覇者の卵 ③
草原を高速で走る1匹の蟹。
それはただの蟹ではない。
4本の足先にはぐるぐると回転する車輪が付いており、とてつもない高速移動を可能にしている。
盆の形に窪んだ背中には、ヒトが3人乗ってあまりあるスペースがある。
リューシャとルビカは身重のサミを気遣いつつ旅路をゆく。
背の上は思いの外快適で、サミの様子も問題なさそうだ。
馬で10日はかかる旅程も、今のリューシャなら1日で走破可能である。
リューシャは、記憶と地形を頼りにゲラダ族が移動しているエリアに向け、注意深く蟹を走らせる。
季節は冬の盛り。あたり一面に雪が降り積り始めた。
例年よりも早い積雪は、今年の冬が一段と厳しくなることを予想させる。
「はやいな。」
リューシャはポツリとつぶやく。
やっぱり、とルビカが応じる。
聞こえていたようだ。
「この辺のことは詳しくないけど、冬足が早いみたいね。」
「ああ、今年はゾドかもしれない。」
ゾドとは、遊牧民の言葉で厳冬を意味する。
厳しい寒さは、秋までに蓄えた脂肪を家畜から奪い取り、予備の干し草を枯渇させる。
時には大勢の家畜の命を奪ってしまい、遊牧民族に深刻な被害をもたらす。
ゾドの始まりは、大抵穏やかな雪化粧から始まるものだ。
高速で移動していると、風が強く吹き付ける。
リューシャは襟を絞り、穏やかな寝息を立てるサミに毛皮をかけてあげる。
もし本当にゾドが来るのであれば、急がなければならない。
しかし、いくら走ってもファミリーの姿は見当たらなかった。
遊牧民は、自らの痕跡を巧妙に隠しながら移動する。
外部に居場所を悟られないための知恵だが、この時はそれが恨めしい。
ゾドを察して南下したか。
しかしそうすると、リューシャのゲラダ族とは他民族である、ドグエラの領地に入ってしまう。
リューシャが以前、酒を拝借したあのドグエラである。
「ちょっと!あれ!」
そんなことを考えていると、唐突にルビカが声を上げ、丘の稜線の向こうを指さした。
見ると、稜線の向こう側から数十の矢が大きな弧を描きながらこちらへ飛んできている。
「狙われてる!ルビカはサミを頼む!」
リューシャは叫び、矢に向かって構える。
「何言ってんの!?サミを守るのはあなたの役割でしょう?」
そう言ってルビカはリューシャに少し微笑み、両手を胸の前に合わせる。
それから、手のひらで何かを包み込むように、手を丸めていく。
今度は水を掬うように手を広げる。
ルビカの両手のひらの上には、やんわりと輝く饅頭のようなものが現れた。
これがルビカの言っていた、テウト族のクシャウか。
リューシャはルビカに任せ、サミのそばに寄り添い、マントで覆うようにして身重の妻を守る体勢に入った。
ムスクのマントは軽い上に丈夫である。
ルビカは作り出したクシャウを口に入れ、ごくりと飲み込んだ。
すると瞬く間に全身の筋肉が膨張し、まるで大きな岩のような様相に変化する。
そして完全に膨張しきると、今度はぎゅっと一気に収縮し、いつものルビカの体型に戻った。
ただルビカの様子は異様であり、目は大きく見開かれ、全身が紅潮している。
ルビカはゲルの支柱の一本を軽々と持ち上げ、向かってくる矢を弾き返し始めた。
身長の倍ほどもある木材を、まるで小枝のように振り回すルビカの様子に、リューシャは心底驚いた。
(これは…ルビカも怒らせたら不味そうだな)
と、リューシャは心に固く誓うのであった。
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