3 ヤバみだね
フリージアがシルフの婚約者になって数週間。
ドレスのデザインもあらかたきまって、フリージアもお城に慣れつつあった。
たまたまやることが早く終わったので、彼女は部屋を抜け出してお城の中を散策していた。
抜け出すことも勝手に城の中を歩き回ることもありえないが、これが初めてではない。
つまらない話し合いだとか、段取りだとかをぶっちぎって逃走するのはほぼ毎回のことである。
しばらく歩けば無事に帰ってくるので、もう周囲の人間は彼女を放置しだしていた。
「フリージアじゃないか、何をしているんだ」
お城をうろうろしていると、兄のアレキサンダーとでくわした。
フリージアの兄はお城で研究員として働いている。
新薬の開発に携わっており色々と優秀らしいが、その優秀さゆえにたまに爆弾を作ってしまうらしい。
ちなみに兄も、母譲りの綺麗な顔をしているのだが、伸ばしっぱなしの野暮ったい髪と、なんの汁がついているか分からない白衣を身にまとった姿で、周囲からは気味悪がられていた。
「兄ちゃんちーっす」
「ちょうど良いところに。新しい薬の効果を試したいんだ。お前は身体が丈夫だから……」
「アレキサンダー殿、やめてください」
兄に連れて行かれそうになったところで、どこからか出て来たシルフに止められる。
「これはこれはシルフ王子殿下。そういえば、妹と婚約なさったとか」
「そうです。僕の婚約者を試験体にさせるわけにはいきませんよ」
「兄殿下は許してくれていたんですが」
「兄上は気付いていなかっただけで――まあ、とりあえず、今後彼女で薬を試すのはやめてください」
「まあ仕方ないか……」
諦めた様子のアレキサンダーに、シルフは胸をなでおろす。
いずれ王族になろうともいう人が、身体を壊したりしては元も子もない。
普通ならジェームズの婚約者だった時点でそういったことは伝えられているはずなのだが、ジェームズは
フリージアにとことん興味がなかったらしい。
「……はあ」
シルフはため息を吐く。
「王子、ため息つくと幸せ逃げるよ?」
「フリージア嬢、誰のせいだと……」
「お腹空いた。お菓子ある?」
「はあ……この人は本当に……」
「ははは王子、顔がマジ般若」
「……あなたには、圧倒的に知性が足りない」
ということで、シルフは彼女をマナー講師の元に放り込んだ。
「あー、この服なんかチクチクしておっぱいが痒い」
「ふ、フリージア様!?」
ガシガシと鎖骨の下辺りを掻き初めた彼女に、淑女について説いていた先生は大層ひったまげた。
「あ、だめだった?おっぱいって。NGワード?じゃあパイオツならいい?」
「そのような言葉、下町の子供でも使いませんわ!」
「えー、どっち?おっぱい?ぱいおつ?」
「静粛になさいませ!」
「ぱいおつカイデーってお姉さん意味分かる?」
「聞いたこともありません!」
「……分かるんだ。なあんだ、そういう俗な言葉、知ってるんじゃーん」
顔を真っ赤にして怒鳴る教師を見てへへへ、と笑う彼女には淑女の欠片もない。
「本当にどうして、この方がシルフ様の妃に選ばれてしまったのか……」
教育係は嘆く。
彼女は頭が悪いわけではない。理解も早いし勘もいい。
しかしなぜ、こんなにも手を焼くのかというと、この世界の常識がまったく分かっていないからである。
聞けば、世界情勢やこの国の歴史などは完璧に理解でしている。シルフ王子にもひけを取らないほどに知識は豊富だ。
それなのに、大声で笑わないだとか、低俗な口調でしゃべらないとか、一人称は「わたくし」にするだとか、そのへんの貴族なら子供でもできるようなことを何度も教えなければならないのか。
教育係が指導するのは基本的な知識や勉強であって、それ以前の事項については担当外である。
深い深いため息を吐きながら、「大口を開けて笑ってはいけません!」と彼女に何度目かの注意をするのであった。
***
月日が経ち、とうとうフリージアとシルフの結婚の儀が行われた。
諸々の書類の提出はすでに済ませており、王族の結婚はこの儀式の後、正式に夫婦として迎えられることになる。
「いいですか、この場には国王陛下もいらっしゃいます。絶対になにも喋らないでください」
「え~なにそれ死ねって言ってる?」
「ふざけている場合じゃないんです。国王の不興を買ってしまえば、あなたは処刑です。喋ると死にます」
「喋ると死ぬ……」
「死にます」
「ヤバみだね」
「ヤバみです。だからくれぐれもその口を開けず、声も出さず、息をひそめていてください」
「かしこまり!」
「……本当に分かってるんですか?」
意外にも、儀式はつつがなく進行した。
シルフは終始ハラハラしながらフリージアを見守っていたが、事前に大げさに脅しておいたのが効いたらしい。
お辞儀の角度、相槌のタイミング、歩き方、その他所作、どれをとってもギリギリ及第点ではあった。
結婚の儀が終わったあと、シルフはほっと胸をなでおろしたのだった。
