8 なしよりのなし
馬車の中は、無言だった。
「……」
しゃべっていないと死ぬ生き物のはずのフリージアがなにも言わずに黙っているのが、まるでシルフを責めているようで、何か言おうと思ってもなおさら言葉が浮かんでこない。
「えっと、あなたは町に降りたことはあるんですか?」
「あるけど」
「そうですか」
それきり会話は途絶えてしまって、再びしんとなる。
フリージアは混乱していた。そして慌てていたし、焦っていた。
どう振舞っていいのか分からなくなったのは、初めてだった。
何か言おうと顔を上げると、相手の顔が目に入ってしまって、そうすると昨日のことを思い出してしまって、もう何も言えなくなる。
(いや、別になにか大変なことがあったわけじゃないし。別にキスしたくらいだし。……つーかキモ!大人しくてしおらしい自分キッモ!)
フリージアは自分でも、自分がこんなに初心だとは思わなかった。一昨日の自分が今のフリージアを見たら、腹を抱えて笑うだろう。
(結婚してるわけだし。それくらいきっとみんな普通にしてることじゃん)
そう、普通に。普通に……普通……普通ってなに。
わからない。フリージアにはこういう色恋沙汰が全然分からない。巷で流行りのロマンス小説だって読んだことがない。恋の話をするような友達もいなかった。
(分からない……なしよりのなし……)
湿っぽいのは好きじゃないし、うじうじしてたくないし。
それなのに、どうすればいいのか分からなくて、それで。
「…………」
結局その後一言も言葉を交わさないまま、2人は目的地に辿り着いたのだった。
「ようこそお越しくださいました」
この国の公爵だという男性は、にこやかにシルフとフリージアを迎えた。
2人が訪れたのは、城下町にある孤児院だった。孤児院の施設や子供達の状態で、大体その国の国力を測ることができる。
貧しい国はまずそういったことろまで手が届かないからだ。
そして、ここはさすが大国といったこところであった。
「立派な建物ですね」
4階建ての白塗りの大きな建物。
窓が多く、開放的であって、屋根には女神像の装飾が施されている。
「……めちゃくちゃキレイ」
「ありがとうございます。ささ、中へお入りください。隣国から王子夫妻がいらっしゃると聞いて、私の子供達がぜひおもてなしをしたいと」
「たしか、息子さんと娘さんもここのお手伝いをされているんですよね」
シルフが事前に読んだ案内を思い出しながら答える。
馬車の中で手持ち無沙汰になんども目を通したから、内容は記憶していた。
「ええ。ちょうど、年齢も殿下と変わらぬくらいなのですよ」
「それはそれは」
公爵に続いて室内に入ると、ピンク色の髪の少女と、金髪の青年が2人を出迎えた。
「お待ちしておりました。シルフ殿下、フリージア殿下。私は息子のアーノルドと申します」
金髪の青年が笑顔で手を差し出したので、シルフも笑顔を作って返した。
物腰柔らかな、穏やかな印象を受ける青年だった。
「こちらは、私の妹のライラックでございます」
「どうぞ、お見知り置きくださいませ」
娘のライラックは落ち着いていて、どこか可愛らしさのある女性だ。
案内されるがままテーブル席に付き、アフタヌーンティーをごちそうになる。
「この国は、本当に食べ物がおいしいですね」
「そう言っていただけるとパティシエも喜びます」
途中、シルフはフリージアがなにかやらかさないか気が気でなかったが、彼女は今までにないくらい大人しかった。
話を振られても「はい」と答えるばかりで、自分から発言は一切しない。
息子のアーノルドから、「フリージア殿下はとても淑やかでいらっしゃるのですね」と言われるほどだ。
シルフは少し安心しつつ、そんなフリージアを心配しつつ、彼女からは目を離さないよう注意深く目の端で見張っていた。
テーブルの上のケーキやスコーンをあらかた平らげて、次の視察先へ向かおうと腰をあげた時。
窓の外から、大きな音が聞こえた。
空から響く轟音に、部屋の中が一瞬青く光る。
「雷ですか」
そのあと、すぐに水の音が響いた。
庭からは、ざわざわと騒ぐ子供達の声も聞こえた。
突然の雷雨だった。
「通り雨でしょう。止むまで、しばしごゆっくりおくつろぎください」
この雨では馬車を出すのも苦労しそうなので、2人は落ち着くまで、公爵の言葉に甘えることにした。
「子供達の様子を見てまいります。アーノルド、ライラック、しばしの間、殿下達を頼みます」
「はい、お父様」
2人が答える。
公爵はいそいそと部屋を出て行った。
貴族が孤児院に寄付するのは、「自分はクリーンな人間である」と周りに示すためのパフォーマンスの場合が多いが、自ら子供たちの様子を見に行く公爵は、本当に奉仕の心に溢れた人物らしい。
