九話
その羽音を聞いた瞬間、セレスティナの肩がびくり、と大袈裟に跳ねた。
「──セレスティナ嬢?」
ジェイクの問いかけに答えるより早く、セレスティナの耳元でその羽音は大きく響いた。
「ひゃあっ!」
「──っ!」
耳を塞ぎ、身を縮こませるセレスティナの側に美味しそうなお弁当の匂いに引き寄せられたのだろうか、大きな虻のような虫がセレスティナの側を飛んでいる。
咄嗟にジェイクはセレスティナを守るように自分に抱き寄せると、お弁当箱の蓋を手に取り力を込めて振り下ろした。
ばちん! と音を立ててその後ベンチの背もたれ側にぽとんと落ちた虫を見て、ジェイクはハッとすると自分の胸に抱き込んだセレスティナを慌てて離そうとしたが、セレスティナが自分の胸元のシャツをぎゅう、と握り締めている姿に何故か抱き締める腕を緩める事が出来ず、震えるセレスティナの後頭部に回した自分の腕で強く抱き寄せると「もう大丈夫だ」と優しくセレスティナに声を掛ける。
ジェイクは後頭部に回していた自分の腕をセレスティナの背中に下げ、慰めるように何度も撫でてやっていると、自分の胸に縋り着いていたセレスティナがもそ、と動き涙を瞳一杯に溜めて潤んだ瞳で見上げてくる。
「も、申し訳ございません……幼い頃に蜂に刺されてから虫だけは本当に苦手で……」
「──いや、大丈夫だ。怪我は? 先程の虫に刺されたり咬まれたりはしていない?」
「大丈夫です、ありがとうございます。ジェイク様」
恥ずかしそうに頬を染めてそう伝えてくるセレスティナがどうしようもなく可愛く思えてしまい、ジェイクは無意識の内にセレスティナを抱き締める腕に力を込めてしまう。
「あの、ジェイク様?」
「──っ、すまない!」
ジェイクに強く抱き締められ、戸惑うように瞳を揺らすセレスティナに、ジェイクはバッと体を離すとセレスティナから距離を取る。
「セレスティナ嬢、先程落とした虫を遠くに処理してくるから食べててくれ」
「え? え、ええ。分かりました、ジェイク様」
セレスティナに声を掛けるなり、ジェイクはベンチから腰を上げるとさっとベンチの裏に回り、その場にしゃがみ込んだ。
(俺、は先程何を──)
ジェイクは、恐らく真っ赤になっているであろう自分の顔の口元に手をやり、その場に蹲る。
瞳を濡らして見上げてくるセレスティナに、
自分の胸元に縋り着いてくるセレスティナに、
薄く、薄らと空いたセレスティナの唇にジェイクは自分の唇を重ねてしまいたい、と言う感情を抱いてしまった。
はっきりと、セレスティナに劣情を抱いてしまったのだ。
(俺、はフィオナが好きなはずなのに……!)
好きでいなければいけない。
フィオナと婚約したいからセレスティナに偽の婚約者役を頼んだのだ。
フィオナを好きでいないと、セレスティナと一緒に居れなくなってしまうのに、何故俺はあんな事を、とジェイクは自分の頭が真っ白になって呆然とその場にしゃがみ込んだまま暫く動けなかった。
──ジェイク様の態度が変だ。
あの昼食の虫襲来事件から、ジェイクはセレスティナと共にいると何処かそわそわとして落ち着かない。
馬車での送り迎えの時などそれが如実で、ふと目が合うと不自然な程思い切り目を逸らされてしまう。
「私、何かしてしまったのかしら」
やっぱり、虫位であんなに怯えるのが嫌だったのかしら、とセレスティナが自室で考えていると自室の扉がノックされる音にはっと意識を引き戻す。
「はいっ」
扉の向こうにいる人物に返事を返すと、扉を開けて顔を覗かせたのはセレスティナの父親である。
「お父様、どうなさいました?」
また、領地経営で赤字でも出たのかしら、とセレスティナが考えていると、何とも言えないような表情をした父親が躊躇いながら唇を開いてきた。
「その、セレス……カートライト侯爵から手紙が届いたのだが……その、セレスは、カートライト侯爵のジェイク殿とお付き合いをしている、のかな……?」
「──っ」
セレスティナは、しまった。と表情を歪めるとすっかり両親に伝えるのを忘れていた事に気付いた。
先日、ジェイクの侯爵家に挨拶に行ってしまったのだ。それを考えれば伯爵家の実家にも連絡が来てしまう事は分かっていたのに、伝えるのをすっかりと忘れていた自分を心の中で叱責する。
セレスティナの答えを待っている父親に、セレスティナはこくり、と頷くと唇を開いた。
「──ええ、お父様。今、ジェイク・カートライト様とお付き合いをさせて頂いているのは本当です」
"付き合うふり"ではあるけど、と心の中で付け加えると、父親はセレスティナの言葉に驚きに目を見開いている。
それはそうだろう。今まで男性に全く興味がなく、婚約についても後回しにしていた自分が突然男性と付き合っているなんて思いもしなかっただろう。
嘘の事とは言え、気恥しさからセレスティナは父親から視線を逸らしたままにしていると、父親が続けて言葉を放つ。
「その、な? 今週末、是非両家でお食事しませんか、とカートライト侯爵からお誘いを受けてしまった……」
