女神の糸
空間が閉じる寸前に恋糸の手が触れ、心配そうな顔が見えた。
何も無い空間に引き込まれたかと思うと、落下している感覚がある。
不思議の国に行った女の子はこんな感じだったのかと現実逃避を試みるも、目前の美女はアクアマリンの瞳を細め嫣然と笑み「これで救われる。大神に賜ったわたくしの世界」と、もう一仕事終えたかのように吐息を漏らした。
そのつぶやきに現実逃避は叶わず、あっという間に我に返る。そう言えば詳しい事情を聞かない内にこの状況になっているのだと思い至り、一応説明してもらえるか確認してみようと口を開いた。
「ご安心されている所申し訳ありませんが、出来れば詳しく説明して頂けませんか? もう逃げも隠れも致しませんので」
逃げようも無いし、隠れる場所さえ無いし。
話しかけた事で我に返ったのか、美女はちょっと驚いた顔をして口に手を当てた。
「あら? わたくし説明しておりませんでしたかしら。ごめんなさいね」
落下が止まり掴まれていた腕をやんわりと解くと、美女のもう片方の手にも腕が掴まれている……と言う事は……
「結維!!」
結維の腕も逃すものかと、がっしり掴まれていた。もしかしなくてもこちらが本命だったかも知れない。状況についていけていない結維も拘束から開放してもらい、二人で話を聞くことにした。
先ずは、結維を家に帰してもらわないと完全に巻き添えで哀れだ。
「ご縁を結ぶのであれば彼は必要ないと思うのですが、彼だけは戻していただけませんでしょうか」
美女は何を言っているのかと言わんばかりに瞳をぱちぱちとさせて、小首を傾げた。
こんな仕草も美しいとは、美人は本当に得だな。
「アドニス、ガニュメデスも斯くやの麗しい男の子が居れば、連れ去らずにはおれませんわ」
連れ去る。
言い切りました。
これは間違いなく確信犯。立派な誘拐犯。
言い切るからには結維を帰す気は全く無いのだと理解した。
ちらりと結維に目をやると「一人だったら不安だけど、りんちゃんが一緒だから大丈夫だよ」と微笑んで答えてくれた。なんて良い子なのか! 私ならば顔には出さずとも、心の中では大荒れ必須だ。そんな結維を見てうっとりと笑む美女はちょっとどころか、大変気持ち悪い。美人なのに。
美女の説明によると彼女の名は『イティアラーサ』と言い、元は小さな港を守護する神だったそうだ。彼女の港から出港する供物を乗せた船は、どんな悪天候でも一度たりとも難破することなく大神殿へ毎回無事に届く。彼女の守護が素晴らしいと、大神への覚えが良くなり一つの世界を任されるに至ったとの事。
世界規模の会社で地方の店長から一国の社長へ抜擢されるようなものかな、と自分に分かり易く変換してみる。
「わたくしに任された『エフェリオセプタ』この世界は初め、大神の御子であるクピド様の練習場として創られた土地だったのです」
「練習場? ですか?」
大神の息子クピドは恋の矢を放ち、意思とは関係なく恋愛感情をもたらす力がある。その能力を向上させるために大神が与えた世界が『エフェリオセプタ』。要は、大神が気に入った人物を手に入れる為にクピドの能力を磨かされた場所。
「練習場として創られたエフェリオセプタにはクピド様の能力をより延ばすために種が一つしか無くあまり人々が結ばれず、ついには七つあった大陸が二つ滅んでしまいました。大陸が滅んだ事により、クピド様は世界への関心が無くなり悪戯に矢を放ち残り五つの大陸に混乱を招いたのです」
そこで白羽の矢が立ったのが、女神イティアラーサ。世界を任されたといえば聞こえは良いけれど、間違いなく息子の尻拭いに他ならない。
それよりも聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「種が一つとは、どう言う事でしょうか」
「種が一つとは、男性のみ。と言う事ですわ」
にこりと微笑み言葉を発するその様は正に女神そのもの。なんだかとても女神様に親近感が湧いた。
「つまり私は男性しかいない世界でご縁を結べば良いのですね」
食い気味に、ノンブレスで言った。願っても無い喜ばしい事だ。
素晴らしい女神様ではないですか!
