2-3:デュミナス
屋台の匂いに、緊張しきりでマヒしていた胃袋が目覚める。
イラつくのは空腹による低血糖のせいだ。屋台のスタミナ焼きに生唾をのみ、パスタはそう自分にいいきかせた。
ちょっとでも腹に入れとかないと、判断力も鈍るぞ。
その隣で揚げたてのポテトが心配し、そばの炭酸ドリンクがそうだそうだ! と声をあげる。
気付けば会計を終えていたパスタは、ゴハン達の冷ややかな視線を感じつつ、屋外プールのドアを抜けたのだった。
大きな岩壁に囲まれた屋外プールは、岩壁に囲まれたオアシスのようだった。
セミの大合唱がパスタを歓迎する。アマゾン河にみたてた流れるプールに、森の屋根が煌びやかな光を落とす。爽やかな緑の香りが心地いい。……周囲の妙な浴客達を除いては、人気があるのも頷けるスポットだ。
さてと周囲を見渡すも、怪力女こと北条ジュリアの姿はなかった。鬼のいぬ間に何とやら、パスタはそそとパラソルベンチに腰を掛け、ようやくの食事にかぶりつく。
まさに1年ぶりの食事だった。絶食後の食事は脳汁ものだと耳にしたことがあるが、それはまさに事実だろう。肉のうまみに脳が震えるのがわかる。
パスタはフードファイターのように次々口に放り込み、サムライ・ソースまみれの唇をなめ、ドリンクを煽るように飲んだ。
綺麗にしゃぶりつくされた手羽先の骨が次々皿に転がる。10本目にかぶりついた時、テーブルがふと陰った。
パスタが視線を上げると、秘密基地でパスタをぶん投げた怪力女……〔北条ジュリア〕が、太陽を背にパスタを見下ろしていた。
「相席いいかしら」
パスタは思わず真顔でチキンを噴き出した。北条ジュリアがさっと避け、足元の肉片に舌打ちひとつ。吐き捨てるように一言。
「きったないわね……」
「す、すまない。いきなり来るとは……」
慌てたパスタはお手拭きであちこちぬぐって、どうぞといわんばかりに対面の席に手をやった。
北条ジュリアはセクシーな黒い水着と、白いロング丈ラッシュガードという洒落た恰好だった。どこぞの女優かと思うほど大きな帽子と、ラインストーンがきらめくサングラスがよく似合う。まるで石油王の情婦のような、年齢不相応の余裕と色気があった。
そして何より、敵意はまったく感じられなかった。北条ジュリアは白くしっとりとした生足を組み、デスクに片肘をつき屋台飯を指す。黒いネイルがちらと光った。
「食べてからでいいわ。お腹、空いてるんでしょ」
パスタは思い出したかのように、ポケットに手を突っ込んだ。ずいと手の平を突き出す。
「あの、これ」
ジュリアは手の平のガーゼを見て、視線だけ上げてパスタを見た。美獣を思わせる黒の瞳にパスタが映る。ジュリアの長い睫毛がふせ、ガーゼにそっと指先を沈ませた。
白魚のような指先に、銀色のイヤリングが光る。ジュリアはふっと目を細め、イヤリングをつけた。目を閉じ、耳を手で包むように当て、安堵のため息をつく。
やっと人心地ついたようなほころびに、パスタは叱られた犬のように頭をさげた。
「勝手に持ち帰って悪かった。その……ごめん」
パスタの声に、ジュリアはしずかに視線をあげた。
「……わざわざガーゼに包んでくれたのね」
パスタは一瞬きょとんとして、軽く頷いた。「ああ、大事だろうと思って」
ジュリアは微かに笑み、近くの従業員を指で呼んだ。
「追加でコーヒーを奢るわ。食べ終わるまで話を」
ジュリアの質問はシンプルだった。
なぜ生きているのか。どうしてMIBとツルんでいるのか。この2点だ。
パスタは食べながら答えた。
