十二話
正式な婚約を結んでから、ジェイクの甘い雰囲気が悪化したように思える。
「セレスティナ、余り重い物は持たないでくれ。君が腕を痛めたら大変だ」
「あ、ありがとうございますジェイク様……」
蕩けるような瞳で至近距離で見つめられ、甘い声音で囁かれる事が増えた。
ちょっとやり過ぎな気がする、と苦言を呈した事もあったが、ジェイクには流されてしまって対応の仕方が緩和される気配がない。
昼食からの帰り、セレスティナが持っていたバスケットをさらっと奪ってしまうと空いている手で指を絡めながら手を繋がれて教室へと戻る。
学園への登下校も同じようにしっかりと指を絡めて手を握られ、セレスティナは周囲から向けられる視線に顔を真っ赤にさせてしまう日々が続いていた。
暫く、ジェイクからのやり過ぎな甘い雰囲気攻撃を受けていた頃。
放課後、ジェイクが教師から呼ばれた為少し席を外していた。
セレスティナは今の内にお手洗いに行ってしまおう、と「ここで待っていてくれ」と言われていた教室を出て行った。
放課後はもう殆ど生徒達は帰宅している為、そこまで危険はないだろう、と判断しての事だった。
お手洗いに向かって、セレスティナが手を洗っていると、扉が開く。
どうやらまだ学園内に生徒が残っていたようだ。
セレスティナは対して気にもとめずふ、と扉の方向へ視線を向けると入ってきた人物を見て驚きに目を見開いた。
「──あら」
相手も驚いたように声を出すと、「ごきげんよう」と声を掛けてくる。
セレスティナも、ドギマギとしながら詰まりがちに挨拶を返すと、扉から姿を表した女性──フィオナ・レーバリーはセレスティナに向かって唇の端を持ち上げると「ふ、」と微かな笑い声を漏らした。
「──え?」
「ああ、大変失礼致しました……ここ最近のジェイク様の必死な様子がおかしくって」
「どう言う、意味でしょうか?」
「いえ、クロスフォード伯爵令嬢にはとても感謝しておりますのよ? 堂々と人前で寄り添う事が出来ない私とジェイク様の為に隠れ蓑になって頂いて……本当に感謝しかございません」
くすり、と笑いながらそう言葉を掛けられてセレスティナは何だかもやり、としてしまう。
こんな感情を抱いてしまうのはいけない事なのは分かっている。だけど──
(何だか……レーバリー嬢は想像していたご令嬢と違う──)
「ジェイク様にも必死に演じて頂いているお陰で、誰も私達の関係に気付いていないみたいです。彼に代わってお礼申し上げますわね?」
「いえ、元々そう言うお話だったのですからお礼には及びません……」
セレスティナは、これ以上この場にいたくないと思い、不躾ではあるが話を切りあげお手洗いから出て行こうと、フィオナの横を通り過ぎる。
ジェイクが戻ってくるかもしれない、早く教室へと戻らないと、と考えながら扉の取っ手に手を掛けた。
「まあ、学園にいる間とは言え……とても役に立って貰っていますわ。ありがとうございます。ああ、そうだ。ジェイクって、とても体温が高いでしょう? あまりくっつき過ぎると汗をかいてしまうからクロスフォード伯爵令嬢も風邪には気をつけて下さいませね」
「──っ」
こんな場所で何て、事を。
扉が閉まる瞬間、セレスティナが頬を染めて振り返ると、閉まる扉の隙間からフィオナが嘲るように勝ち誇った表情を浮かべ、唇が弧を描いているのを見てしまい、セレスティナは弾かれたようにその場を駆け出した。
「ジェイク様は、レーバリー嬢の何処がそんなに好きなのかしら……」
あまり人様の好きな人に嫌な感情は持ちたくないが、先程のフィオナの表情からははっきりとセレスティナを見下しているような感情が透けて見えてしまっていた。
ジェイクとはあまりフィオナの事を話さないから知らなかったが、とても気が強く勝気で貴族令嬢としてのプライドが高いように感じられる。
自分は、ジェイクに愛されていると言う絶対的な自信があるのだろう。
