それはある冬の朝から
一章木曜日
真っ白な星の降る夜だった。聞こえるのは流れる水と泡の音。多大な罪悪感に少しの安堵が寄り添いながら、僕はひっそりと瞼を下した。
冬の朝は非情だ。常に決別と共にある。天井に着いたシミや何かをぶつけた跡たちは僕を今か今かと待っている。しかし見慣れたはずの天井は遠い。外界とこちら側の隔たりの大きさを感じる。もぞもぞと体全体を丸める。出来ることならこの温もりにずっと包まれていたい。ただそれだけで僕は幸せなのだ。朝の身近な幸せを感じられるこの時間が僕は好きだ。この幸せを投げ捨ててでもやらなければならないことがあるのだろうか? 自問もそこそこに防護壁から顔を出す。いつも以上の激しい攻撃。よくよく見るとこの時間帯にはもう働き始めているはずのエアコンが、一切機能していなかった。起動タイマーを忘れるとは痛恨のミスである。
エアコンからゆっくり視線を一台の掛け時計へとスライドさせていく。円形の白い枠には縁に沿うように十二の算用数字が並び、シンプルなデザインの二本の針が七と二を指名していた。格安の値段の割に気に入っている時計がカチコチと音を立てて針は七時十分を指し示していた……寝坊だった。
勢いよく体を起こす。常なら五時には携帯電話からアラームが流れるはずだが、枕元に置いてある携帯電話に目をやると、道半ばで力尽きた無残な姿がそこにはあった。飢餓の象徴のような携帯電話は見ていて少し罪悪感が湧いてくる。
「ごめんね」
携帯電話を充電器と繋げる。画面に一瞬出た赤い充電マークに心が和らぐ。登校するまでに少しでも充電しておくれ。元気な姿で一緒に学校へ行こう。
心持ち機敏な動きで自室から出て、リビングを一望する。整頓されたリビングに、スイッチの点いていない炬燵やテレビが寒々しく見える。いつもは僕や母が使っているダイニングキッチンも、長く稼働していないかのように静かだ。電気を点けようかとも考えたが、遮光カーテンの隙間から差す太陽の自己主張は案外激しい。シャっと音をたててカーテンを開けると室内とは対称的に晴天だった。つい先週は雨の後に初雪が降り、路面が凍結して大変だったのだが、今日はそれが嘘かのような澄み渡る青空だ。「今日は暖かくなるかもしれないな」などと、晴天の温かさに寝坊の件を少し忘れてしまいそうになった。少し外を眺めてふと気づく。
―――母の気配がない。多忙な母はいつもこの「僕が寝坊してしまった」時間にはもう食事や身支度を済ませて家を出る準備をしている時間帯のはずだ。しかしキッチンに朝食を摂った痕跡はない。それどころかリビングにすら母がいた形跡はない。
――まさか、母さんも寝坊?
リビングから母の部屋へと目を向ける。閉ざされたドアは沈黙を貫き、中の母が起きているとはとても思えない。
テクテクとドアの前に立ち、息を吸い込む。冷たい空気は肺を満たし、声を出す準備を整えてくれる。ガチャリと母の居城を開け放って一言。
「母さん! 朝だよ! 仕事遅れるよ!」
勢いく開け放たれた部屋の中に母の姿はなかった。ちらりとハンガーラックに目を向けると、仕事用のスーツがない。どうやら母は自力で出勤したようだ。安心したと同時に、弁当を作ることが出来なかった後悔が湧く。ぐっすり寝ているからと放置してくれたのだろうが、そんなことは気にせず起こして朝食や弁当をねだって欲しかったのに。
がらんとした母の部屋に少しの不満を残して、静かにドアを閉めた。
冬の朝の通学路は冷えた空気と朝の静けさが合わさり、どこか神聖さすら感じる。澄んだ空気は世界の美しさを届けてくれる。停まっている車に降りた霜は淡い光をキラキラと放ち、朝になることを喜んでいるようだ。
首から口元まで覆っていたマフラーをほんの少しずらす。吐く息が白く染まるのは何度経験しても少し楽しい。まるで怪獣にでもなったかのようだ。
童心に戻っていたのもつかの間、冬の厳しさを見せつけるかのように寒風が吹いた。
「うう、やっぱり寒いな」
紺のマフラーで再び口元を覆う。好きとはいっても寒いものは寒いのだ。先週の初雪を皮切りに、気温の穴掘り作業がより激しくなった。まだ年が明けてさえいない以上、今後はもっと寒くなっていくのだろう。そこは少し憂鬱だ。
