ず、ぼんやりと蚊を負うような目でパスタをみる。パスタの脳を修復中のジュリアの思考には、パスタのこれまでの情報が次々と展開されていた。ジュリアが小さく独り言つ。
「……恋に夢見るあの子がどうしてこんな、どこにでも転がってそうな男なんかにとは思ってたけど。……わからなくもないわ。ううん、無理もない」
パンとゴハンの視線が合う。合って、パンはジュリアをじっと見下ろした。
「どういう意味だ、北条ジュリア」
「外見だけのバカ野郎にはもうこりごりなんでしょ」
外見だけ、の言葉にハンサムなパンが不快に眉根を寄せる。咳払いひとつライトをおさめ、石のように硬く告げた。
「北条ジュリア。ミリアムと共に本部へ出頭しろ。重要参考人として身柄を拘束する」
ジュリアはあくびひとつ、犬の水払いのように頭を振った。それと同時、パスタが応えるように痙攣し、口から半透明のナメクジが溢れ出る。
ナメクジことエキゾチックは、こぼれた水を逆再生するかのようにジュリアの足元に流れ着いた。そっとすくいあげられ、するりと口に戻っていく。
ジュリアは艶やかな唇を舌でなぞり、白い指先が透明な糸を引いた。
「……記憶は治してあげた、じきに目覚めるわ。もうこれ以上用はないでしょ」
ゴハンの飄々とした目が一瞬陰る。
「せっかくだからさ、一緒に本部に来てくんない? ちょーっと顔出すだけでいいからさ、ね?」
添えるように、パンがずいと前に出る。逃がすまいとするMIBかまわず、ジュリアは指をひとつ鳴らした。浴客たちがぞろぞろとMIBを取り囲む。ジュリアは気だるげに髪をかきあげた。
「嫌よ。悪いけど私、貴方たちほど暇じゃないの」
肉の壁となった浴客たちに、MIBはしぶしぶ銃口を上げる。浴客たちに守られるジュリアは悠々と出口のドアに手をかけ、肩越しにMIBを見た。
「2年前の約束、覚えてるかしら」
「約束?」
「MIBが白いスーツ男……【真犯人】を見つけたら、本部とやらに面を出してやってもいいって約束」
その言葉にゴハンがパンと見合って、思い出しまま頷いた。
「それって、アーロンを捕まえたら本部に来るってこと?」と。
ジュリアはきゅうと目を細め返す。
その時だった。どよめきに似も似た浴客たちの声にMIBが振り返る。
「うそ、あの人すごくかっこいい……!」「えっ何? 映画の撮影!?」
次々と黄色い悲鳴をあげる浴客たちや、呆然と見惚れる浴客たちを皮切りに、正気に戻った人々が我先にとパンに押し寄せる。
ジュリアは帽子を手でおさえ、船出を見送るような優雅さで手を振った。
「じゃあね、オオカミくんたち」
押し寄せる浴客に、パンはやむなくオプトジェネティクスレーザーを点灯した。ストロボのような閃光と同時、浴客たちが柳のように揺れ、その場で次々と膝をつく。
ゴハンとパンはとっさに出口を見た。ジュリアの姿はどこにもなく、プールに残るはMIBと、ぶっ倒れた浴客たちだけだった。