2話
目を覚ましたとき真っ先に映ったのは豪華な天井だ。
近代化が進んだ日本では見られない、ヨーロッパの古い貴族の建物によく似た天井だ。どうやら豪邸に生まれたらしい。
「奥様生まれました! 男の子なのですよ」
綾斗の視界に少女の笑顔が映る。
若々しい、恐らく転生する前の綾斗と同年代らしきその少女が今の綾斗を抱いているようである。
綾斗の視界には少女の顔ぐらいしか映らないが、頭に付けているホワイトブリムから、彼女がメイドなのはすぐに分かった。
それと、転生したばかりだからか、まだ言葉を理解しきれていないらしい。綾斗は日本語と異世界語の差異に頭を悩ませた。が、まあいっかと悩むのをやめた。
それでも状況ぐらいは確かめようするが、まだ首の据わらない赤子の身体では満足に動けない。動こうとしても先程の少女にしっかりと身体を押さえられている。
何も出来ないことにもどかしさを覚えながら、だからといってなにかできるわけでもなく、そのまま三年の歳月が過ぎた。
三歳になれば自力で歩くぐらいはできるようになり、探検と称して一人で屋敷を歩き回ることも珍しくない。
今日も世話役のメイドを置いてけぼりにして一人自由に探検をしているクロノであった。
クロノはこの世界での綾斗の名前だ。
容姿は彼目線で見れば普通だが、客観的に見れば顔立ちの整った中々のイケメンだ。しかも父親と母親両方の特徴を受け継いだオッドアイ。
左右で緋と碧の少しばかり目立ちやすいオッドアイで、黒髪であることも含めればかなり目立つ容姿だ。
……若干目つきが悪くて無愛想だが。
「とどかない……」
さすがに背は低いため、必死に背伸びしてもドアノブにすら手が届かない。
ジャンプをしたりしていると、すぐさま老齢の家宰がやってきて扉を開く。
「ありがとう」
「いえいえ」
彼の名前はローレンス。これほどまでのセバスチャンオーラを醸し出しているというのに……というラノベ由来の疑問を最初に抱いたが、二年も過ごせばそんなことはどうでもよくなってくる。
「母さん、魔法の練習だけど……」
「だから、まだ早いと言っているでしょう? 魔法は便利だけど、危険なものでもあるのよ?」
諭しながら母親――カレン・オルテンシアが彼女の名前である――がさり気なくクロノを抱きしめる。
いつものことなので抵抗しないが、正直やめて欲しいと考えるクロノである。
「でも、魔力量を増やすだけならできるんだよね」
「でもねぇ、勉学もあるのよ? ローレンス、教師はあなたでしょう?」
「心配には及びませんぞ。坊っちゃまは頭がよろしい。今日の午後一杯で行う予定だった勉学を、既に終わらせております」
「あらら」
この世界の勉学は日本の授業と比べればとても簡単だ。文字の練習は、言語を話せるためそれを文字に当てはめるだけ。四則演算は四桁まで暗算できるため今更勉強するほどではない。
簡単な足し算から始まり、引き算やかけ算割り算、そして基本的な文字を練習する。それがこの世界の勉学なのでクロノにとっては苦にすらならない。
「もしかして天才かしら?」
キラキラした瞳で見つめるが、クロノ本人は天才だと自覚していないため素直に受け取れないでいる。
天才だからこそ、一般人とはかけ離れた感性だからこそ、自身を異常だと理解しながらも天才だとは理解できないクロノである。
「でも魔法はねぇ……」
うーん、と唸りながら左右にゆらゆら揺れて考え込む。
仕草こそ可愛いがこの女性、二児の母である。三〇を超えているにもかかわらず若々しい彼女の仕草に惹かれる男性も多いという。大抵は拒絶されるか相手にすらされないのだが、それでもしつこい場合は父による制裁が待っているそうだ。
閑話休題。
「祝福の儀を受けられるのは五歳からなのよねぇ」
「たしかに、ステータスの恩恵が得られないままでは魔法は厳しいでしょうな」
「祝福の儀……?」
初めて聞く言葉に疑問を覚える。ステータスに対する理解はあるものの、ラノベになかった知識に関しては推察の域をでない。
転生する際の質問でファンタジー世界なのは知っているため、異世界特有の儀式だとはすぐに理解する。
ステータスの恩恵はいまいちよく判らなかったようだが、母親とローレンスの会話で大まかなことは把握した。
今のクロノは三歳であり、祝福の儀は五歳。
まだ二年先のことだが、もう二年先とも言い換えられる。