父親からジェイクと、ジェイクの両親との食事に誘われた、と聞いた翌日。
セレスティナはいつものように馬車で迎えに来るジェイクに話を聞いてみよう、といつもより少し早めに自宅の門前に姿を表していた。
「どうしよう、こんな大々的に顔合わせをしてしまったら簡単に婚約解消が出来なくなってしまわないかしら……」
セレスティナは、ぶつぶつと呟きながら門前をうろうろと落ち着きなく行ったり来たりとしてしまう。
何か変な事を言ってしまわないようにしないと、と考え、セレスティナはジェイクの馬車が自分の視界に入った所で、ぐっと拳を握り気合いを入れた。
「セレスティナ嬢、おはよう」
「おはようございます、ジェイク様」
いつものように挨拶を交わし、セレスティナはジェイクの向かいに腰を下ろすとジェイクに視線を向けた。
セレスティナの必死に何かを訴えるようなその視線を受けて、ジェイクは困ったように笑うと唇を開く。
「俺も昨日父上から聞いたばかりでな……」
「そうなのですね……どうしましょう、私はどのように振る舞えばいいですか?」
おろおろとし出すセレスティナに、ジェイクは思案するように馬車内で上方に視線をやると暫し黙る。
「そうだな……セレスティナ嬢は、いつも通り……学園で演じてくれているような雰囲気で居てもらえればいい」
「──それだけ、ですか? もっと、こう……ジェイク様が好きだ、と言うような雰囲気を全面に出さなくても大丈夫ですか?」
「ああ。セレスティナ嬢は、嘘が苦手だろう?無理して演技をしなくても大丈夫だ」
ジェイクは、自分で話した言葉に傷付いたような表情をしてそっと視線を逸らす。
セレスティナは、そのジェイクの表情に戸惑いを覚えてえ?と目を見開く。
何故、ジェイクは自分で言った言葉に傷付いているのだろうか。
寧ろ、今の言葉達の中に傷付く言葉があっただろうか、とジェイクの言葉を思い出そうとした所で、セレスティナの表情から何を考えているのか読み取ったのだろうか。ジェイクは咳払いをすると唇を開く。
「一先ず、週末はご両親と一緒にカートライト侯爵家に来てくれ。昼食を共に、と言っていたので間に合うように馬車を向かわす」
「分かりました。迎えまでありがとうございます……折角レーバリー嬢と共に過ごせる週末なのに、申し訳ございません」
本当に申し訳なさそうに眉を下げて謝罪してくるセレスティナに、ジェイクは慌てて首を横に振ると「気にしないでくれ」と伝えた。
学園の授業が全て終わり、ジェイクと共に馬車へと向かっている最中、セレスティナはいつかのあの日のように自分の視界にフィオナ・レーバリーの姿を見つけた。
「ジェイク様、ジェイク様」
「ん、何だ? セレスティナ嬢」
つんつん、とジェイクの袖口を軽く引っ張り、セレスティナはこそりと声を顰めてジェイクに話し掛ける。
セレスティナの行動に目尻をほんのりと赤く染めたジェイクが、口元を若干緩めながらセレスティナに視線を向ける。
「あそこに、レーバリー嬢がいらっしゃいますよ」
嬉しそうに自分に伝えてくれるセレスティナに、ジェイクは複雑な気持ちになるとそっとフィオナに視線を向ける。
以前まではあれ程フィオナに恋焦がれていたと言うのに、今ではフィオナを視界に入れても以前のような気持ちが溢れ出て来ない。
ほんわか、と和む気持ちはあるが、自分がセレスティナに先日から抱いているような気持ちをフィオナに全く感じなくなっていて、ジェイクは混乱した。
眉を顰めてフィオナを見つめるジェイクに、セレスティナは自分は何か不味い事を言ったのだろうか、とオロオロするとジェイクを心配そうに見つめてくる。
ジェイクは、自分の態度のせいでセレスティナに余計な気を使わせている、と申し訳なく思い、フィオナに視線を向けたままぽつりと呟いた。
「ああ、……うん、そうだな」
会えない寂しさに、悲しみや苦しみを抱いているような様子ではない事にセレスティナは気付くと、ここ数日のジェイクの態度が変化した事はフィオナに関係する事なのだと理解した。
以前のように、恋焦がれるような視線でフィオナを見つめることがないジェイクに、セレスティナは困惑する。
(ジェイク様は、レーバリー嬢の事が好きなのよね? なのに、何故こんな表情をするの?)
セレスティナが戸惑っていると、ふとジェイクから視線を感じてジェイクを見上げる。
ジェイクは、じっとセレスティナを見つめると何か言いたそうな表情を一瞬見せてから視線を逸らし、前を真っ直ぐ見て途中歩く速さが落ちていた事に気付き、歩くスピードを元に戻すと自分の家の馬車が学園の門前に来ている事を視界に入れた。
「取り敢えず今は帰ろうか」
「──っ、ええ、ジェイク様」
するり、と自然な流れでジェイクはセレスティナの手のひらを掬うと、自分の指と絡めて馬車へと進んで行った。
今までは馬車までの道すがら、手を繋ぐ事なんて無かったのに何故突然? とセレスティナは頬を染めてジェイクに手を引かれるまま馬車へと足を進めた。
そんな二人を、遠くからフィオナが無表情で見つめていたなんて二人はちっとも気付かなかった。