七話
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「……じゃあ、そ……でよろしくね」
「ああ、……てくれ。上手いこ……よう取り計ら……」
アンは誰かに体を揺すられる感覚で、次第に意識がはっきりとし始める。
「……ん。アンちゃん」
「んんぅ」
「ほら、起きなさいアン。そろそろ帰るわよ!」
「んう〜」
「アン!さっさと起きねえか!」
「ひゃあい!ごめんなさいお父さぁ……ん?」
アンが飛び起きると想像していた怒る父の顔は何処にもなく、代わりに目の前には鼻をつまんだマリーと必死に笑いを堪えるリチャードがいた。訳がわからず辺りを見回すとアンの隣に座っているヨンリも必死に笑いを堪えていた。
「あ、あれ?お父さん、どこ?」
「ぶっ!」
最初に笑いを堪えきれなくなったのはリチャードだった。その後は堰を切ったようにヨンリ、そしてマリーまでもが大笑いし始める。
「お、お姉さまったら。ふふ、後いくつ、くふっ……特技を隠し持ってらっしゃるの?」
「はははっ、まったく末恐ろしい姉上だ……くくっ、ははは」
アンには何が何やらわからないがどうやらマリーが何かしたらしい。恐らく事の犯人であるマリーの方を見るとまた手で鼻を摘んでいる。そして大きく息を吸い込むと。
「別に隠しちゃぁねえよ?」
「ぶふっ!」
「いやぁ!もうやめて!笑いすぎて苦し、ひひっ」
「あら、それはお腹の子に悪いわね、御免なさいヨンリ」
何という事だ、マリーが話したと思ったら確かに父の声が聞こえてきた。
ーーーすごい!何処からあんな声出してるんだろ?……いや待って、さっき私が目を覚ました時も確か……
「ああ!お姉ちゃんが!」
「なあに?やっと気がついたの?」
「うふふ、しょうがないわよねえ。アンちゃんはぐっすり眠っていたんだもの」
「そうよぉ。何度も起こしたのに起きない貴方が悪いわ。さぁ、目が覚めたなら帰りましょう」
結局、アンはヨンリと一緒にもう一杯だけお茶を飲んで館を後にした。
「みんなして笑うなんてひどいよ……」
「ふふ、御免なさいね。昔を思い出してついつい巫山戯ちゃったわ」
ーーー昔かぁ。
確かに、昔からそうなのだ。マリーもリチャードも、そしてリチャードの許嫁としてこの村にやってきたヨンリも、みんなアンをからかって、アンを可愛がる。四人は良くいっしょに遊んだしその中でひとつ抜けてアンは幼かったから昔からそんな扱いだった。いつの間にか三人は大人になって今度はアンがお姉さんになって年下の子の面倒を見るようになって、そのうち会う機会も減って忘れていたがそういえばそうだった。
ーーーよし、今度復讐しよう。それと沢山お礼もしよう。
アンはこっそりと心に新たな目標を立て、計画を練ることにした。
「それじゃあアン、明日からよろしくね」
「うん、私こそよろしくねお姉ちゃん」
マリーと分かれ道で別れを告げると、小走りに自分の家まで掛けて行く。最初は小走りだったはずなのだがなぜか家に着く頃には全力疾走になっていた。大急ぎで工房に入ろうとして一歩手前で我に帰って足を止める。依然そのまま入ったら父に「馬鹿野郎!工房で砂埃立てんじゃねえ!」とどやされたことがあることを思い出したのだ。息を整えると静かに扉を開く。
「ただいまー」
「おう、お帰り。丁度今さっき調整が終わったところだ。早速使ってみるか?」
工房で魔導弓を手に立つ父は前掛けをしたままの姿で、本当に今さっき終わったばかりなのだろう額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「うん、やるやる!」
父の鍛治師としての腕をアンは良く知っている。アンが愛用している直刀も父の手作りだし父が作った弓をいくつも見てきた。そして、そのどれもがアンの作るものと違い一級品だった。しかし、魔導弓というのは初めてだ。昔酒の席で、といっても飲んでいたのは父だけだったが、父が言っていたが普通の武器と魔導武器は見た目が似ていても造りは根本からまったくの別物らしい。
「そんじゃあ行きますか」
「行くって何処に?」
射的場なら家の裏に簡単なものがある。しかしどうやら父は別の場所で試し打ちをするつもりらしい。
「いやいや、あんなチンケな的使ったら吹き飛んじまう」
「大袈裟だなぁ」
「いいから付いて来い。日が暮れる前には帰りてえんだ」
父はにやりと笑みを浮かべると弓と矢を携えてさっさと工房を後にしてしまった。アンも置いていかれまいと後を追う。
「日が暮れる前って外に出るの?」
「まったく、さっきから質問ばっかりだなあ。そうだ、池までひとっ走りするぞ」
そう言うや否や、父が走り出す。