「そういえば、シルフ殿下。殿下は芸術にご興味があるとか」
シルフに声をかけたのは、妹のライラックだった。
「ええ。よくご存知ですね」
「実は私、絵画が好きで、たくさん集めておりますの。よろしければ、コレクションを見ていかれませんか?」
「それはぜひ」
「フリージア殿下、少しシルフ殿下をお借りいたしますね。あ、それとも一緒にいらっしゃいます?」
「……いいえ」
フリージアは絵などにまったく興味がない。
それでも普段なら付いていっただろうが。
なんとなく、少しシルフから離れたかった。
嫌いとか気まずいとかではなく。
(……なんか、一緒にいるだけで恥ずかしいんだもん)
とても乙女な理由からだった。
「それでは、フリージア殿下のお相手は私が」
アーノルドはフリージアの目の前にこしかけた。
ギシリ、と、ふかふかの椅子が軋む。
「しかし、フリージア殿下は本当にお美しいですね」
真正面からそう言われて、フリージアは少し言い淀む。
「い、いえ……」
心からの謙遜ではなく、こう答えるように教育係に指導されたからだ。
フリージアは心の中では「つまんねーお世辞乙」と思っている。
「瞳は濡れた宝石のよう、髪はシルクの糸のよう。腕なんか折れてしまいそうだ」
「……どうも」
フリージアは、大人しくしていれば、人から褒められるだけの容姿はしている。
彼女にとって、そんな言葉はすでに言われ慣れた台詞だった。
「殿下、この国はどうですか?」
「私の国にはないものばかりで、とても興味深いです」
これも、教科書通りの答えだ。
勉強の成果が出ている、と内心フリージアは自分をめちゃくちゃ褒めた。
「それは良かった。一体何が、美しい貴方の心を動かしたのでしょう」
ずい、とアーノルドが距離を詰めて来る。
フリージアはなんとなく、アズハル王の時には感じなかった息苦しさを覚えた。
警戒しながら、一歩下がって距離を取る。
「食べ物がおいしいです」
「なるほど。よろしければもっとたくさん食べさせて差し上げますよ。許されるなら、僕の手ずから」
「……結構です」
フリージアはまた一歩下がる。
このまま下がり続けたら――という想像はあまりしたくなかった。
「残念。私がおいしいスイーツなら、あなたの心を動かすことができたのでしょうか」
「無理だと思います」
「――ねえ、私では駄目?」
あまり想像はしたくなかったけど――そうやっているうちにフリージアの背中は壁に当たってしまった。
彼女の顔の横を、アーノルドの両腕が囲む。
「だめだと思います」
「つれないね」
いいながら、アーノルドはフリージアの顎に手を添えた。
「君の唇はとても甘そうだ――」
少し傾けた相手の顔が、フリージアに迫ってくる。
このまま頭突きをかましてやろうか、急所を蹴ってやろうかとフリージアが考えていると。
「何をしているんです?」
冷え冷えとした鋭い声が二人の間を割った。
声のした方へ眼を向ければ――シルフ王子がこちらを睨み付けている。
「その人は僕の妻です。アーノルド氏、妻から手を放してください」
「おっと、失礼」
アーノルドの手が離れた途端、フリージアはこれ幸いとシルフの方へ駆け寄る。
逃げるが勝ちである。
そして、彼の後ろにそっと隠れると、そこからアーノルドを睨み付けた。
「王子、この人、なんかべたべた触ってきて気持ち悪い。マジありえない。しね」
「へえ……フリージア嬢、それは災難でしたね。アーノルド氏はこの件、覚えておいてくださいね。あとで陛下に呼ばれるかもしれませんから」
「へ、陛下に?よしてください、私はただ彼女に少し声を掛けただけじゃないか」
「声を掛けただけじゃなく、ベタベタ触って、あまつさえ口づけしようとしてましたよね。国際問題にします」
さすがにこれくらいのことでは大きな問題にはならないのだが、シルフはなぜか、言いようのない怒りを感じていた。
この男を、この場でぶちのめしてやりたい。
もちろん、そんなことをしたら本当に国際問題になってしまうので、なんとか抑えてはいるが。
「王子、いいよ、こんなやつ死刑にしちゃお。シケイ」
「じゃあ死刑で」
「ええ!?」
死刑なんてありえないのだが、真面目な雰囲気のシルフが真面目な顔でいうので全く冗談に聞こえない。
アーノルドはサーっと顔色が青くなっていく。
「も、申し訳ございません、誤解です!わ、私には下心なんてなく……」
慌てて弁解し始めたものの、シルフの鋭い目つきは変わらない。
「あ!いた!シルフ殿下~!」
そんな緊迫した空気の中へ割り込んできたのは、シルフと一緒に絵画を見に行っていたライラックだった。