二十話
セレスティナは、苛立つ気持ちを抑える事なくフィオナが漏らした「別棟の非常階段」へと向かっていた。
次の授業が始まってしまうがそんなものは最早どうでもいい。
何故、自分はジェイク本人からではなく、フィオナから婚約者役終了の事を聞かねばならないのか。
「──レーバリー嬢にプロポーズするなら、婚約者役の期間について少しは教えてくれたって良かったじゃない……!」
先日、期間について相談した時はまだ、とか言っていた癖にしっかりと自分は準備を進めていた、と言う事だ。
部外者には教える義務なんてない、とでも思っているのだろうか。
部外者と言えど、婚約者役を演じているのだから一言あったって良かったのに、そんな気配がまったくなかったのだ。
セレスティナは、ジェイクと少しは距離が縮まっていたと思っていたが、ジェイクの考えている事がまったく分からない。
縮まった、と思っていたのはどうやら自分だけだったのだろう。
「何だか、裏切られた気分だわ──」
セレスティナはぎゅうっと拳を握ると足早に別棟の非常階段へと駆けて行った。
(……もうそろそろ戻らなければ)
ジェイクは、脱力したように非常階段の階段に座り込んだまま額に手を当てぼうっと空を眺めていた。
フィオナから話を切り上げられてから、どうにも教室に戻る気分にはならなくてずっとこの場に腰を下ろしたままだ。
「セレスティナ……セレスティナ──」
何度も好きな人の名前を自分の口の中で呟きながら額に当てていた自分の手のひらで前髪をぐしゃり、と握る。
──どうすればいい?
フィオナから言われた言葉をそのまま呑むか? だが、そうしたらセレスティナに告白が出来ず、他の男に気持ちを寄せてしまうかもしれない。
それならば、卒業までずっと婚約者役を続けてしまい、卒業後もそのまま婚約者としてセレスティナを縛り付けてしまおうか?
「だが、それはセレスティナの気持ちを無視した独り善がりの行為だ……」
ジェイクには、何が正解で何が間違っているのか既に分からなくなっていた。
先程からこのように似たような事を考えては自分で否定し、考えては否定し……、と繰り返していたらいつの間にかこんなに時間が経ってしまっていた。
「午前中の授業を全てサボるわけにはいかない。セレスティナも心配するからもうそろそろ本当に戻らないとな……」
ジェイクはぽつりと呟くと、その場から腰を上げる。
実際、朝早く学園に来た際にジェイクは鞄を教室に置いてきてしまっているのだ。
セレスティナにもジェイクは学園内に居ることは分かっているだろう。姿を表さないジェイクを探しているかもしれない。
ジェイクは、無性にセレスティナの笑った顔が見たくなって、教室に戻ろうと階段の段差を一歩登った。
その瞬間。
──ぎいい。
と錆びたような音が響いて、非常階段の扉が開く。
「──っ」
また再びフィオナがこの場所に戻ってきたのか、とジェイクは身構えたが鈍い音を立てて開いた扉からは、ジェイクが今までずっと頭の中で会いたい、と考えていた人物が姿を現した。
「──セレスティナ……っ」
ほっとしたように表情を綻ばすジェイクの顔を見て、反対にセレスティナは表情を歪ませる。
「レーバリー嬢の言う通り本当にここに……」
「──何だ? 聞こえないが──……」
非常階段の扉の閉まる鈍い音に紛れて、ぽつりと零したセレスティナの声が聞こえない。
ジェイクはたんたん、と階段を登って行くとセレスティナの側まで行こうとそっと腕を伸ばした。
「──……っ、」
だが、セレスティナは近付いてくるジェイクから反対に距離を取るように自分の足を一歩後ろに引いて、ジェイクから離れる。
「……セレスティナ?」
ジェイクは、自分の胸がぎしり、と軋むような痛みを感じて表情を曇らせる。
何故、セレスティナは苦しそうな、悲しそうな表情を浮かべて自分を見ているのだろうか。
ジェイクは困惑しながらセレスティナに触れる手前で足を止めると、もう一度セレスティナの名前を呼ぶ。
「セレスティナ、どうした──」
「レーバリー嬢から全てお聞きしました」
きっぱりと突き放すような冷たい声音でセレスティナから言われ、ジェイクは頭の中が真っ白になってしまった。
フィオナから、全てを聞いた、と。
セレスティナは責めるような表情でジェイクを見つめている。
そのセレスティナの表情を見て、ジェイクは悟った。
先程、フィオナと話していた内容をフィオナがセレスティナに話してしまったのだ、ということを。
つまりは──。
(俺、がセレスティナを好きだと言う事がセレスティナにばれた、のか──……)
そして、恐らくフィオナが言っていたように、セレスティナはジェイクの事を軽い男だ、と軽蔑しているのだろう。
軽蔑しているからこそ、冷たい声で、責めるような表情でジェイクを見つめているのだろう。