村にはふたつの門がある。ひとつは村の南東側、森の奥に通じる門。そしてもうひとつは北東側、門を出てまっすぐ行くとすぐ少し大きな池がある。その一帯は危険な魔獣が滅多に出ない事もありよく子供たちを水遊びに連れ出したり、魚を釣りに出掛けたりもするので通い慣れた道だ。
しかし通い慣れているとはいえ森は森、だと言うのに父の走りは門を過ぎても一向に勢いを落とさない。それどころかどんどん加速し始めている。いまや真横を通り過ぎる木々が連なり重なって見えるほどだ。
父の走る姿はそれほど早そうには見えない。獣人族のように低く身を屈めるわけでもなく、ほぼ直立の姿勢。踏み込みの際僅かに身を前に乗り出すくらいだろう。しかしその一踏みでぐんぐん前に進んでいく。あれは決して力任せに踏み抜いているわけではないことはアンにもわかる。蹴り付けられた地面がたいして土埃をあげないのだ。
無駄な力は土や落ち葉を巻き上げることになる。しかし父の後ろを走っていても一度も顔に土が飛んでくるようなことはない。父は大地を蹴飛ばして走っているわけではなく、片足で大地を踏み込んだ瞬間素早く前に全身の体重を移動しているのだ。それ故足に力がかかっている時は最大限足裏で大地を掴み、足が離れる頃には大した力は残っていない。アンはそのことに気づくのに五年もかかってしまった。そして気付いてから真似できるようになるまで更に二年を要した。
しかし、そのおかげで今ではアンもなんとか置いていかれない程度には走ることが出来るようになった。
「よしよし、良く付いて来れたじゃねえか」
「もう、急に走らないでよ」
アンは走った勢いでぐちゃぐちゃになった髪を何とか押さえ込もうと何度も手で撫で付ける。
「なんだよ、髪がそんなに気になるか?お前まさか好きな男でもできたのか!?」
「別にそんなんじゃないよ……」
これは多分、マリーやヨンリと久しぶりに昔みたいに話したからだろう。二人ともアンよりずっと綺麗な髪をしていたから、ぼさぼさになった髪がいつもより気になってしまったのだ。
「なんだ、違うのか。そうかそうか」
父は何やらうんうんと頷いた後、おもむろに魔導弓に矢をつがえた。しかしその矢には矢尻がついていない。
「やる事は普通の弓と大してかわんねえ。矢をつがえて引いて、放つ」
言いながら父が弓を引くとつがえられた矢がほんのりと光を帯びる。そして放たれる瞬間、矢は光の弾となって打ち出された。矢はそのまま水面に直撃し、「ドンッ」と低い音と共にアン二人分ほどの水柱を立てる。
「理屈も簡単でな。本体に刻まれた魔法式が魔鉄で造られた弓に魔素を貯める。そんで同じく魔鉄で編まれた弦がその魔素を矢に伝えて、握りに刻まれた魔法陣が矢を放つ瞬間に魔弾に変えてくれる。すごいだろ」
「す、すごいね」
父は事もなさげに話しているが、アンは目の前で起きたことに理解が及ばずろくな返事ができなかった。しかし、ざぁっと落ちる滴が水面を歪める様をただただ見つめている間も父の魔導弓自慢は続く。
「問題は使用者がどれだけ一度に魔素を引き出せるかだ。そればっかりは術者のキャパシティ頼りだからな。ほれ、弦の張りもお前用に合わせてやったからとりあえず引いてみろ」
「で、でも、大丈夫なの?今のって手加減してたんだよね?」
「あーん?心配しなくてもよちよち歩きのお前じゃ今の半分も行かねえよ」
「う、うん」
アンは父から弓を受け取る。弓を受け取った瞬間ずしりと重みを感じる。そして次の瞬間全身の毛穴が広がり大気が体内に押し寄せてくる、はたまたアンの精神が肉体から解き放たれるかのような錯覚に見舞われる。一瞬くらりとする体をなんとか踏みとどめ、眩む目を開き前を見るとそこには虹色の世界があった。
きらきらと輝く光の粒。留まるものや揺蕩うもの、集うものや荒ぶるもの。今まで見ていた色の世界に新たな光が加わる。アンは直感的にこれが“魔素”だと感じ取った。なんとなく、手に握る魔道弓がそう告げている気がした。
ーーーすごい、綺麗。
これが魔素、これが先生や父が見ている世界なのだ。そして遂にアンもそれを見ることが出来た。
「おい、大丈夫か?」
頭上から父の心配そうな声がする。
「ん、大丈夫」
そういえば今は弓の試し打ちをしにきていたのだったなと、思い出したアンは先ほど見た父の動きを真似て矢をつがえる。弓を引き絞ると実に丁度いい。硬すぎず柔らかすぎない。弓を引く手にかかる弦の声がよく聞こえる。
ーーーやっぱりお父さんはすごい職人なんだなぁ。
いつものように軽く、ふっと手を離す。矢には一切無駄な力がかからず、弦に導かれるまま矢は押し出された。矢が弓から離れる瞬間、先ほど見たのと同じように矢が光の筋となって飛んでゆく。
ーーードゴォ!
放たれた光の魔弾は水面に直撃し、今度はアンの十倍はあろうかという水柱を立て砕け散った。
「え?」
「はぁ?」
二人の素っ頓狂な声から遅れて、大量の水飛沫が二人の頭上に降り注いだ。