9 ボインボイン
ひらひらと舞うレースを羽ばたかせてやってきたライラックは、まるで自然にシルフの腕に自らの両腕を絡ませた。
「殿下ったら、急にいなくなってしまうんですもの。まだまだ紹介したい素敵な絵画がたくさんございますのに」
上目遣いで彼に話しかけるライラックの視界には、フリージアの存在はないものとされているらしい。
曲がりなりにも自分の夫である人に、目の前でしなだれかかられ、気分は更に急降下する。
「すみません、妻がなにか粗相をしないか気が気でなくて……この腕を離してくれますか」
「あら、ごめんなさい」
ライラックは素直に腕を離したが、依然その距離は近い。
シルフの胸元すれすれにライラックの額がある。
まるで妻のような寄り添っているのだ。
(つーか粗相ってなんだよ!アタシは犬か!うれションでもすると思ってんの!?)
「ねえシルフ殿下、私の香水、先程の絵画にもあったロサの花の香りなんですの」
「そうですか」
フリージアは、胃がなんだかムカムカしてきた。
それは間違いなく、苛立っている証拠で。
なんでこんなに気分が悪くなるのか、分からなかった。
「殿下、フリージア様は兄がお相手しますわ。ここは王宮ではないのですから、少しの粗相くらい大丈夫です。さあ、続きを見に行きましょう」
「申し訳ないですが、今はそれどころではーー」
じっとしていることに耐えきれなくなったフリージアは、思わず目の前のシルフの腕を、先程のライラックと同じように両腕で絡め取った。
「!?」
驚いたのはシルフである。
フリージアがこんな風にシルフに触れたのは初めてだった。
そしてなにより。
(……こ、この柔らかな感触は)
ーーボインボインである。
フリージアのやわやわふわふわなそれがシルフの右腕に押し付けられていた。
……彼女の顔を見られない。
「…………今はそれどころではありませんので。ライラック嬢、先に部屋に戻っていてください」
シフルは至極真面目な顔をつくり、ライラックの方に向けた。
「……そうですか。残念です」
おずおずとライラックが引き下がるが、それでもフリージアは手を離さなかった。
「フリージア嬢、どうしたんですか?もしかして、そんなにこの男が怖かったのですか?」
妹の登場であわよくばこの場から逃げ出そうとしていたアーノルドは、背中に刺すような視線を感じて「ヒッ」と足を止めた。
「……違……いや、うん、そうかも」
フリージアは、きゅ、と絡める腕に力を込める。
妙な感覚に包まれていた。
この安心感、フィット感、満足感、そして程よいドキドキ感。
なんだ、この底から込み上げてくる心地よい気持ちは。
視線の端に映った、つまらなさそうなライラックを見て、フリージアはその頬をシルフの腕に寄せた。
まるで街中にいるバカップルである。
さすがのシルフも、そこまでされると平静を装うのに限界がある。
「ふ、フリージア嬢?」
「………」
「………」
黙ったまま視界の端でライラックをじとっと見つめているフリージアに、シルフは勇気を出して問うてみた。
「フリージア嬢、まさか」
「……」
「やきも」
「ち」は言えなかった。
彼女の手に口を塞がれてしまったからだ。
「違う」
「違う?本当に?」
「バカ」
「バカ?僕が?」
「マジバカ黙って」
「……………」
フリージアの顔は真っ赤である。
それでなにも分からぬほど、シルフは鈍くない。
「フリージア嬢……」
「…………腕、離してほしい?」
フリージアが、長いまつ毛を伏せて、頬を薔薇色に染めながら呟いた。
意味が分からなかった。
彼女がめちゃくちゃ可愛く見えるのだ。
シルフはその場で頭を抱えたくなった。
(わけが分からない。もう何も考えられない可愛いことしか分からない)
そんな彼女に、まさか離せなんて言えるわけもなく。
「……そのままで」
フリージアと同じように朱に染めた顔でぼそりと呟けば、彼女の唇が満足気に緩んだ。
それさえもシルフにとっては大きな爆弾だった。
(勘弁して……)
そんなシルフの想いが通じたのか、気付けば雷は止み、雨の音は小さくなっていた。
「あの、ちょっと2人の世界を展開するのやめてもらっていいかしら」
ライラックが2人の背後にいたのを、彼らはすっかり忘れていた。
目の前で少女漫画のようなイチャつき見せられたライラックは白目を向いている。
「雨が弱まってきたので、父がそろそろ戻ってくるかもしれませんわ」
「そうですね。フリージア嬢、そろそろここを出ましょうか」
「うん」
素直に頷くフリージアに、シルフはもうぎゅうぎゅうに抱きしめてやりたい衝動にかられる。
いちど箍が外れてしまえば、溢れる感情をせき止めるのは難しかった。
(もう、どうしてしまったんだ、僕は)
なんとか心を抑えつつ、未だ離れないフリージアに頬を緩めながら、シルフは玄関へと向かう。
アーノルドのことなど、すっかり忘れていた。
「助かった……のか?」
いつ間にかイスの裏に隠れていたアーノルドは、恐る恐る顔を出した。
なんとも情けない姿である。
これが自分の兄のだと思うと、ライラックは残念でならない。
「お兄様、なにをなさっているの?」
「いや、あの王子、見た目に寄らず嫉妬深いぞ。あれはネチネチしたタイプだ。良くない」
アーノルドは、あの鋭い視線を思い出しながら未だに鳥肌が収まらない腕をさする。
「また何かやらかしたのね。まさかあんなの見せつけられると思わなかったわ。折角イケメンで遊べると思ったのに」
「お前の嫌いな純愛な物語みたいだったな」
「また白目を剥きたくなるならやめてくださる?」
「アズハル王は、なにがしたくて、あの2人をおちょくれ、なんて父上に命じたんだ?」
「さあ。あの人の考えることは分からないわ。分かったらサイコパスよサイコパス」
のちに、この様子を聞いたアズハル王は死ぬほど笑い転げたという。