十六話
セレスティナの言葉にジェイクは傷付いたような表情を一瞬だけ浮かべると、セレスティナが「え?」と思った瞬間にはいつもの優しげな表情に戻っていた。
今見えてしまった表情は自分の見間違いだろうか、とセレスティナが考えているとジェイクが困ったような表情を浮かべて唇を開く。
「──フィオナ、嬢は関係ないから大丈夫だ。セレスティナが危惧しているような事は起きていないからすぐにこの関係を解消する必要はない」
「え、ですが……」
「そんなに早く俺と偽装婚約を解消したい? ……ただ、もう少し待ってくれ。この間両家と顔を合わせたばかりだからまだ期間を決めるのは早い」
「それ、は……そうですけど」
もごもごと口ごもるセレスティナの態度を見て、ジェイクはもしや、と頭の中にある考えが浮かんでしまう。
(先日、セレスティナとここで会っていた男と婚約を結び直したい、とでも言うのか……? だから、俺との契約期間を早く決めて本当に好きな男とセレスティナは……)
先日、この場所で自分以外の男に気を許したような表情で笑いかけていたセレスティナを思い出し、ジェイクはズキリと自分の胸が痛むのを感じた。
あれから、自分の前ではあの時のような屈託のない笑顔を見せてくれた事はない。
いつも穏やかで役として演じているような優しい微笑み。
決して初日に会った時のような砕けた態度ではなく、セレスティナ自身を見せてくれていない事にジェイクは切なくなってしまう。
自分の前では殆ど婚約者役の仮面を被って、決して本心を見せようとしないセレスティナ。
(あの男の前だったら、セレスティナは飾らず自然体でいれるのか……)
それならば、セレスティナの言う通り早くこんな婚約者役から解放した方がいい事は分かっているのだが、どうしてもこの話題になると話を逸らしたくなってしまう。
このままずるずるとこの関係を続けていいとはジェイク自身も思っていない。
だが、セレスティナに自分の気持ちを伝える為にはフィオナとの関係の精算が先だ。
けれど、先日フィオナと話した所、簡単に別れに応じてくれる気配がない。
それに、無理にフィオナと別れようものならフィオナが言いふらしてしまうかも、と言っていた内容にジェイクは唇を噛み締める。
自分の事は周囲にいくらでも言われてもいいが、セレスティナを巻き込みたくはない。
それに、セレスティナが傷付けられるのは耐えられない。
ジェイクは、先日から堂々巡りになってしまっている自分の思考に頭が痛くなってくる。
どうしたらフィオナとの関係を精算して、セレスティナに想いを告げられるのだろうか。
ジェイクは、目の前にいるセレスティナに視線を向けると、唇を開く。
「時期についてはもう少ししたらちゃんと話し合って決めよう。まだ、もう少しはこの状態のまま頼みたい」
「──分かり、ました」
腑に落ちないような表情をしているが、一先ずは納得してくれたセレスティナにジェイクはほっと安堵の溜息をつくと、そこで店員が飲み物を持って入室して来る。
二人は、ぎこちないながらもポツポツと会話を続け、この後の事を話した。
「この後は、どうしようか……流石にこの後直ぐに帰宅するのはな……セレスティナは何処か行きたい場所はあるか?」
ジェイクはセレスティナに視線を向けると、行きたい場所がないか尋ねる。
ジェイクの突然の言葉に、セレスティナは戸惑うと暫し考えているようだが、行きたい所を思いついたのだろうか。
ぱっと顔を上げるとジェイクに向かって唇を開く。
「えっと、それでしたら……小間物を扱っているお店に行ってもいいですか? 授業で使っているペンがこの間壊れてしまったんです」
「ああ、勿論。この店を出たらセレスティナが行きたいその店に行こうか」
「──ありがとうございます」
ふわり、と笑顔を見せるセレスティナに、ジェイクも瞳を細めて微笑むと少し前のぎこちない雰囲気が少しだけ柔らかい空気になった。
二人が店を出て、学園にいる時と同じように手をつなぎながら貴族街を歩いているとセレスティナが行きたい、と言っていた店が視界の先にみえてくる。
「あ、ジェイク様。あそこです」
「──ああ、あの店か」
二人がその店に近付いて行くと、店の前に到着した時に目の前で店の扉が開いた。
どうやら、店から客が出てきたようでタイミングが合ってしまったらしい。
ジェイクとセレスティナは入口の横に体をずらし、店から出てくる客を待っていると、その店から姿を表した客の姿を見てジェイクも、セレスティナも目を見開いた。
そして、ジェイクの隣にいたセレスティナはその男に明るく声を掛けた。
「フィリップ! こんな所で合うなんて……! 奇遇ですね」
「セレスティナか! 本当に奇遇だな」
セレスティナにフィリップ、と呼ばれた男は表情を綻ばせると、嬉しそうに近付いて来たセレスティナの頭を撫でる。
その行動に、ジェイクはぴくり、と眉を跳ねさせると不快そうに表情を歪ませた。