「ええ、是非お願いしますわ。では向かいますわね」
イティアラーサは結維の頬にそっと触れ「よろしいですわね」と覚悟を促した。
結維が頷くと同時に落下が始まったが、着地点が不安になり何処へ着くのか聞いてみた。とんでもない山奥とか離島とか御免被りたい。
「わたくしの力が強く及ぶ所、神殿ですわ」
女神の答えに安心は出来なかった。
「神殿! 床は石ですよね。足や腰を痛めるのは嫌なのですが」
「着地の際、わたくしの守護を授けるので心配要りません」
やはり女神の答えに安心は出来なかった。
どうにもこの女神は女性に対して、なおざりな完全放置感がある。絶対間違い無く結維はふわっと着地。私はビタッと着地になる。身の安全の為にも落下しながら交渉する。
「港を守護されていたのですよね、水辺や浜辺の砂地でも可能なのではないでしょうか」
結維に目で一緒に交渉してと訴える。
「僕も何事も無く到着出来きれば嬉しいです。怪我してご迷惑掛けたく無いですし」
ちょっと困った感じの顔で言う結維は可愛く、女神の心には充分響いたようだ。
「あらあら、注文の多い事。仕方が無いですわね、では対価を下さいます事?」
この場合の対価と言えば、お決まりの『口付け』ですね。解ります。
イティアラーサと目が合うと、女神はその通りと言わんばかりに微笑む。理解していないのは結維だけの様だ。
イティアラーサは結維の唇に人差し指でそっと触れ「解るでしょ?」とアクアマリンの瞳で熱く見つめた。その行動で流石に気付いたのか結維は顔を真っ赤にして狼狽えたけれど、私の無事が掛かっているのだからお願いと念を送る。
「失礼します」
観念した結維は一言呟き、その言葉を聞いて破顔した女神の右頬に手を添え、左頬に口付けた。
なんだ頬かと私はガッカリしたけれど、「初々しいですわ」と嬉々として結維に口付けを返すイティアラーサには充分だった様だ。
イティアラーサが右手をさっと振ると景色が変わり、下に滝壺があるのが見えた。
「ようこそ。わたくしの愛し子達の世界へ」
落下速度はそんなに弱まった感じが無く、水面に打ち付けられる恐怖が迫る。
「又、後程」
唇に弧を描きイティアラーサは姿を消した。
のちほど……? 言葉が聞こえたが、考えるより今は衝撃に備える事が先決と爪先を揃えて水面に垂直に落ちる様に体制を整える。鼻も摘んでおいて、脇も締めて……そう言えばここに引き摺り込まれる寸前に恋糸から御守りを渡されていたな、と濡れないように手に包み込む。結維に構う暇など全く無かったが、下をチラリと確認した時に人が見えた。
人が居る。
私とは衝突しないけれど、結維は?! 水面が迫っていて結維の姿を確認できなかった。もう着水すると言う寸前で体が本当にちょっとだけふわっと浮いた。でも落ちた。
バッシャーンのザブーンだ。
「つめたっ」
滝壺の水は冷たく、水垢離を思い出した。御守りが濡れないように口に咥えて、顔を水面から出したまま全力で岸まで泳ぎ、岸に上がると震えながら結維を探す。結維はゆっくりとなんだかフレスコ画の天使を思わせる神々しい感じで落下して来て、禊をしていたらしい人物の腕の中にふんわりと納まった。
私との扱いに露骨な贔屓を感じ、この違いはいっそ清々しく逆に女神様への好感度が上がった。
結維は男性の腕に抱かれながら岸へと移動して地面に降ろされ、小走りで私の所へ来た。全く濡れる事なく。
「りんちゃん! 大丈夫?」
御守りに無事を感謝して、心配そうに声を掛けてくれる結維に預けた。
「私は平気。結維も無事そうだね。ちょっと私のそこそこな胸をまあまあに見せているブラのパッドが水を吸って冷たいから絞って来る」
呆気に取られる結維に素早く告げ木陰へと走る。木の裏側に入り込みニットベストを脱ぎ制服のブラウスのボタンを手早く外し、先ずはベストとブラウスを絞り低木に置く。ブラに手を差し込みパッドを抜いて、これまた絞る。最後にスカートを絞ってスカートとブラウスの皺を払うと気合を入れて湿っている制服に袖を通した。
「結維お待たせ」
木陰から出て結維の元へ向かえば「風邪ひかないでね」と優しい言葉と共に御守りを返された。因みにパッドは再度詰める気にならず、ポケットへ仕舞った。恋糸から渡された御守りは流石にパッドと同じ場所に仕舞う訳にはいかないと思い、胸ポケットへ入れた。
結維と無事を確認し合っていると、禊をしていたので間違い無く神事に関係するであろう清廉とした雰囲気の男性が、淡い金色の長い髪を揺らしながら近付いて来た。
結維の両手を取ると握り締め見詰めながら言葉を発した。のだが、私には何を言っているのか全く理解出来ず結維を見ると、結維も聴き取れないのか首を横に振った。
普通この場合は何かしらの力が作用して、言葉が変換されるのではないのだろうか。結維だけ変換されているのならば又贔屓かと納得するけれど、二人とも言葉が通じないのは何故だろう。困惑している内に男性は結維の手を引き、腰を支えて歩みを促した。
私も冷たく湿った制服で屋外に長く居たくはないので、慌てて後を追う事にした。