二十一話
「──セレスティナ……っ!」
後ろからジェイクの声が聞こえて来たと思った瞬間、駆け寄る音が聞こえて来て、セレスティナが振り向くと同時にジェイクに腕を掴まれる。
「ジェイク様……っ」
「セレスティナ、待ってくれ……ち、違うんだ……」
まるで懇願するようなそのジェイクの態度に、セレスティナは益々違和感を覚える。
セレスティナは困惑したような表情を浮かべると、そっとジェイクが掴んだ腕をジェイクの手のひらから抜いて一歩距離を取った。
「違う、と言われましても……。何が違うのか分かりませんし、これ以上ジェイク様に振り回されるのはもう懲り懲りなのです……」
「すまなかった……。セレスティナに沢山迷惑を掛けてきてしまって申し訳ない……だが、フィオナ嬢から聞いた言葉は、その……いや、違くはないのだが……、俺の本心ではあるのだが……そもそも俺からセレスティナに伝えねばいけない気持ちであって……」
セレスティナから距離を取られたジェイクは一瞬だけ傷付いたような表情を浮かべたが、覚悟を決めたのだろうか、しっかりとセレスティナと目を合わせて言葉を紡ぎ始めるが、最後の方はごにょごにょと呟いているせいで何と話しているのか聞き取れず、セレスティナは眉を顰める。
先程からずっと、ジェイクの態度や言葉が煮え切れず、セレスティナは眉を顰めたままジェイクに向かって唇を開く。
「──何を仰いたいのか分かりませんし、聞き取れません。レーバリー嬢が言った事が本当だ、と言うのならばやはりもう私達が一緒にいる事は好ましくありません。早急にこの契約の解消を致しましょう」
「──っ、嫌だ! 駄目だ、婚約の解消は行わない!」
セレスティナの言葉を聞いた瞬間、ジェイクは弾かれたようにセレスティナに顔を向けて悲痛な声音で叫ぶ。
その声を聞いた瞬間、セレスティナはびくり、と体を強ばらせると「え?」と驚きに目を見開く。
「待って、下さいジェイク様──っ始めから偽の婚約者役は、レーバリー嬢との婚約の目処が立つまで、と言うお話でしたのに、これでは契約内容の違反です……っ! レーバリー嬢との未来に目処が付いたのならばこの契約はすぐに破棄するべきです!」
「レーバリー嬢との仲? それはもう、俺の中では終わっているんだ──……っ、セレスティナは確かに俺を薄情な男だと思うかもしれないが、だが、それでも惹かれてしまうのは仕方ないだろう?! 例えセレスティナに軽蔑されようとも、俺は自分の気持ちに嘘はつけないんだ……っ」
話がまったく噛み合わない。
お互いがお互いに自分の言いたい事ばかりを言葉にしていて、話の終着点が見えない事にセレスティナは困惑すると、一度落ち着いて話した方がいいだろう、と考える。
──何処か、落ち着いて話せる場所があるだろうか。
セレスティナはそう考え、きょろり、と周囲に視線を巡らせる。
何処か空き教室のような物があれば、そこで落ち着いて話した方がいい。
別棟で、人が訪れる事が殆どないとは分かっているが、それでもこのような廊下で契約、や婚約の解消、などと感情に任せて話していい内容では無い事に今更気付きセレスティナはジェイクから視線を逸らしたのだが、ジェイクはそんなセレスティナの態度を見て、再度自分から逃げようと周囲を伺っているのか、と思い込んでしまった。
「──セレスティナ……っ」
「──!」
セレスティナがジェイクから視線を外した隙に、ジェイクはセレスティナに素早く近付くとセレスティナの腕を引っ張り、自分の胸に強く抱き込む。
「ちょ……っ、ジェイク様っ!」
「駄目だ、俺から逃げないでくれセレスティナ……っ!」
ジェイクの突然の行動に、セレスティナは困惑すると同時に自分の顔に熱が集まってくる。
こんな真正面から強く抱き締められて顔を赤く染めないで居られる訳がない。
ぎゅうぎゅうと逃がさない、とでも言うように強く抱き締められてしまい、セレスティナは息苦しさを感じてジェイクの背中をばしばしと叩くが、抱き締める腕の力が弱まる事はない。
何故、突然ジェイクはこんな突拍子もない行動に出たのか。
