キャッチボール
クマのように大きく、トラのように恐ろしい監督が、ぼくの名前を怒鳴るように呼んで、ほえるように命令した。
「おい、たけし!お前に度胸と男としての意地があり、野球のルールをまだ忘れてないならチャンスをやる。バットを持って、すでに勝った気でいるアイツらと、ひと勝負してこい!」
ぼくは耳を疑った。チャンスだって?万年補欠の、チームのお荷物であるこのぼくに!
呆然としてその場に立ち尽くしたぼくを、監督は苛立たしげに見下ろしていた。踏み潰してやろうと思っていたのかもしれない。
「どうしたんだ、たけし。オレの言ったことが聞こえなかったのか?それともお前には難しすぎて、理解できなかったのか?」
「いいえ、監督。決してそんなことはありません」とぼくは答えた。
「ただおっかなびっくりして、ぶるぶる震えていただけです」とは言わなかった。
なぜならぼくはもう15歳で、本音を言うべき時と、そうでない時の区別が、できるぐらいには成長していたからだ。
「だったら、さっさと素振りでもして準備しろ!」と監督の檄が飛んできた。
ぼくは大慌てでバットを取りに走った。
わがリトルバーズは、宿敵ホワイトベアーズの猛攻にひどく痛めつけられていて、もはや立って歩くこともままならないほどだった。ぼくが覚えている野球のルールでは、あとふたつアウトを取られると、わがチームが7対0で負けることになっていた。戦況は敗色濃厚であり、ぼく達に残された有効な手立てといえば、急いで帰り支度を整えることくらいだった。
万策も尽き、もうお手上げといった試合展開に、監督はぼくを代打に送るという奇策に打ってでた。手っ取り早く試合を終わらせるための切り札として、期待したのかもしれなかった。それでもぼくはうれしかった。どんな形であれ試合に出られるのなら、何も言うことはなかった。なぜならぼくは、野球が大好きだったからだ。
ある日、父さんがバットとグローブを買ってきた。ぼくがまだ小学生で、毎日のように泣いて学校から帰っていた頃のことだ。
父さんはたっぷりと想いの詰め込んだプレゼントをぼくに手渡して、にこやかに、そしておだやかにこう言った。
「たけし、キャッチボールをしないか?」
ぼくはよろこんでなずいた。
父さんとぼくはキャッチボールをした。父さんはボールの投げ方、バットの振り方を教えてくれた。ぼくがどんなにヘマをしても、覚えが悪くても、父さんはめげなかった。
それからぼくは毎日、ボールを投げてバットを振った。そしてよく走るようになり、よく食べるようになり、よくしゃべるようになり、よく泣かないようになった。
父さんは仕事で忙しかったし、なにかと時間に追われる生活の中で、ひどく疲れてもいたと思うけど、ぼくとのキャッチボールは続けてくれた。
自分なりに上達の手応えを感じてきたぼくは、父さんに感謝の気持ちを伝えようと思った。でもあらたまって「ありがとう」なんて言うのは、なんだか気恥ずかしかったし、さらに父さん譲りの口下手さも手伝って、うまく言葉にできなかった。だからただ自分の気持ちを、飾ることなく素直に口に出して言ってみた。
「あのねお父さん、野球って楽しいね」
父さんは少し笑って「うん、そうだな」とうなずいた。
中学生になって、本格的に野球を始めようと思ったぼくは、チームに入部届を出した。
監督はぼくをひと目見るなりこう言った。
「考え直すなら今のうちだぞ」
ぼくがその言葉の意味を知るまでに、3日とかからなかった。
貧弱な体と気弱な性格を持ち合わせていたぼくは、ハードな練習についていくことができなかった。入った初日から、すでに落ちこぼれていて、散々で、目も当てられない有様だった。ぼくはボールを投げることも、バットを振ることもできたけれど、それだけでは野球にならなかった。自分なりに上達したと感じた手応えなんて、ここではまるで役に立たなかった。
チームメイト達は、みな一様に冷ややかだった。背が低く、愚図で、不器用で、場違いな者をみる目でぼくを見ていた。だけどもそれは仕方がなかった。現にぼくはチームの足並みを乱していたし、迷惑をかけていた。みじめで申し訳ない気持ちでいっぱいだった。その思いがぼくとチームメイト達との間に深い溝を作った。ぼくはいつの間にか、ひとりぼっちになっていた。
入部してから半年ほど経っても、状況は変わらなかった。むしろ悪くなっていた。質の高い全体練習に励んでいるチームメイト達を横目に、ぼくはひとり壁を相手にボールを投げていた。みんなに混じって練習するには、基礎体力も技術も足りなかったため、別メニューで練習することを余儀なくされていた。
ぼくは早くみんなに追いつこうと、いや、少なくとも、邪魔にならない程度にはなろうと懸命だった。でもダメだった。なぜならキャッチボールの相手が、あまりに無口で無愛想なコンクリートの壁だったからだ。これが父さんなら、ぼくのことをちゃんと見ていてくれただろうし、話しかけてもくれただろう。けれど固く冷たい壁は、ぼくのことなんて、まるで無関心だった。
少しずつ、そして確実に、ぼくは野球が楽しくなくなっていった。落ち込むことが増えて、気分も沈みがちになった。放課後を告げるチャイムは、ぼくをゆううつにした。グラウンドに響く威勢のいい掛け声は、ぼくに劣等感を抱かせた。みんなの輪の中に入れないもどかしさは、ぼくをひどくさびしくさせた。どこを探しても、楽しさは見つからなかった。