未だ常識には疎い――貴族の家に生まれた時点で一般常識とはズレ始めているが――クロノは、その二年を有効に活用するべく二人の話を熱心に聞く。
「――魔法は教えてあげられるけど、危ないのよ? 特に炎系は、一歩間違えたら命を落としてしまうし……」
お、おう、なんて恐ろしい。クロノはそう思った。
魔法は便利で生活の基盤としても馴染んでいるが、危険性がないわけではないのだ。
現代社会にも、使い方を間違えれば死に繋がるものが多数存在する。
魔力量を増やす訓練だけならまだ安全だが、子どもが可愛いカレンにとってそれも十分危ないことである。
せめて五歳になってから。カレン自身が魔法を教えるのはそれ以降だと。
「ところで奥様、処理しなければならない書類がまだ残っているようですが?」
「……忘れてないわよ?」
唐突に投げかけられた言葉に、カレンはピシッと固まったままぎこちない笑顔を浮かべているが、忘れていたことは明白だ。
ローレンスも笑顔だが、こちらは早く仕事しろという笑顔だ。
「ローレンスさん、あとは私が」
「ロゼさん、ではお任せしますね」
あとから部屋にノックして入ってきたメイド――正確にはハウスキーパーなのでメイドではない――がテキパキと書類を片付け、それらを机の上に並べる。
クロノはローレンスに連れられて部屋をあとにする。
扉を閉める前にいやー、だの仕事したくないーだの聞こえたが、クロノは聞かなかったことにした。
「坊っちゃま、奥様はあれで平常運転ですのでお気になさらず」
「……うん、わかってる」
そう、判っている。母親であるカレンの怠け癖のせいで使用人が困っていることは。
子どもであるクロノも若干呆れているが、父からすればそこも愛らしいのだろう。
ちなみに、カレンは領主である。普通領主といえば男性を思い浮かべるものだが、例外がない限りこの領ではオルテンシア家の者が領主となる。
クロノの母親であるカレン・オルテンシアはオルテンシア家の正当な後継者で、クロノの父親は婿養子であるため、怠け癖があったとしても領主の仕事は彼女にやってくる。
いずれクロノが成人を迎えたとしても、彼女が家督を譲るまでそれは変わらない。
クロノには成人を迎え王都で騎士として働いている兄がいるため、クロノが家を継ぐ可能性は限りなく低いが。
「クロノ様、ここにいたのですか! はぁ」
暇になったため再び一人で屋敷の中を探検していると、小走りでやってきた少女が息を切らして進行方向を塞ぐ。
「クロノ様この前言いましたよね!? はぁ、探検するときは何があっても大丈夫なようにメイドを連れてゆくと!」
がっしりとクロノの肩を押さえ息を切らしながら説教をするこの少女は、クロノの身の回りの世話をしているメイドだ。
名前はシシリィで、最初にクロノの視界に入った少女だ。
日本だと未成年の扱いを受けるだろうが、異世界であるここでは成人――異世界であるここでの成人は一五歳から――を迎えた立派なメイドである。
「だってシシリィうるさいし……」
そう、シシリィはクロノが何かするたびに口うるさくする。彼を心配しての行動だとクロノも理解しているが、少し過保護すぎるのでは……? というのが正直な印象だ。
「私はクロノ様が心配で心配で……!」
うん、それは分かってるんだ? そろそろローレンスがいることに気付こう?
なんて思っても口には出さない。この後の反応が目に見えるからだ。
その後、クロノの後ろにいたローレンスに気づき汗だらっだらで顔面蒼白になっていたが、軽い笑みを向けられるだけで済んでいたので今日は何も起こさなかったのだろうか。
――いや、汗がだらっっだらということは何か問題起こしただろう。
クロノが覚えている限りでは、机に自分の足をひっかけて転んだ拍子に花瓶を割ったり、雇い主であるカレンに紅茶をぶちまけたりと、クビにされてもおかしくないミスを繰り返している。
今日は何をやらかしたのだろうか。
「……さ、さあクロノ様、探検の続きとしましょうか!」
「では私も仕事に戻るとしましょう。シシリィ、カーペットを汚したことについてはあとで訊きます」
「ひゃうっ!?」
どうやらローレンスは彼女が何をやらかしたのか既に知っていたようである。
スタスタと歩いていくローレンスの後ろ姿に物凄く萎縮しているため、説教されるのを恐れているのだろう。完全な自業自得だ。
それでもなぜか憎めないのが彼女の美点……と思えるだけ、クロノの中ではまだマシであった。