そして、先程からジェイクが話す言葉達を思い出しセレスティナは益々自分の顔を朱に染める。
これでは、まるでジェイクが自分の事を好きだと言っているような物だ。
「ちょ、苦しい、苦しいですジェイク様っ!」
「駄目だ……っ、俺が今腕を離せばセレスティナは俺から逃げて行ってしまうだろう。それだけは、本当に嫌だ……こんな気持ちになるのも、こうやって抱き締めたいと思うのもセレスティナだけなんだ、本当に、俺は……好きと言う気持ちをきちんと理解してなかった大馬鹿者なんだ……」
ぐりぐりとセレスティナの頭にジェイクが自分の額を擦り付けてくる。
セレスティナは、ジェイクの言葉を聞いてやはり自分達の話が食い違っている事を確信すると、ふ、と自分の体から力が抜けてしまう。
「セレスティナ?」
ジェイクが驚いたように力の抜けたセレスティナの体を支えるようにぐっ、と支える力を強める。
これ、は。
もしかしたらレーバリー嬢にやられてしまったかもしれない。
未だに逃がさないように抱き締める力を緩めようとしないジェイクに、セレスティナはジェイクの胸元から顔を上げるとお互い落ち着いて話しをしよう、と提案する事にする。
「──ジェイク様、何だか先程から私達の話が噛み合ってません……一旦冷静になってお話しませんか?」
セレスティナから落ち着いて話をしよう、と言われジェイクは無言で頷くと、セレスティナの拘束を解く。
抱き締められていた体制から解放されて、セレスティナはほっと安心したように息をつくが、ジェイクの腕から解放された後すぐにセレスティナの手をするり、とジェイクに取られて指が絡められる。
「──……ジェイク様」
「すまない、セレスティナと少しでも触れ合っていたいんだが、駄目か?」
駄目か、と悲しそうに聞かれてしまえば駄目だと言い難い。
セレスティナは頬を染めたまま諦めたように一つ溜息を零すとジェイクに促されるまま、空き教室へと進んで行った。
──これは、今日はもう授業に出れないわね。
セレスティナは、午前中の最後の授業が始まる鐘の音を何処か遠くで聴きながら、空き教室のソファへと促され、ジェイクの隣に腰掛ける。
ソファに座ったは言いものの、先程までお互いポンポンと言い合っていたのが嘘のように今では互いに口を閉ざして黙り込んでいる。
先程の言い合いで、ジェイクの気持ちはほぼ分かってしまっている。
セレスティナは先程ジェイクから告白まがいな物をされてしまった事を思い出し、そして困惑した。
改めて話をしよう、と空き教室に移動したはいいものの先程のようなジェイクの告白まがいな言葉をもう一度聞かねばならないのか、と考えてセレスティナは頬を染める。
「──セレスティ、ナ……その、先程話した俺の言葉に偽りはない、んだが……その、セレスティナは一体フィオナ嬢に何を聞いたんだ?」
気まずそうにチラチラと視線をセレスティナに寄越しながらジェイクが口火を切る。
話し掛けられて、セレスティナもぐっと拳を握り直すと、先程フィオナから言われた言葉をジェイクに包み隠さず伝える事に決めた。
「その、レーバリー嬢からは……ジェイク様との準備が整ったから、偽の婚約を早く解消した方がいい、と──」
「そんな事をフィオナ嬢がセレスティナに言ったのか!?」
驚いたような表情を浮かべて、ジェイクが素っ頓狂な声を上げる。
まさか、自分の預かり知らない所でフィオナがそんな事を言っているとは思わなくて、ジェイクは今まで自分に見せていたフィオナの態度や、笑顔が全て嘘だったのか、と愕然とする。
誰かを陥れるような真似をするような女性には見えなかった。思慮深く、とても心根の優しい女性だと思っていたのに、セレスティナから聞いたフィオナの話にこれでは、自分の周りに寄って来ていたその他の令嬢と同じではないか、とジェイクは自分の額に手を当て項垂れる。
そのジェイクの様子を見て、セレスティナは不思議そうな表情を浮かべてジェイクに話し掛ける。
「今の、私の話を全部信じてくれるのですか……?」
