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ウィル・エバンスはすーすー寝息を立てて、安眠していた。夢の中で、彼は大草原の中を裸足で駆けている。水分を少し含んだ芝生、これがなかなか気持ち良い。羊の群れが並走しながら話しかけてきた。
「エバンスさん。調子はどうですか?」
喋る羊など、現実で見たことも聞いたことも無いが、夢の中なのでウィルは全く気にしない。
「最高だよ。ここのところ仕事で忙しかったし」
「ここの草は絶品です。是非お食べください」
「本当かい。じゃあ少し味見を」
ウィルは口いっぱいに雑草を放り込む。咀嚼するが、味は無い。
「僕の口には合わないですね」
「人間って不思議ですね。食べ続ければ…起きてっ!次第に美味しいと…遅刻するよっ。パパッ!」
激しい衝撃を受けて、ウィルは夢から覚めた。弱々しく目を開いて、欠伸をした。ベッドの横には、息子であるトムが腕組みをして立っている。
「ああ、トミー。おはよう。今日も良い日だね」
ウィルはニコッと笑みを浮かべた。
「おはよう。今七時半!」
先程までゆったりしていたウィルの表情が急変する。
「やばい出社十五分前だ」
ベッドから飛び起きて、驚くべき速度で着替えをする。そんな父親をトムは溜め息を吐きながら見ていた。三人兄弟の末っ子であるトムは、家族の中で一番しっかりしている。頭脳明晰、学校一の優等生、ちょっぴり頭が固いことを除けば、完璧な小学五年生だ。
スーツに着替えて、ネクタイを締めると、ウィルは寝室から出て一階へ降りて行く。トムもそれに付いて行く。キッチンからは、ベーコン付き目玉焼きを調理している音が聞こえてくる。
「ああ、パパやっと起きたのね」
料理をしているのは、エリザベス・エバンス。三人兄弟の長女で、高校二年生。チアリーディング部に所属している。
「エリー、すまない。朝御飯を詰めてもらっていい?すぐに出なくちゃ」
エリザベスはいつも通り、弁当箱に目玉焼き、半分に切った焼き上げトースト、サラダを詰め込む。
「本当にいつもありがとう」
弁当箱を受け取って、エリザベスにウィルはキスした。続いて、トムに顔を近づけたが、トムはそれを拒否した。
「僕、もう十一歳だよ。一人前の男だ。キスなんて、赤ちゃんがすることだ」
「トミー、そんなことないよ。いつだって、君は僕のエンジェルだから」
「恥ずかしいよ!」
激しい抵抗を見せるトムにエリザベスが話しかける。
「あら、トミー。一人前の男なら、もうジェイソンの映画観た後に、お姉ちゃんがトイレに付き添わなくて大丈夫よね」
トムは目を見開いて声を張り上げる。
「あれは…ジェイソンからエリー姉ちゃんを守る為に……ああもう、キスすれば良いでしょ」
観念してトムは父親のキスを受け取る。
「良い子だ。じゃあもうテレビ局へ行くね。二人ともエマが遅刻しないように、よろしく」
ウィルは慌てた動きで玄関を出た。父親を見送った後に、エリザベスは台所へ戻った。
「お姉ちゃん、手が空いていないから、エマ起こしてきて」
トムは憂鬱そうに、二階へ上っていった。マイケル・ジョーダンがダンクを決めている写真が貼られた扉の向こう側から、大音量のいびきが聞こえる。扉を開けて、トムは大声で叫んだ。
「エマ姉ちゃん。あ、さ、だ、よ」
「グゴー、がー」
「お、き、て」
「グオー、こー」
喉がガラガラになるまで、叫び続けているが、効果は無い。
「この手は使いたくなかったけど、しょうがないか」
ズボンから洗濯バサミを取り出して、エマの鼻に栓をする。
「がふっ、がふっ」
三人兄弟の次女、エマが咳き込みながら、起床した。
「な、何するのよー」
洗濯バサミを放り投げて、弟に詰め寄る。
「ごめん。でも、こうでもしないとエマ姉ちゃん起きないから」
それにしたって、もっとやり方が…ぶつくさ言いながら、二度寝に入ろうとする。
「ちょっと、寝ないでよ」
急いで布団を剥いで、エマを叩き起こす。
エバンス家の朝は、この様に毎日ドタバタしている。