「やろうと思えばできるじゃないですか」
無事に儀式を終え、とりあえず第一関門は突破である。
シルフはおそらく初めて、フリージアに優し気な声を掛けてみた。
これから共に暮らすのであれば、関係性が良いに越したことはない。
「そうでーす。アタシやればできる子なんですー」
「まあ、すべて及第点ギリギリですけどね」
「王子に取っての及第点はアタシにとっての100点ですあざーす!」
……この彼女の操る宇宙語が、シルフは未だに理解できない。
いや、ちょっと考えれば分かるようなものもあるが、だからこそ余計に理解したくない。
「私は第二王子という立場ですが、一応、念のため、万が一に備えてあなたには王妃教育も受けていただきます」
「イエッサー」
「……真面目に勉強してくださいね?」
「おまかせあれ~」
「……」
彼女は終始こんな感じなのだろうか。
シルフはキリキリと痛み出した胃を抑えて、深いため息を吐いたのだった。
******
早朝。
彼は、家来から泣き付かれてフリージアの元へと向かった。
「毎日毎日……どうしたらこうもたくさん問題が起こせるんだ」
彼女を正式に妻に迎えてから早2週間。
その素行についてのクレームがシルフの元に来なかった日はない。
ドレスを着てくれないだとか、化粧が気に入らないと言って聞かないとか、食事に文句をつけて食べてくれないとか。
まるで子供のような駄々をこねて、周囲の人間を困らせているようだ。
一つ一つは小さなことだが、それが積み重なるとどうしても王妃教育にも影響が出てくる。
薄い夜着で化粧もしていない彼女を人前に出すわけにはいかないし、食事を摂らなくて倒れられても困る。
誰がどう言っても、どう脅しても聞いてくれないので、毎回シルフが駆り出されることになるのだ。
「あ!シルフ王子殿下!」
「シルフ殿下がお越しになったわ!」
「これで助かる……」
自分の姿が見えた途端、使用人たちは安心したのか騒ぎ出す。
彼らの縋るような視線を受けて、シルフは表情を険しくしながら目でフリージアを探した。
「まったく、今日は一体なにが気に入らないんですか」
そして彼は、何かを大事そうに抱えてソファにうずくまるフリージアを発見した。
今回はきちんとドレスを着ているし、髪もちゃんとしているように見える。
……だとすると、また化粧が気に入らないのだろうか。
「……何をやっているんです」
「あ、王子」
声を掛けると、フリージアはほっとしたようにシルフを顔を上げた。
その唇には紅が入れられており、どうやら化粧が気に入らないわけでもないらしい。
顔にはなぜかあからさまに笑みが浮かんでいて、シルフは硬い表情を一瞬緩めてしまった。
……なんなんだ、まったく。
怒りに来たのに、妙に懐くようなそぶりをされると調子が狂う。
「王子、カブちゃん飼ってもいいでしょ?」
「げ!む、虫!」
フリージアの手の中には、いつぞやの茶色いツノを持った虫が鎮座しているではないか。
シルフは慄いて思わず身を引いた。
「あ、あなた、ソレをまだ持っていたんですか」
「カブちゃんだよ、ほらカブちゃん、パパだよ~」
「パパじゃない!」
シルフの腕に鳥肌が立つ。
温室育ちのシルフは、生まれてこのかた虫など目にしたこともなければ触ったこともなかった。
本で読んだことはあるが、絵で見るよりも当然だが生々しい。
てっきり、城に入る前に家来がどこかへ逃がしたものだと思っていた。
虫の姿を見たメイドたちがシルフに泣き付いてくる。
「殿下、私はあんなものに触れません!」
「それなのに、フリージア様は飼うといって聞かなくて……」
「どうにかして止めてください!」
「はあ……そういうことか」
フリージアは手のひらに乗せたカブトムシを愛しそうに人差し指で撫でた。
「でも王子、知ってる?カブトムシって幼虫の時はずっと土の中にいてね、やっと成虫になれても大人になったら、地上で過ごせる寿命は一週間しかないんだよ」
「は、はあ……」
「メチャクチャかわいそうじゃない?」
「確かに可哀相ですが、それとこれとは……」
「じゃあ、飼ってもいいっしょ?たった一週間の命だよ?」
「しかし、使用人たちはその虫を触れません」
「私が自分でお世話するから」
「……そんなこと」
「なにかダメなことってある?なくない?」
ダメなことばかりなのだが、うっすら涙まで浮かべているフリージアを見ると、シルフもなんだかやりずらい。
「まあ、一週間なら……」
ちなみに地上に出て一週間の寿命なのはセミであるが、残念なことにその事実を知る者はこの場にはいなかった。
「で、殿下、あの虫をどうされるのですか?」
「彼女が世話をするというので、短い間ですが飼うことになりました」
「か、飼うのですか!?」
侍女が信じられないというように悲鳴を上げる。
「どうせ一週間の命です」
「…………承知いたしました」
侍女はあからさまに不服そうに頷いたのだった。