セレスティナの言葉にジェイクはキョトン、とした顔をするとさも当然と言うように頷いた。
「セレスティナが嘘をつくとは思わないからな」
「──っ、何でも、素直に全てを信じてしまうのはあまり宜しくないですよ」
「ああ……今回の事が本当に教訓になったよ……俺はもう少し人を疑うと言う事を覚えた方がいいんだな……」
「ええ、ジェイク様は人の悪意にもっと敏感になった方がいいと思います」
セレスティナの言葉に、ジェイクはピクリと眉を跳ねさせると、隣に座っているセレスティナの顔を覗き込む。
「──悪意……? まさか、今の事以外にもフィオナ嬢に悪意を向けられた事が? それとも、俺が側に居ない時に前のように令嬢達に囲まれでもしたのか?」
セレスティナはしまった、と自分の失言に気付くとぱっと自分の手のひらを唇に当てる。
その様子を見ていたジェイクは、眉を下げるとそっとセレスティナの手首を掴んで再度指を絡めて自分達の手を合わせると唇を開く。
「──何をされた? それとも、何か言われた? 俺は、自分の好きな女性が傷付けられて平然としていられる程出来た人間ではない」
はっきりと今度こそジェイクの口から好意を告げられて、セレスティナは自分の顔を真っ赤に染め上げる。
そんな雰囲気なんて先程まで微塵も無かったのに、ジェイクの瞳がとろり、と甘く細められる。
室内の空気も甘ったるいような雰囲気に変わってしまったような気がして、セレスティナは焦ってジェイクから若干体を離す。
セレスティナが離れた分だけジェイクは距離を詰めると、これ以上下がり切れない所まで下がると、セレスティナの背中がソファーの肘掛にトン、と当たる。
セレスティナの口を割らそうとジリジリ距離を縮めて来るジェイクに、セレスティナは観念したように唇を開く。
「あ、悪意と言うほどではないかもしれませんが……っ少し前に、私とジェイク様の仲が学園中に知れ渡った時レーバリー嬢と少しだけ会話をした事があるのです……っ」
「その時、フィオナ嬢は何と?」
じりじりと尚も近付いて来るジェイクに、セレスティナは顔を背けながら言葉を続ける。
「その……っ、隠れ蓑になってくれてありがとう、と……」
「礼、だけ? それだけ?」
「──ジェイク様と、男女の仲であるような雰囲気で、"助言"をされました……」
はしたない事をジェイクの目の前で言わされ、セレスティナは羞恥心で赤く染まった顔を隠すように自分の両手で顔を覆う。
半ばソファの肘掛に背中を預け、仰向けに倒れているようなセレスティナの上から見下ろしているジェイクは、眉を顰めると嫌悪感に表情を歪める。
貴族令嬢として、そんなはしたない事を寄りにもよってセレスティナに嘯いたのか。
ジェイクはそう胸中で毒付くとセレスティナに向かって唇を開く。
「恐らく、その頃には既にフィオナ嬢から気持ちが離れていた俺の様子を見て、セレスティナに嫌味を言ったのだろう……誓って、フィオナ嬢にそんなはしたない真似はした事はないし、俺は結婚前に男女の仲になる事等あってはならない、と思っていたから……中々自分に手を出さない俺に焦れていたんだと思う……嫌な思いをさせてしまってすまない」
ジェイクはセレスティナを抱き起こすと、そのままぎゅう、と抱き締める。
ジェイクの言葉に嘘偽りはない。
本当に、フィオナとお付き合い、というものをしていた時はそう思っていたのだ。
抱き締める事はあったが、唇を合わせたい、と言う欲求は感じた事もない。
勿論、それ以上の気持ちも抱いた事がない。
そんな自分の気持ちに気付いていたフィオナが、当てこすりのようにセレスティナに嫌味を言ったのだろう。
自分の前では思慮深く、とても心根の優しい女性を演じていたのだろう、と思い至る。
人を陥れるような貴族の女性然とした雰囲気など微塵も見せず、上辺だけの綺麗な部分を見せられていたのだ。
そして、ジェイクはすっかりその姿に騙されてしまっていた。
「──そんな事があった、とは……俺は自分が情けない」
ジェイクはセレスティナを抱き締める腕に力を込めると、これからどうしようか、と考えを巡らせた。