アーロンとかいう男に殺され、丸1年の記憶がないこと。いきなりMIBになれと脅されたこと。できれば今すぐでも家に帰りたいことも付け加えて。
ジュリアが紅茶を一口。
「レンズが使えるそうね」
「ああ、そうみたいだ」
ジュリアは鼻で長溜息ひとつ、デスクに肘をつき、手の甲に顎を乗せる。
「……レンズにAと呼びかけて、スマートアシストのように指示を出してみて」
「これ、そんなこともできるのか? ええと……。」
パスタが審判カードのように、指先でレンズを立てる。「A、今の時間は?」
『10時20分です』
「ありがとう」
『お役に立てて光栄です』
パスタはさてとジュリアを見た。ジュリアは神妙な面持ちだ。綺麗な形の唇が、力抜けに動く。
「レンズが使えるということは、〔デュミナス〕……つまる資格があるということよ」
言って、熱にうなされるように額に指を当て、受け入れがたい様子に首を振った。
「本当に使えるなんてね。あの子、こんなパッとしない奴のどこがいいのかしら」
ぽつりと呟くジュリアに、パスタは目をしばたたかせた。
「あの子?」
ジュリアは答えず、頭のてっぺんからつま先まで、まじまじとパスタを見た。
パスタは野暮ったく、売れないお笑い芸人のような印象だ。鶏ガラのように細い体に、浮浪者のような無精ひげ、肩ほどまである鳥の巣のような癖っ毛。不潔感もこの上ない。
ジュリアの視線がふと、ガーゼに向く。そして目を伏せ、気抜けるような溜息をついた。
「……でも、そうよね。そういう子よね、あの子は」
パスタはなんと言ったらいいかわからなかった。ジュリアの懐かし気な目は、深い優しさと悲しみに満ちていたからだ。
ジュリアがやんわり腕を組む。
「ゴハンとパンとは仲良くやってる?」
パスタは耳元にかけられた盗聴器を思い出し、否定的な言葉を飲んだ。
「あ、ああ。2人ともいい人だよ」
一瞬視線が泳いだことを、ジュリアは見逃さなかった。まるで恋人のようにパスタの頬に手をやり、指先の盗聴器を掴む。
「! ぁあ」
パスタの情けない声が漏れる。ジュリアの指先に盗聴器が揺れた。
「……盗み聞きとはね。相変わらずデリカシー皆無なんだから」
それだけ言って、なんと口にポイと放り込んだ。あっと声を上げる間もなかった。ジュリアはグミでも噛むかのように滑らかに2度咀嚼し、淑女のように皿にプと吐き落とす。
パスタは絶句に皿から視線を外せなかった。皿には、噛み潰された盗聴器の塊が転がっている……。
「は……歯が頑丈なんだな……ははは……」
そのひきつった笑いに、ジュリアは目をきゅうと細めて笑んだ。盗聴器を噛みつぶしさえしなければ、そのセクシーな様子にパスタはどきりとしただろう。
「その様子だと、仲は良くないみたいね。でもわかるわ、あいつらガキくさいもの」
ジュリアは静かに紅茶のカップを口にあて、手元のソーサーにちんと乗せた。
「コーヒーのおかわりは? ロレンツォ・パッツィーニ」
──『……盗み聞きとはね。相変わらずデリカシー皆無なんだから』
受信機は一瞬のノイズのあと、ぷつりと無音になった。盗聴していたMIBの視線が上がる。
「だってよ」とゴハン。
パスタはフンと鼻息ひとつ、屋外プールを見やった。屋外プールのベンチでは、パスタと北条ジュリアがぽつぽつ会話をしている。
「ド素人のパスタに務まるとは思えんな。収穫ゼロでヘラヘラ戻って来るのが関の山だ」
「同感」ゴハンが言うなり立ち上がる。
「デリカシー皆無のお墨付きをもらったんだ。挨拶してやんなきゃ失礼ってモンだぜ」