噂の死神
意外と強い力で叩かれた肩が悲鳴を上げながら、僕と冬野さんは校門までの坂道を歩いていた。
「まったく。先輩があんなに子どもっぽいいたずらをしますか? 可愛い後輩をいじめるなんてよくないですよ!」
――君が言い出さなければ思いつきさえしなかったんだよ?
とは言えなかった。重ねて攻撃を受けたくない。
「それにしても、先輩はひどい人ですよね。今日も私を責任もって送り届けてください」
何も言わない僕に何を思ったのか、冬野さんはそんな言葉を続ける。そこまで言われるようなことをやってしまったかと思いながら、隣を見ると、彼女にしては珍しく悲しげな表情だった。
彼女のその表情を見ると、胸が締め付けられるような心地になる。
「ご、ごめん! そんな泣くほどのことをしたとは思わなくて!」
焦りながら謝罪すると、彼女はうつむき、転じて笑い始めた。
「あははは! 冗談ですよ! 私があんなことで泣くわけないじゃないですか! 焦りましたか? 焦りましたか?」
どうやら無駄に演技力を活かしていたようだ。
「とりあえずニヤニヤを止めて先輩に謝ろうか!」
僕の心配した気持ちを返して欲しい。
「むふふふふ、しょせん先輩なぞわが掌の上ですよ」
こんなに図に乗っているのに可愛さが勝っているのが恐ろしい。この子、将来はとんでもない悪女になるんじゃないだろうか。先行きが不安だ。
「こっちは女の子に免疫がないんだよ! その上泣かれるなんて僕の守備範囲外だ!」
「こんなに可愛い女の子と半年以上も一緒にいるのに、免疫が無いっておかしくないですか?」
冬野さんの表情や挙動は絶え間なく変化する。それがまた魅力的だから、慣れることはきっと今後もないのだろう。
お互いに他愛もないやり取りをしながら、下り坂を歩く。葉っぱが一枚もついていない桜の並木道は暗くて、少し気味が悪い。
正門に向かって進むごとに、奇妙な感覚が僕を包み始めた。強いて言うなら漠然とした不安だ。朝の教室で感じた雰囲気にも近しい。進みたくないという感情と、進まなければならないという確信。相反する思いを抱きながら、冬野さんと歩みを進める。彼女は何も感じていない様で、無邪気に今日学校であった事や、休日にやりたいことなどを語っている。
一歩、また一歩。着実に増していく不安。全力疾走をした後のように聞こえる鼓動。背筋を流れる汗は冷たい。
門に辿り着く頃には息も絶え絶えになっていた。これ以上進みたくないという感情が僕の足を鈍らせて、冬野さんよりも数歩遅れてしまう。門を少し出て僕が付いてきていないことに気付いた彼女が、こちらに振り向く。夜に踊る可憐な冬野さんは神秘的だ。
「先輩、顔色が良くないですよ! 気分でも悪いんですか?」と心配そうに僕に近寄ってくる。これほど真剣な表情は稀かもしれない。少し得をした気分だ。
――何でもないよ。大丈夫。
と彼女を安心させようとして、僕は彼女を、彼女の背後を見てしまった。
それは道を挟んで向かいの歩道に佇んでいた。背格好は僕と同じくらいで、男子学生の制服を着ているように見える。暗い闇の中にボウっと浮かぶ顔は端正だが生気はなく、覇気もない。ぼんやりと佇む姿は、闇に溶けてしまいそうだ。冬野さんの白さとは異なる、不健康な青白さ。日が落ちていることもあって、頭だけが浮いているようにも見える。
心臓の鼓動は先程とは比較にならないくらい早い。流れる汗、目の前の冬野さん。僕は咄嗟に彼女の手を取って走り出した。一刻も早く彼女だけでもアレから逃がさなければならない。
アレは死の象徴だ。アレが噂の死神なのだ。一目見て理解した。してしまった。一週間どころかその場で死んでしまってもおかしくないほどの恐怖。根も葉もない噂だと聞き流していた数時間前の自分を張り倒してやりたい。
「先輩! どうしたんですか⁉」
混乱している冬野さんを無視して、僕は彼女の手を握り走る。
――せめてこの子だけでも僕が守るのだ。
学校からかなり離れたところで、ようやく僕は走るのをやめた。人の形をした恐怖の存在はとりあえず周囲に見えない。
「もう、何で急に走り出したんですか!」
という抗議が冬野さんからあるが、僕に返答する余裕はない。アレを見た恐怖と、冬野さんに見せたくない一心だったのだ。
「冬野さん、アレ、見た?」と息を切らしながら聞くと、ポカンとした表情で「あれってなんですか?」と答える。良かった、彼女は見なかったようだ。
「ごめん、何でもないよ」
と言ったところで、ふとひっかかるることがあった。
「冬野さん、死神を見たら一週間で死ぬって噂話あったよね?」
「はい、ありましたよ。私が怖いので先輩を道連れにしようとした話ですよね」
正しいけど酷い話だ。
「一週間後に死ぬのは、その死神を見た人だよね?」
「いえ、そこは曖昧だっていったじゃないですか。見た本人だったり、周囲の人だったり」
そうだ。詳細は不明だったのだ。つまりアレが件の死神だとすると、見た僕の周囲の人間か僕が死ぬことになる。
周囲を見回す。先ほど味わった死への恐怖。それを目の前の少女や母に感じて欲しくなかった。あの存在は死そのものだ。だからこそ、噂の詳細が不明なことが恐ろしい。僕が死ぬならまだいい。だが、親しい人たちがあんなものの手にかかって死ぬのは我慢ならない。
黙り込む僕を不思議そうに見つめる冬野さんの手は、生を実感できる温かさをきちんと持っている。
「ご、ごめん!」
手をつないでいることに気付いて、すぐに手を離すと、彼女は、僕の右手と繋いでいた左手を何故か見下ろす。
「先輩の手に触れたのって、私初めてですよね?」
こんな可愛い少女と手を繋いだことがあるなら、覚えているに決まっている。
「う、うん。そのはずだけど」と少し詰まりながら返すと、彼女はもう一度左手を見下ろして、納得のいかないような表情を浮かべた。
「それがどうかしたの?」
「いえ、何でもないです」
結局答えは出なかったのか、いつものにこやかな表情になる。今日は彼女の色々な表情が見られる日だ。