その事を理解してしまったジェイクは、自分の足元がガラガラと音を立てて崩れていくような感覚を覚えた。
さあっ、と顔色を悪くするジェイクに、セレスティナは「やっぱり」と小さく呟くと、ジェイクに追い討ちを掛けるように更に唇を開く。
「やはり、レーバリー嬢が言っていた事は本当なのですね……。それでしたら、私達もこのままではいられません」
「──セレスティナ?」
ジェイクは、嫌な予感を感じてドクドクと早鐘を打つ自分の心臓を抑えるように手を当てると、伺い見るようにセレスティナへと視線を向ける。
視線を向けた先にいるセレスティナの瞳からは、なんの感情も読み取れなくてジェイクはひゅっと息を呑んだ。
「早急に、──なるべく早く私達の婚約を解消しましょう。つい先日婚約を結んだばかりではありますが、両家の両親にしっかりと事情をお話しして、謝罪を致しましょう」
「解、消……」
「ええ、ジェイク様も早く"婚約者役"等居なくなった方がレーバリー嬢ともお早く婚約し直せると思います……。お話ししたい事はこれだけですので、私はこれで失礼しますね」
「レーバリー嬢……? ちょ、ちょっと、待っ──!」
ジェイクは、セレスティナの口から突然出てきたフィオナの名前に困惑すると、セレスティナを呼び止めようとしたがジェイクの声を振り切るようにセレスティナは背後の扉を開けると足早に出て行ってしまう。
「待ってくれ、セレスティナ──っ、痛っ!」
ジェイクは扉から出て行ってしまったセレスティナを追おうと扉に駆け寄ったが、急いでいたせいか、思い切り扉に自分のつま先を打ち付けてしまう。
「──っ、」
ジェイクは余りの痛みにその場に蹲ると、涙目で扉を見つめる。
ギイイ、と音を立てて閉まる扉の隙間から、セレスティナの姿が見えて、そして扉が完全に閉じ切るとセレスティナの姿が見えなくなった。
ジェイクはじんじんと痛むつま先の痛みが治まって来るまでその場を動く事が出来ず、出て行ってしまったセレスティナを追い掛ける事が出来なかった。
セレスティナは、ジェイクの呼び掛けを振り切るように扉から出て行くと、廊下をパタパタと駆けて行く。
扉から出て行く時、確かにジェイクの声で呼び止められた気がしたが、追い掛けてくる気配は感じない。
セレスティナは少し離れた所で足を止めると、肩越しに後ろを振り返る。
振り返った先には、非常階段に続く扉が見えており、その扉が開くような気配は感じれない。
「──っ、何故、ジェイク様は呼び止めたりしたの……っ呼び止めるくらいなら追い掛けて来てよ……っ!」
くるり、とセレスティナは扉に背を向けるとそのまま教室へと戻る為に別棟の廊下を再度駆け出した。
もう、ジェイクと話す事は話した。
教室でももう以前のようにやり過ぎな婚約者役を演じる必要はないだろう。
今後、ジェイクはフィオナと本当の婚約を結び直すのだから、自分達の仲が良くない物に変わっている、と周囲に印象付けた方がいいだろう。
それならば、教室に戻ったら今後は徐々にジェイクと距離を置いて、周囲に自分達が別れた、と思わせないといけない。
そこまで考えて、セレスティナはふと思い出す。
そう言えばジェイクは今日の朝は共に行けないが、帰りは一緒にいつもの様に帰ろうと言っていたのだ。
「……と言う事は、ジェイク様はまだこの偽装婚約を続けるつもりだったの……?」
セレスティナは混乱して困惑の表情を浮かべると「何の為に?」と考える。
何故、フィオナとの婚約の準備が整ったのに未だに自分と婚約者役を続ける必要があるのだろうか、と考えるがいくら考えてもジェイクの考えが読めない。
ジェイクのしようとしている事がちぐはぐ過ぎて、何をしたいのか、ジェイクはどうしたいのかが分からない。
セレスティナは走っていた状態からぴた、と足を止めると何だかおかしな状態になっている事に気付く。
先程は、フィオナの言葉を信じて頭に血が上った状態のまま思考もめちゃくちゃでジェイクに詰めるように言ってしまったセレスティナであったが、言われたジェイクは初めは絶望したように顔色を真っ青にしていたが、セレスティナの言葉を聞いたジェイクは後半、慌てたようにセレスティナを呼び止めようとしていた。
「──何故、ジェイク様がショックを受けたような表情をしていたの……?」
ショックを受けたのはこちらだ。
裏切られたような気持ちになって、悲しみと怒りが湧いてきたが、今考えれば何故ジェイクがショックを受けていたのだろうか。
「あれ……?何かがおかしい……?」
冷静になった今、何かがおかしい様に感じてセレスティナは首を傾げる。
何とも言えない違和感が拭えず、廊下に立ち竦んでいると、背後の非常階段の扉が開く音がして、ジェイクの声で自分の名前を切なげに呼ばれた。