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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第2部 第2章

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221 欲求は尽きない

 あたりの景色が薄れたかと思うと、急にすべての光が失われ真っ暗闇に、カレンはひとり取り残される。もはや何も聞こえず静寂だけが広がっていた。

 こうなった時には……今までの経験からすれば、むだに動かずこのままじっと待つしかない。


 しばらくして今度は別の音が耳に届き始めた。これは……話し声?

 すぐそばに誰かいる。

 まぶた越しに光を感じたのでおそるおそる目をあける。視界に飛び込んできたのは何か淡い赤色のかたまり。


 これは何だろうとぼんやり考えていると、その物体がむくむくと動き出して形を変えた。

 くるっと回転して現れたのは、鮮やかな萌葱(もえぎ)色のすだれ。それがふわっと広がると、向こうから(のぞ)く淡い黄緑色の目と対面する。こちらをじっと見たまま動かない。




 視線を外して目をぐるっと動かすと白い壁が見えた。いや、たぶんこれは天井。つまり、わたしは寝ていることになる。そして眼前の物体は、普通ならあり得ない姿のまま浮いている。

 まだ体は少しも動かない。

 それに、彼女も近くにいるはず。先ほどまで聞こえていた話し声は……。


「リア?」

「やっと復活した」


 目の前に浮かんでいる幻精が小さな手をその場でパッと動かした。顔の周りに広がっていた髪がさっと移動して背中に束ねられる。とても便利……。

 それからゆっくりと降りてくるとおなかの上にちょこんと座った。


「ここはどこ?」


 返事はなかったが、代わりに周りの空気に動きが感じられ、リアの髪が背中でふわっと揺れた。頬にそよそよと風を受ける。




 誰かが近づいてきて話しかけられる。


「お目覚めですね。ご気分は?」

「エム、ここはどこ?」


 頭を回すと、心配そうなエメラインとその隣に顔をしかめたペトラを発見した。

 彼女たちの向こうには大きな窓があるが、日よけが下ろされていて外は見えない。

 頭を反対側に向ける。広い部屋だ。


「頭はシャンと働いている? 混成軍の前線基地で、ここは……まあ、病室ね。といっても、しばらく戦闘は行われていないし、今は負傷者もいない。だから、カルだけよ。この大部屋を独占している」

「あっ、そう」


 少しの間黙った声はすぐに再開した。


「それだけ? 何かもっと言うことはないの?」


 そっとため息をつく。記憶に欠けていることは聞くしかない。


「わたしはどうなった……のだっけ?」

「記憶をなくした? つまりカルは……」


 これは……どうやら、またやってしまったらしい。




 いつものようにぺらぺらとしゃべり続けるペトラと、今やその隣でめったにないほどくつろいだ様子の、エメラインの穏やかでかわいらしい顔を見つめる。


「気を失った?」


 突然ペトラは黙り込み、エメラインはこくりとうなずいた。


「はい。しかも外で……歩いている途中で倒れました。すこーんと。頭を打ったようですよ」


 毛布の下から手を出して頭の後ろを探る。特に痛いところはないし何ともなさそう。

 その時気がついた、ペトラの背後にザナが立っているのに。

 あれっ? さっきもいたっけ?

 その顔はまさに、子どもを叱りつけようかどうかと、迷っているように見えた。手を止め思わず毛布の中で体を縮める。

 まだ力は戻ってきていないようだ。それに、すごくおなかがすいている……。


「ごめんなさい。それほど疲れているとは思わなかったので……」


 ザナとペトラが同時に、あきれたように首を振るのが見えた。


「それで、どれくらい……眠っていたの?」

「眠っていたと言うより、気絶してからしばらくはね、死んだようにピクリとも動かなかった」




 つまり、また遅滞が発動したのか……。それほど(ひど)い状況だったのだろうか。もしかして、ケイトと話すと力髄を酷使してしまうのかしら。

 そうだとしたら、先ほどまでまたあの世界にいたということは、ここでうかつに動くと再び失神するかもしれない。力が全然戻っていないのもきっとそのせいだ。

 それなら、しばらく寝ていたほうがいい。しかし、何か食べないと力は失われたままだ。


「まあ、わたしたちもだいぶ慣れたからねえ、カルの異常さには。だから、ザナとエムがいつものように力を使って……そしてあとは、ひたすら待った」

「ありがとう。いつも迷惑をかけてごめんなさい」

「それはいいの。ふたりとも、もう勝手がわかったみたいだし。それで? 眠っている間に何かあったの?」

「えっ? 何かって?」

「カルをここに運んで、しばらくしてから気がついたの。あの時と同じだって……。ケイトと話をするためにいなくなった時と」


 つまり、すべて知られているのか……。


「確かに、またケイトに呼ばれて……。あそこでは十分な時間がなかったから……。ほら、途中で引き戻されたでしょ」

「ああ、なるほど」


 そうは言ったものの、ペトラはちっとも理解できないといった顔でさらに続けようとした。




 ガラッと扉の開く音が聞こえたので、これ幸いとそちらに顔を動かす。

 メイがワゴンを押しながら入ってくるのが見えた。それに、この何とも言えないいい匂いは……。

 突然おなかが大きな音を長々と奏でるのが聞こえ、入り口に目を向けていた三人がくるっとこちらを見た。


「ありがとう、メイ。とてもすばらしいタイミングよ。誰かさんにとってね……」


 ペトラはメイに近寄るとワゴンの中を(のぞ)き込んだ。


「すごい。今までと全然違う……」

「でしょ? せっかくだから、いろいろと手伝わせてもらったのよ。それに、ニアが知らせてくれたのは、ほんと、ちょうどいいところだった。で、さっそく運んできたわけ」


 メイがお盆を一つワゴンから取り出してエメラインに手渡すのが見えた。

 エメラインはお盆に並んだ料理をちらっと見て驚きの表情を浮かべてから、近くの移動式テーブルの上に置いた。それからころころとテーブルを動かして、カレンの目の前に来るようにセットする。

