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愛人は息子の推し  作者: 御通由人
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最終章 夕陽の見える橋

 謙介はバスに揺られ、車窓を流れる景色をぼんやりと眺めながら、先程聞いた真維の人生を反芻していた。

 彼は彼女のことを真面目で努力家で、自信過剰なところもあり、少し生意気なところもある歌手志望の女の子としか見ていなかった。

 そのすべすべした肌の裏側にそんな過酷な経験があったとは夢にも思わなかった。

 

 自分も大翔も彼女を愛していた。しかし、どちらも一方的な想いでしかない。

 彼女の方は自分達のことをどう思っていたのだろう?

 大翔の場合ははっきりしている。彼女にとって、大翔はファンの一人だ。それも彼女の言葉からするとお気に入りのファンであったと推察できる。


 しかし、自分は彼女にとってなんだったのだろうか?

 自分も大翔や他の彼女の推し同様、擬似恋愛ゲームに参加していただけで、彼女にとってはただの客であったのだろう。悪い言い方をすれば利用されていただけかもしれない。

 しかし、それは大歓迎である。彼女の夢が叶う手伝いが出来るなら、むしろ積極的に利用されたい。

 彼女は二度と恋愛はしたくないと言っていた。自分を選んだのも年が離れていて恋愛対象になり得ない、妻がいないので罪悪感がない、そういう点で都合が良かったのだろう。

 しかし、彼女はその見返りに身体を提供した。美しい身体を捧げた。こんな冴えない、何の取り柄もないしょうもない年老いた男に。


 その時、以前見たことがあるような風景が目に飛び込んで来た。

 川があり、橋があり、その向こうに夕陽が沈もうとしている。大翔の部屋で見た真維が書いた絵とまったく同じ光景である。

 謙介は慌てて立ち上がり、バスの降車ボタンを押した。そして、「次降ります。次降ります」と大声で言った。


 橋を越えてしばらく行ったところの停留所でバスが止まった。謙介は降りると、橋まで走って戻った。

 絵の構図と同じように橋の欄干の前に立って、西の方角を見た。沈みゆく真っ赤な夕陽がそこにあった。

 それは先程見た血赤珊瑚のペンダントトップにそっくりであった。


 突然、ある考えが閃いた。

 真維は何も知らなかったのではなく、本当は自分の運命をすべて分かっていたのではないだろうか?

 いつか癌が再発して死ぬかもしれないという覚悟を持っていたのではないか?

 沈む前に全エネルギーを使って、大空を真っ赤に染め上げる夕陽が好きだと言っていた。

 いつ破裂するか分からない時限爆弾を抱いたまま、夢を叶えようと彼女も全エネルギーを使って疾走していた。歌手になるという夢を叶えるために、すべてを犠牲にして。

 あの真っ赤な丸いペンダントトップは、まさにこの夕陽のそのものでり、自分の生き様の象徴である。それを形見として、母親に残したかったのであろう。


 大空も川面も濃い朱色に染まってゆくのを眺めながら、謙介は以前ラストラヴァーの話をした時、彼女が「私もそうかもしれない」と小声で言っていたのを思い出した。

 あれは謙介が自分にとって、最後の性の相手になるかもしれないということだったのか。

 パパという存在は本当に自分だけであったのだろう。もしかして、彼女は自分に対していくらかの愛情を抱いてくれていたのだろうか?

 今となっては分からない。そして、もうどっちでもいい。真維がいて、自分が愛した、その事実だけで十分だ。

 

「私には愛する歌があるから、信じたこの道を私は行くだけ。すべては心の思うままに」

 

 口ずさみながら、夕焼け空を見ていると、真維と一緒に過ごした数々の場所や場面とともに、彼女の笑っている顔が、自信に満ちた顔が、怒った顔が、拗ねたような顔が、怯えたような顔が、悲しそうな顔が、スライドショーのように脳裏に浮かんでは消えていった。

 鼻腔の奥から熱いものが込み上げてきた。母親の前ではどういう関係なのか不審に思われたらいけないので、ずっと我慢していた感情が堰を切ったように溢れて出てきた。

 彼は嗚咽をもらし始め、それから体を震わせながら、慟哭した。

 

 真維、君の体は無くなったが、歌声を後世に残した。歌うという君の存在意義を達成し、全うした。

 大翔は君のおかげで立派に成長したよ。そして、これから前途洋々たる未来を生きてゆき、生きている意味を見つけてゆくだろう。

 僕の人生の意味はなんなのだろう?

 それは死ぬまでの宿題にさせてくれ。


 気がつくと、いつのまにか暮色は消え、周りはすっかり闇に包まれていた。

  

 謙介は昨夜自分が大翔に言った言葉を思い出した。向かい風に乗って吹いてくる様々な経験や感情を身体で受け止め、心の中に溜めながら歩き続ける、それが生きるということだという言葉を。

 謙介は涙を拭うと、思い切り吸い込めるだけの息を吸い込んだ。彼女の故郷の空気の匂い、彼女の墓やこの橋からの光景、それらを胸の中に仕舞っておきたかった。


 車が通り過ぎ、暗闇の中、赤いテールランプが光っていた。

 中島みゆきの歌が心に浮かんできた。

「ヘッドライト、テールランプ、旅はまだ終わらない」

 もうあんなに激しく女性を愛することは二度とないだろう。しかし、自分の旅はまだ終わっていない。まだ歩き続けなければならない。

 いつか歩みを止めるその時まで、愛する人の記憶を胸に抱いて、静かに淡々と、小さな幸せを愛でて生きていこう。

 

 遠くにぼんやりと明かりが灯っていた。先程降りたバス停の辺りに常夜灯があり、その明かりであった。謙介は息を吐き、その光に向かってゆっくりと歩き始めた。

 

 いつの間にか蝉時雨は止み、周囲の川や水田や草むらからカエルの鳴き声が響き、その中に、時折、チリリ、リリリと虫の鳴き声が聞こえる。まだこんなに暑いのに早くも季節は秋に変わろうとしているのか。

 その意外さに驚き、彼は時の移ろいの速さに自分の人生を重ねていた。

 


                   (了)

 


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