「──ん? あ、そこにいるのはもしかしてカートライト侯爵子息ではないですか? セレスティナがいつも世話になっているようで、ありがとうございます」
「何故貴方が、お礼を言うんだ……?」
ジェイクはむっとした表情のまま、フィリップにそう答えると、フィリップは面白そうに瞳を瞬かせ、セレスティナはぎょっと目を見開いている。
「ジ、ジェイク様──っ」
「行こう。セレスティナ。失礼する」
ジェイクはセレスティナの手首を掴むと、そのまま店の中へと進んで行く。
「フィリップ、ごめんなさい、また──!」
「……っ」
「ああ、またな、セレスティナ」
ジェイクの隣で、背後にいるフィリップに向かって振り向くセレスティナに、そのセレスティナに笑顔で手を振るフィリップにジェイクは苛立ちを隠す事なく、セレスティナの手首を掴んでいた自分の腕をセレスティナの腰に回すと強引に店内へと足を進めた。
「ジェイク様……っ、急にどうしたんですかっ」
いつもの紳士然としたジェイクの姿ではなく、苛立ちを顕にした様子のジェイクに戸惑い、セレスティナは声を掛ける。
いつもだったら、こんな風に失礼な態度なんて取らないのにどうしたのだろう、と不安になっていると、ジェイクがセレスティナを横目で見ながら唇を開く。
「君、は。俺の婚約者だろう」
「へ? ──え、ええ。そうですね、今は」
「──っ」
セレスティナの言葉を聞いて、ジェイクは更に眉を顰めると唇を噛み締めている。
(な、なんなの……? どうして突然不機嫌になるのよ……! さっきまでは穏やかだったのに)
自分の腰に回された腕が離れる気配が感じられない。
このまま体を寄せ合ったまま店内を見て回るつもりなのだろうか。
仲の良い婚約者としてはいいアピールになるだろうが、店内には他にも数人の客がいる。
周りから送られてくる生暖かい視線にセレスティナは頬を染めるとジェイクが腰に回した腕を離してくれるように頼もうと唇を開く。
「そ、それよりもジェイク様。狭い店内でこんな風に体を寄せ合うのもちょっと、その……動きにくいので腰から手を離してもらってもいいですか?」
「いや、このまま店内を見て回ろう」
「──えぇ……」
セレスティナの言葉を聞くなり、ぴしゃりとセレスティナの提案を断ると本当にそのまま店内を見て回るようだ。
セレスティナが困惑していると、先程話していた授業で使用するペンの売り場に着いたのか、ジェイクが足を止める。
「セレスティナはどんなペンが欲しいんだ?」
ぐっ、と顔を近づけて聞いてくるジェイクにセレスティナは体を後ろに逸らそうとしたが、ジェイクに腰を抱かれたままなのでそれも出来ず、自分に近付く端正な顔から視線をそっと逸らして数種類のペンへと視線を落とす。
「授業で使用するので、そんなに良い物でなくてもいいんです……本当に、書ければそれだけで……」
ジェイクから契約金を貰っているとは言え、自分の私物にお金を掛けるつもりはない。
普通に書ければいいだけなのだ。普通の貴族の子息や令嬢であれば予備のペン等数本持っているが、財政難なセレスティナの家では一つの物を大事に使うため予備は持っていない。
一番安価な種類の物を見ていると、ジェイクがふととあるペンを手に取った。
「これなんていいんじゃないか?」
「えっ!」
セレスティナはジェイクの手の中にあるペンを視界に入れて、ぎょっとして目を見開く。
ジェイクの手の中にあるのは硝子ペンで、ペン先の指を添える部分に美しい模様が細工された金具が嵌められており、ペン先とボディー部分には淡い色彩が彩られておりとても綺麗なペンだ。
ペン先も替えられるようで、ボックスの中には複数の取り替え用のペン先と、インクが数種類同梱されている。
「と、とても美しいですが……私はもっと安価な物でいいのです」
安い物でいい、と言うのが恥ずかしくてジェイクの耳元でこそっと声を掛けるとジェイクは何かを考えるように暫し黙った後、ひょい、と硝子ペンが入ったボックスを二つ手に取る。
アクアブルーの硝子ペンと、グリーンの硝子ペン。
その色を確認した途端、慌ててセレスティナはジェイクに視線を向ける。
「ならば、これは俺が買ってセレスティナに贈ろう」
「そんな……! こんな高価な物頂けません」
慌ててジェイクを止めようとするが、ジェイクが次いで放った言葉を聞いた瞬間、セレスティナは顔を真っ赤にさせて固まってしまった。
「セレスティナに俺の色を贈りたいし、セレスティナの色を俺も持っていたい」
会計してくるからここで待っててくれ、と笑顔で頬を撫でて会計へと向かって行く背中をセレスティナはただ顔を真っ赤に染めて見送る事しか出来なかった。
ジェイクの瞳の色はアクアブルーで、セレスティナの瞳の色はグリーンだ。
相手の瞳の色を贈り物として贈るという行為の意味をジェイクは分かっているのだろうか。
セレスティナは、真っ赤になったまま、困ったように眉を下げるとジェイクの後ろ姿をじっと見つめた。