のんびり歩いていると、お腹が鳴いた。身支度をして学校に向かうには余裕のある時間だったが、朝食や弁当を準備するには全く足りず、身支度を終えて少しばかり充電できた携帯電話を手にいざ登校となった。空きっ腹に寒気。動く気力が徐々に失われていくのがわかる。早く学校に着きたい。学校は暖房が点いているはずだし、同じく学校なら売店や学食もあるのだ。寒さと空腹を振り切るように力を込めて歩を進める。この寒気と空腹のサンドウィッチを振り払い、僕は学校生活へと向かうのだ。
しばらく歩いていると、少しずつ見慣れた門構えが近づいてきた。春に美しい花をつける桜は現在薄着の真っ最中で、門扉もどこか寒々しい。僕と同じように門に向かって歩いている生徒たちも装備が分厚い。男子は真っ黒な学ランと同色のズボンに、上からコートやマフラーといった防寒グッズを身に着け、女子は黒のセーラー服の上からカーディガンや好みのコートを着て、一様に学校へと向かっている。寒波に耐えるように身を丸めながら進む姿は、冬を感じさせる。友人と一緒に歩いていると思しき生徒も声は潜められているようだ。首元のマフラーは防寒の役割を果たすと同時に、防音の役割も果たしてくれるらしい。もし静かに会話をしてみたいときは試してみよう。
益体もないことを考えて歩く。そんなことさえも楽しく感じるのは冬休みが近いからだろうか。学期末のテストも終わり、残すは終業式だけ。僕は少し浮かれているらしい。
学校へと近づくと、徐々に生徒の声が聞こえてくる。立ちはだかる壁を乗り越えて、残すは冬休みとなった生徒たち――むろん僕も含まれる――の声は通学路とは打って変わって明るい。これから冬休みにクリスマス、年越しやお正月などのイベントが満載なのだ。校外と比較してほわほわとした空気が校門一枚を隔てて満ちている。一、二年生ならともかく、三年生は受験もあるのではないだろうか。
正門をくぐり、ちょっとした坂を登る。校舎までの道には皆の楽しそうな姿があった。先ほどまでの冬の寒さは鳴りを潜め、幸福の空気が辺りを満たしている。生徒たちの間を抜けていく風は温度を上げ、学校周辺にもこの暖かさをおすそ分けしていくのだろうか。それは何と言えばいいのだろう、とても幸せなことのように感じるのだ。
校舎に入ると、寒さが更に和らいだ。校舎には既に何人もの生徒がいるのだろう。沢山の声が聞こえてくる。校内の扉が開閉すると外気と比べて暖かい空気を感じて、早く自分の教室へ行きたいという気持ちが湧いてくる。下駄箱で靴を履き替えると、足早に自分の教室を目指す。欲というのは不思議なもので少し環境が良くなるとより良いものを欲するらしい。僕は教室という環境が恋しくて仕方なくなっていた。なぜか久しく感じるこの気持ちをどう表現していいのだろうか。
階段で二階に上がり、廊下の角を折れると僕の所属する二年C組教室が見えた。他のクラスとは異なり、廊下には誰も出ておらず、僕の足音が大きく響く。その静けさはまるで僕をとがめているようだった。足音を忍ばせて引き戸の前に立つ。中の様子を引き戸の窓から覗い見ると、教室内は電灯の調子が悪いのか全体的に暗い。引手に手をかけたが、その冷たさに動きを止めてしまった。
――開けてはいけない。僕の何かがそう告げている。取り返しのつかない何かが僕を待っている、そんな予感が確かにある。
意を決して、僕はガラガラと音を立てた。
教室後方の引き戸から中に入ると、室内は水を打ったように静かだ。室内の座席は既に半数以上埋まっている。誰も席を立たず、誰も話さない。みんな一様に俯いている。重苦しい静けさはまるで深海にいるような気分だ。
息苦しさから助けを求める様に、教卓前にある自分の席へ目をやると、机の上に何かが置いてある。
――あれは一体何だろう。
ゆっくりと机に近づいていくと、置いてあるものが何かわかった。花瓶だ。
物音を立てない級友達と、机の上の花瓶。その二つの存在が異様な空間を演出している。
――声が出ない。
沈黙を破るのが怖い。何が起きているのかわからない。僕は何かとんでもないことをしてしまったのだろうか。声も上げられず、自身の座席の前で固まる。
鼓動が聞こえる。額から一筋の汗が流れる。暖房による生温い空気が僕の周囲にまとわりついている。心から求めていた暖気が今となっては鬱陶しい。
身動きは取れない。誰も動かない。この時間が永遠に続くのではないかと考え始めた矢先
「先輩、どうしたんですか?」
後ろから声がかけられた。