いよいよぼくは決断を迫られていた。自分が好きで始めたことが、ただ苦しさだけしか生まないなら、これ以上続ける意味なんてない。たとえ、ここにいたいと願っても、自分にそれだけの能力がないなら、諦めるしかない。思い描いていたことが、もはや叶いそうにないとわかったなら、後は決断するしかない。だからぼくは、退部届をしたためた。
そう決意した翌日、練習が終わってみんなが帰った後も、ぼくはひとり残って、夕闇迫るグラウンドを金網越しに見ていた。季節は秋から冬に移ろうとしていた。吹きぬける風が、ひどく冷たくて身にこたえた。感傷にひたるには、もってこいのシチュエーションだった。
今日が最後の日だと固く決めてきたはずなのに、気持ちはなぜか揺れていた。退部届はズボンのポケットにしまったままで、提出できないでいた。ぼくはまだ、金網の向こう側に憧れを持っていた。しかしそこに、ぼくの居場所がないことはわかっていた。ただ、未練が断ち切れないでいた。決着をつける勇気が足りなかった。自覚はじゅうぶんあったけれど、ぼくは幼い頃とまるで変わらず、弱虫で臆病者のままだった。
夜の気配は一層強くなり、ぼくの心も暗く染めた。かじかむ両手をこすり合わせ、白く煙る息を吐きかけてみても、寒さは募る一方だった。ぼくは陽の当たらなくなったこの場所に、貼り付けられたように動けなかった。進むことも退くこともできず、立往生していた。鼻の頭が赤くなり、ツンと痛んだ。目頭が熱くなり、涙がこぼれた。どうしていいかわからず、感情の高ぶりを持て余していた。
その時、監督のしゃがれた声が、凍えて遭難寸前だったぼくを驚かせた。ぼくは振り返り、ほのかな明かりの中に立つ大男を見た。
監督は聞き慣れた大声ではなく、控え目でおだやかにこう言った。
「たけし、キャッチボールをしないか?」
ぼくはただ「はい」と一言だけ言ってうなずいた。
監督とぼくはキャッチボールをした。監督は何も聞かなかったし、話さなかった。いつものように厳しく、恐ろしく、近寄りがたい人のままだった。だけど、ぼくの投げたボールは、しっかりと受け止めてくれたし、胸元めがけてまっすぐに返球してくれた。ぼくにはそれが、なによりもうれしかった。
ふと、初めて父さんとキャッチボールをした時のことを思い出した。あの時も、ふたりはただ黙々とボールを投げていた。それだけでは、お互いの気持ちを通わせ合うことは望めなかったけれど、ぼくはそんなこと気にしなかった。あの時、ぼくに必要だったのは、気の利いた励ましやなぐさめの言葉ではなかった。正面切ってぼくと向かい合ってくれる人そのものだった。
父さんは慌てず根気よく、ぼくとのキャッチボールを続けてくれた。ぼくは毎日のように悩んだり、困ったり、落ち込んだりしていたけれど、父さんとキャッチボールをしているときは、そんな嫌なことを忘れることができた。親子そろって口下手なので、言葉数は少なかったけれど「あのね」と話しかければ、すぐに「なんだい?」と返事をしてくれた。ぼくのことをちゃんと見てくれていたし、ほほ笑みかけてくれもした。そんな人の贈ってくれたプレゼントが、ぼくを今この場所に立たせてくれたのだった。
木枯らし舞うグラウンドには、ボールの行き交う音だけが、リズムよく響いていた。もうぼくは、冷たい風に震えてはいなかった。体は温まり、気分は快活になり、上気した顔には涙に変わって汗が流れ落ちていた。
やっぱりぼくは野球が好きだった。これだけでは、チームに残る理由としては不足かもしれないけれど、意地でも最後までやり遂げたかった。今こそ、ありったけの勇気をかき集めて、本音をぶつける時だと確信した。
ぼくは自分の思いを飾ることなくストレートに言った。
「監督、ぼくに野球を続けさせて下さい」
監督はやや呆れ気味に、こう答えた。
「誰が、いつ、辞めろなんて言ったんだ」
不覚にも、ぼくは話す順番を間違えてしまい、監督を困惑させてしまった。それでも、自分の意思を伝えられたことは大きな進歩だった。こうして、退部届は必要なくなった。
あれから季節は巡り、今は蒸し暑い真夏だった。灼熱の太陽が照りつける中で行われていた、このちっとも白熱していない試合も、いよいよクライマックスだった。
監督はぼくの肩を抱き、とっておきのアドバイスを耳打ちしてくれた。
「ピッチャーがボールを投げたら迷わずバットを振れ。それができれば上出来だ。ボールが前に飛んでくれたらご機嫌だ。さらにそいつがヒットになってくれたら最高だ。間違っても見逃しなんてつまらないことはするな。バットを振らなければ、まぐれもラッキーも起きやしない。さあ、自分を試す願ってもないチャンスの到来だ。わくわくしてきただろう?ならこの締まりのない試合を、お前の働きで少しは有意義なものに変えてこい」
ぼくは力強くうなずいた。
「アイツらに、ひと泡吹かせてやりますよ」とガラにもなく、威勢のいいことまで言った。
本当はめまいがして気を失いそうだった。でも、倒れるわけにはいかなかった。ぼくをチームの一員として迎えてくれたみんなが見ている前で、そんなみっともないまねはできなかった。どんな結果が待っているにせよ、ぼくは全力を尽くすことを誓った。
監督が代打を告げ、いよいよぼくの勝負の時が来た。チームメイト達が声援を送ってくれていたけど、ぼくの顔は不安と緊張で引きつっていた。でもこの顔を笑顔に変える力が、今まで流してきた汗や涙によって身についていると信じながら、ばくはバッターボックスへと向かった。