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益人の建物 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 よしよし、今日はあと炭水化物は30グラムくらいまで……と。

 やあ、つぶらやくん。バイキングを楽しんでいるかい? そりゃあ良かった。

 いやはや、血糖値が高めの診断食らっちゃったからさ。カーボカウントっていうんだっけ? 炭水化物をどれほど摂取しているかに、ちょっと神経質にならざるを得ないのさ。

 これまでの長年の積み重ねの結果だからねえ。一朝一夕に改善できる代物じゃない。返すのだって気長に取り組まなきゃ身体がしんどいだろう。


 ――む、「なんだか大変そうだなあ」という顔だね。

 はは、食べることに関してのコントロールは、確かにしんどいところはあるよ。

 でもこうして計算に頭を使うことそのものは、結構好きかな。

 何も考えずに食べられればいい時代は通り過ぎてしまったなら、考えることに楽しみを見出す。

 いまやっていることを好きになることが、ストレスへの重要な対策だな。もっとも、やりたいことじゃない限りは、そううまく行きやしないんだけど。

 自分の心地よさになることをとるか、それとも気に食わないことを貫くかの選択。ふとしたときに訪れるものだ。

 私の昔の話なんだが、聞いてみないか?



 それはにわかには信じがたい光景だった。

 先生に急な用事を頼まれて、帰りが遅くなってしまった放課後。

 特別教室から昇降口へ向かう廊下の途中だ。私の学校の校舎は、端から端まで真っすぐではなく、中ほどで一度直角に曲がり、また直角に曲がる。上から見ると、角ばったS字のようなカーブになっているだろう。

 そのカーブの曲がり目。直前まで死角になっていて見えない壁際に、そのクラスメートの男子がいた。


 こちらへ背を向けている彼に対し、私が息を飲んだのは、壁にへばりつくかのような彼の姿勢のためだった。

 手ばかりでなく、上半身をペトリと背中につけて廊下の先を見やっているように思える。

 私も見るが、そこには教室と窓に挟まれ、端にはめ込まれた非常口のドアまで人っ子ひとりいない一本道が横たわっているばかり。

 男子の息は荒く、舌なめずりする音がときおり混ざる。ペタペタと壁に手をつきながら、這っているかのように緩慢な動き。動物の見せるそれとそっくりだ。


 最初は理解が及ばず、固まっていた。理解が及ぶと、音もなく後ずさっていた。

 普段の生活ではおよそ見られない動き。つまり、いまの彼は普段通りの存在じゃないんだ。

 そう思ったときには、遠回りになるものの、来た道の途中にある階段から昇降口へ逃げ出していたよ。

 次の日、彼は普段通りに学校へ来ていた。

 所作、他人とのやり取り、いつもとなんら変わらない様子だ。でも、あのときの格好を見てしまっては、私も内心で不信感がうずいてならない。


 昼間、彼がくっついていた壁付近まで足を運んでみる。

 休み時間でも生徒たちの人通りが多い。このような衆目の中で、あの奇異な格好を取る奴はいないだろう。

 不自然にならない程度に、彼の這っていた壁を観察してみる。

 掲示物を貼ることができるように敷かれた、緑色のシートがついた壁。彼が手と体をつけたところと、そうでないところを比べると色合いが少し異なるんだ。

 彼が触れたところと、その周りは明るい色になっている。いや、むしろほぼ新品になっているとみていいか。

 離れた箇所は、寄る年波のダメージを隠せずに汚れや破けの気配を私たちにさらしているが、この明るい色合いになったところは新しく上からシートをかぶせたかのような、整った状態を保っている。


 ――あれ、修理しなおしていたのか?


 それなら話が変わってくるものの、私はそっと色の変わったところへ触れてみる。

 もし張り替えたのなら、盛り上がりなどの不自然な手触りがあるはずと踏んだんだ。

 けれども、それがまったくない。

 元から、そのようなつくりであるかのようななめらかさ。その部分だけ若返ったような感覚を受けたんだ。



 にわかに湧いてくる違和感に、私は彼をとっつかまえて尋ねてみたよ。

 彼自身、見られていたとは思っていなかったようで、最初は目を丸くされたな。ただそれもわずかな間だけで、ほどなく理由を話してくれる。

 自分は学校にとっての益虫ならぬ、益人でありたいのだと。


 蜘蛛はその見た目ゆえに好き嫌いが大きいものの、益虫であるということは君も聞いたことがあるだろう、と彼は語る。

 学校などの建物は、人がいないと傷みやすいという話はあると思うが、それは手入れをする者がいないためばかりじゃない。

 益人がいないために、建物が日々吐き出していく毒気がたまっていく一方になってしまうせいだと。そのため、保持のため人に入ってもらうわけだが、望むのならああして余計に建物にとっての毒気を取り入れることができるのだと。


「心配しなくていい。人にとっての毒が、生き物の種によっては助けとなるように、建物の毒気は人の身体にはいいものだ。もちろん、限度はあるからやりすぎは禁物だけどね」


 ニコニコした表情。どうもその味わうやり方を私に教えたくて、うずうずしているようだった。



 その日の放課後。

 人の気配がなくなるのを待ってから、私は彼にいわれたことを実行に移す。

 実際に行わずしての批判はよろしくないことだが、誰かに見られている中でやるだけの勇気も私にはない。

 彼が行ったポイントよりも、ずっと校舎の端っこより。図書館の向かいにある壁だ。

 破れ目こそないが、ほうきなどではこそぎ落せない黒ずみが張り付いていることは、誰の目にも明らかだった。


 私はその壁に向かって、手をすり合わせ頭を下げながら「御身、いただかせてもらいます。どうぞご容赦ください」と三度告げる。

 彼にいわれた作法通りだ。機嫌が悪いと何も反応がなく、そのときは続くことをしても効果はないのだという。

 けれども、私が言い終わるや大人の女性が出すような、ごくごく短い悲鳴があがった。それは甲高く生地が裂けた音のようにも思えたが。


 彼のいう合図。

 私はふっと短く息をつくと、昨日の彼がやったように手と上半身をぴっとりと壁に貼り付けたんだ。

 普通、冷たさやただのっぺりとしたような感触を受けるだけだろう壁。

 それが今は、こたつの中にいるようなぬくもりを持って、私を迎えてきたんだ。

 驚きとともに、離れがたさがたちまち私の感覚を支配しにかかる。とりこになる前に、私はあわてて、手と体を離したよ。


 何秒も経っていないにもかかわらず、私の手も胴体もびっしり黒ずみが浮かんでいる。

 その代わり、接触した壁の部分はあのポイントと同じ新品のような色とツヤを取り戻していたんだ。

 頑固な汚れが、あの瞬間だけ態度が柔らかくなり、そのスキをついて私に取り付いてきたような……妙な感じがしたんだよ。


 私はその一回きりでやめたが、彼はまた機会を見つけて何度も同じことをしているようだった。

 放課後のみならず、休み時間中とかにもだ。落としきれていない黒ずみと、校舎内で不自然にきれいになった一部分を見れば、一目瞭然だった。

 度を過ぎない限りはいい、と自分で話していたのに、行うは難しといったところか。

 一度授業のとき、彼がひどいせき込みで保健室へ運ばれたことがある。

 ひとつせき込むたび、彼の口の周り、身体の周りに粉状になった黒ずみが巻いてしまうようじゃ、心配するなというのが無理だろう。

 いちおう、卒業はできたがそこから先の彼のことは分からないな。


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