 メイがもう一つお盆を取り出すと、エメラインは素直に受け取って最初のお盆の隣に並べた。


「もっといる?」とメイが聞いてきたので、カレンは首を横に振った。




 体を起こそうとすると、さっとエメラインが手を伸ばしてきた。もちろんありがたく手助けを受ける。

 ベッドに座ってクッションに寄りかかると一息ついた。少し身を乗り出して、お盆の上にずらりと並んだ魅力的なご馳走を眺める。


 軍の食事はもっとずっと簡素なものだと思っていた。どうやら勘違いだったらしい。

 力を使ったら補給。それもたくさん必要。


「これが、ここの料理なのか……」


 そうつぶやく声に横を見ると、いつの間にかリアの代わりにティアが立って、背伸びしながらお盆を見つめていた。

 しかし、ティアはここでザナと長く暮らしているはず。


「ティア、これはいつもの食事でしょ?」

「ザナは食堂で食べるから、こんなふうに目の前に見たことはない。もちろん試したこともない。それにこれは……いつもと違うものに見える」


 ああ、そうか。たぶん、遠くから見ることはあっても、味見をさせてはもらえないという意味ね。

 それは、幻精にとっては相当の痛手だわ。シアがことあるごとに食事の場に顔を出していたのを思い出す。いつも落ち着いているティアの好奇心丸出しの顔は、その望みが何かを如実に物語っていた。


 悠久の時の中で存在し続ける幻精にとって、ひと時の食事がどれほどの意味を持つのか、とても理解が及ぶところではない。

 わたしたちが見過ごしていることも、この世界を見続けるシルにとっては、その記憶を埋める些少(さしょう)になるのかもしれない。




「試していいわよ、ティア。お好きなだけどうぞ」


 ティアはパッとこちらを見上げると、少しだけ気まずそうな顔をして見せた。それでも、実際に経験したいという欲求のほうが(まさ)っているのは明らか。

 ティアはザナにちらっと目を向けたあとに落ち着いた声で答えた。


「ありがとう、カレン。ザナは部屋で食べたことは今まで一度もなかったから……」


 そう言われたザナはちょっぴり傷ついたような顔を見せた。


「ねえ、メイ、余分のスプーンはある? できるだけ小さいのがいいのだけど」

「お皿も必要よね。ちょっと待ってね」


 メイはワゴンの下の段に手を突っ込んで、スプーンと小皿をいくつか取り出すとテーブルの上に置いた。

 ふと気がつけば、ティアだけでなく、リアとニアがティアの両隣に座っているのが見えた。

 部屋を見回す。どうやらシアは留守らしい。

 ニアがこちらを見上げた。


「シアはシルにいる」


 カレンはうなずくとスプーンを取り上げた。

 こうやってとてもかわいらしい姿をした三体が、すました顔で並んで座っているのを見ると、この世界の状況を忘れてしまいそう。


 目の前のご馳走を順番にちょっとずつ取り分け小皿に並べた。それを食い入るように見つめる三対の目は真剣そのものだ。

 これはめったに見られる光景ではない。それに、いつの間にかザナとペトラがすぐそばで前屈みになって目を丸くしていた。




 すべての取り分けが終わると、お盆の上の自分のスプーンを取り上げた。

 一口食べたとたんにどれだけおなかがすいていたかを思い出す。

 急いで何度か口に運んだところで、ペトラとザナがこちらをじっと見ているのに気づく。


「そんなに見つめられると食べづらいわ」


 メイがワゴンからお盆を取り出した。


「わたしたちも晩食にしましょうよ」


 思わず手を止めた。


「晩食? 帰ってからまる一日たったということ?」

「二日よ、カル。戻ってきたのは一昨日(おととい)だから」


 ペトラの顔をしばらく見つめたあと、視線を外してつぶやいた。


「二日……」


 それからメイに目を向ける。


「ということは、ハルマンでほかの人たちと別れてから……七日、ではなくて八日になるわね……。シャーリンたちがもう戻ってきているかも……」


 メイが考えるように言う。


「普通の船で来れば五、六日かかるでしょう。とてもすぐに出発できたはずはないから、たぶん到着していないと思うけど……。まだお姉ちゃんからの連絡もないから」

「ああ、よかった。イオナもノアの準備に時間がかかると言っていた。それでも明日はレタニカンに戻らないと……」

「そのノアのことだけど、あそこで治療ができそう?」

「ええ、ケイトから、というか、お父さんからあの医療用ベッドの使い方を教わったから大丈夫。絶対に時縮を断って現実時間に引き戻すわ」




 ザナとペトラが食事そっちのけで、また幻精たちの様子を食い入るように見つめているのに気づき、すでにからっぽになった器をまとめるとお盆を重ねた。

 テーブルの真ん中にはお盆が一つ。その向こうには無心に味見をしている幻精たち。

 どうやら三体の間では頻繁に会話が交わされているようだが、人の耳には何も聞こえてこない。

 テーブルの上の左右に空いたスペースを指さした。


「おふたりのお盆をこっちに持ってきて座ったら?」


 ザナはパッと顔を起こした。


「ああ、すまない。それでは、遠慮なくここに座らせてもらうよ」


 そう言いながらメイからお盆を受け取るとテーブルの端っこに置いた。

 ペトラも自分のお盆を持ってベッドの反対側にやって来ると、近くの椅子を引き寄せ腰掛けた。


「カル、食べ終わったら全部話してくれる? ザナも知りたがっているし」


 口をもぐもぐさせながらお行儀悪く答えた。


「はーい」


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