だから、身代わりであるセレスティナよりも自分は立場が上だと思っている節がある。
「だからと言って、爵位では私の家の方が上なのに……没落しそうだけれども……」
セレスティナは何だかもやもやとした気持ちを抱きながらジェイクが戻って来るであろう自分達の教室へと戻った。
セレスティナが教室へと戻ってくると、既に戻って来ていたのだろう、ジェイクが落ち着きなくうろうろと教室内を歩いている。
ガラ、と扉が開く音に弾かれたように音の聞こえた方向へ振り向くジェイクに吃驚してしまい、セレスティナは扉を開けた体制のまま硬直してしまう。
「セレスティナ! 何処に行っていたのか心配した!」
「も、申し訳ございませんジェイク様……」
安心したように表情を緩めてこちらに駆け寄って来るジェイクに、セレスティナはくしゃり、と表情を歪ませるとジェイクから視線を逸らした。
(何だか、今はジェイク様と真っ直ぐ視線を合わせる気持ちになれない)
何故だかわからないが、もやもやとした気持ちが膨れ上がりジェイクの顔をまともに見る事が出来ない。
セレスティナがあからさまに視線を逸らした事にジェイクは気付くと、眉を下げながらセレスティナの顔を覗き込む。
「セレスティナ? どうして俺と目を合わせてくれない……? 何か俺はセレスティナにしてしまった?」
自然な流れでジェイクはセレスティナの頬に自分の手を添えると、逸らされた顔を自分に向けるように促す。
まるで本当に大切な婚約者にでも話しかけるようなジェイクの態度に、セレスティナはますます苦しくなって来る。
フィオナに会ったのだ、と言ってしまいたい。
そして、そのフィオナから言われた事をジェイクに伝えてしまいたい気持ちに駆られるがそんな告げ口のような事を出来る訳が無い。
しかも、フィオナはジェイクの想い人である。
ただの偽の婚約者から自分の好きな人の悪口めいた事を聞かされたらいくら優しいジェイクだってきっと怒りを覚えるだろう。
セレスティナは、ふるふると首を横に振るとなんでもありません、とジェイクに笑いかける事しか出来なかった。
「さあ、ジェイク様。そろそろ帰りましょう」
「ん、ああ。そうしようか……」
若干腑に落ちない態度ではあるが、ジェイクはこれ以上セレスティナに聞いても教えてはくれないだろう、と察したのだろう。
諦めたように一つ吐息を零すといつものようにセレスティナの手を掬い取り、指を絡めながら学園を後にした。
いつも通り伯爵邸に到着すると、先日正式に婚約を結んでからはジェイクが伯爵邸の玄関まで送ってくれるようになった。
「セレスティナ嬢……また明日迎えに来るよ。夜は寒いから暖かくして寝てくれ」
「ありがとうございます、ジェイク様」
伯爵邸の数少ない使用人の目を気にしてか、ジェイクはあの日からセレスティナの手のひらを取ると指先に口付けを落としてから馬車で自分の侯爵邸へと帰っていく。
馬車へと戻る道中、何度かセレスティナを振り返り微笑みかけてくるジェイクに、セレスティナはジェイクが乗り込んだ馬車が見えなくなるといつも羞恥でその場に蹲ってしまう。
あんな風に好意を孕んだ視線を向けられるようになって否応なしに自分の頬が熱を持つ。
これは、お芝居なのだ。と何度も自分に言い聞かせないと勘違いしてしまいそうだ。
偽の婚約者にあんなに蕩けるような視線も、笑顔も見せないで欲しい。
「セレスティナお嬢様? 大丈夫ですか?」
セレスティナに近付いて来た侍女が、ストールをセレスティナの肩に掛けてくれる。
お礼を伝えた後、よっこいしょとセレスティナは立ち上がるとやっと伯爵邸へと入って行く。
「──解消についてもきちんと話し合っておかないとね」
「お嬢様、何か言いました?」
セレスティナがぽつりと呟いた小さな呟きに、後ろを着いてきていた侍女が不思議そうに話し掛けてくる。
セレスティナは苦笑を浮かべると、「何でもないわ」と侍女に微笑んで答えた。