僕と後輩と文庫本
午前中の授業が終わり、お昼休み。僕は購買部でパンと飲み物を買って部室に来ていた。朝は冬野さんと部室に行った後、結局食事をすることはできず、お腹の虫が鳴き続けていた。僕としてはお腹にたまる弁当を買って、しっかり食べたかったのだが、体力自慢達の混じった購買戦争には勝てなかった。購買部に到着した時には既にパンしか残っていなかったのだから、正確には勝負にすらなっていなかった。
部室の鍵を取り出そうとして、持ってきていないことに気付く。文芸部室の鍵は職員室と、歴代の部長が所有している。僕が持っていないとなると、職員室まで取りに行くしかない。
駄目で元々、ドアノブを捻ってみると、かちゃりと音を立てて扉が開く。中には暖房の風と共に読書に勤しむ冬野さんが目に入った。机の上には可愛らしい弁当箱と、購買人気商品の一つであるカツサンドが置いてある。
「どうして君はカツサンドが買えて、僕には買えないんだ……」
「あ、先輩! こんにちは!」と彼女は文庫本から僕に顔を向ける。快活で爽やかな笑顔は相変わらず魅力十分だった。文庫本に栞を挟み、本を閉じる。
「購買でパンを買うなんて、先輩にしては珍しいですね。どうかしたんですか? 体調不良?」
「いや、ただの寝坊だよ。弁当を作れなかったんだ。冬野さんは来るのが早いね。何を読んでいたの?」と聞きながら、彼女の向かいの席――今日は隣席に花瓶のオプション付きだ――に座る。
「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』ですよ!」と満面の笑みを浮かべて、手に持っていた文庫本の表紙を僕に向ける。満点の星空を背景に、鉄道が浮かんでいる綺麗な表紙だ。
「また、『銀河鉄道の夜』を? でもその文庫本なら、他のお話も入っているよね?」
個人的には『よだかの星』や『セロ弾きのゴーシュ』もおすすめなのだが。
「もちろん知ってますよ! でも私は『銀河鉄道の夜』が一番好きなんです!」と、僕の目の前まで詰め寄ってくる。そんなに本を見せつけなくてもわかっているから。
入学当初から、冬野さんはこの本を持っていた。入部届を何故か顧問の先生ではなく、僕のところに持ってきた時も、両手で文庫本と入部届を持って、春風の様にやってきたのだ。
「失礼します!」
それは入学式の翌日のこと。帰りのホームルームが終わり、教室に残っている同級生たちも疎らになってきたころ、教室の入り口からそんな声が聞こえてきた。目をやると、そこには可憐な女の子が一人立っていた。
長袖の黒いセーラー服とロングヘア―、柔らかく可愛らしい雰囲気で、周囲に花を咲かせているかのような暖かい存在感がある。真っ白な手には一つずつ何かを持っているようだけど、最後列にいた僕には最初はよく見えなかった。可愛らしいからといってジロジロ見るのも不躾だろうと、目を逸らして帰りの準備を進めることにした。帰りの準備といってもこれから文芸部室に向かうつもりだが。
今年は誰か入部希望者がいるのだろうか。去年僕が入部した時、既に文芸部の部員は一人もいなかった。僕の入学と入れ替わりに卒業してしまったらしい。歴代の部員たちが置いていった書物は残っていたが、それも部室棟の部屋が余っていたからだ。もし新しいクラブが創設されれば、文芸部室はその部に提供されるという話だった。部活に入らないのかと母にせっつかれていた僕にとって、部員のいない文芸部は色々と都合がよかったのだ。
そうしてひっそりと部活動をしてきて早一年、文芸部室は校内における僕の数少ない居場所となっていた。昼食も部室で食べるし、読書や小説を作るにも最適な場所だ。試しに図書館や図書室で以前小説を書いてみたこともあったのだが、どこか落ち着かなくて罪悪感があった。ファーストフード店やコーヒーショップに至っては、お洒落さに気が引けて入ることすらできなかった。「ま、まあ、こういうところで書くのは迷惑だし」という理由で入るのを避けたのだが、どこか言い訳めいていたのは間違いない。他人がいて、誰かと関わる可能性のある場所が苦手な僕にとって、文芸部室は唯一の理想郷となっていたのだ。
幸い昨年は新しい部活ができることもなく、一人きりの文芸部でもやり過ごせたが、今年はどうかわからない。かといって新入部員に入られるのも不安という複雑な心境だった。叶うなら今年も同じような状況になりますように。
荷物を詰める作業は佳境を迎え、後は筆箱を詰めるだけだ。ふと入口にいた女の子が気になり、目をやると、彼女はこちらを真っ直ぐ見据えて向かってきた。きょろきょろと僕の周囲を見渡しても、放課後の人も減った教室内では、悲しいことに僕の周囲には誰もいない。彼女が一歩一歩こちらに近づいてくる。ただ歩いているだけなのに絵になる。容姿が整っているってことはそれだけで武器になるんだなと、ぼんやりと思った。
女の子が机を挟んで僕の目の前で止まる。彼女の瞳は僕を掴んで離さない。何か声をかけようにも、体は思い通りに動かず、自分の鼓動がとても大きく聞こえる。
眼前の少女がふんわりと微笑む。花のような愛らしさが留まらないが、こんな子とは生まれてこの方縁がない。だからこそ今の彼女の存在は、僕にとって恐怖以外の何物でもなかった。
「先輩、こんにちは!」
弾むような声や仕草は初対面ということを感じさせない。ただ挨拶をしただけなのに、いつの間にか懐に入られているような不思議な感覚だった。
彼女は呆けた僕を不思議そうに見つめている。自分の教室なのに居心地の悪さが襲ってくる。
「え、えっと、こんにちは?」
僕がおずおずと挨拶を返すと、彼女の笑顔がぱっと弾けた。春のような微笑みから、夏のような笑顔へ。喜色満面と言わんばかりの表情へと変化した。
「先輩、文芸部の方ですよね? 私、冬野要といいます! 文芸部に入部したいんです! なのでこれを受け取ってください!」
女の子から両手で差し出されたのは、部活動に入るために必要な書類と、表紙に『銀河鉄道の夜』と記されている一冊の文庫本だった。
「入部届と……本?」
僕がそう聞くと、彼女は悪戯が成功した子どもみたいな表情で「この本が大好きなんです」と嬉しそうに答えたのだ。