10 運命なんデステニー
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そしてまた、帰りの馬車は無言だった。
あんなに強く絡まっていたフリージアの腕は、馬車に乗り込む時にあっさりと外されてしまった。
そりゃあ、馬車には腕を組んだままじゃ乗れないし、当然といえば当然である。
シルフは別に残念とか思っていない。ちっとも全然これっぽっちも残念じゃない。
「………」
悶々とする思いを振り払うように、彼ははわざとフリージアから目を逸らす。
「……王子?」
「なんですか」
「なんか怒ってるの?」
「別に怒ってません」
言いながら、ちらりとフリージアに目を向ければ、
少しだけ拗ねたようにこちらを見つめる、潤んだ瞳と視線が合う。
シルフは頭を抱えた。
完全降伏である。完敗である。もはや戦意喪失である。これ以上どうしろというのか。
「ねえ王子、どしたの?」
「なんでもありません」
「なんでもなくないじゃん」
「なんでもないです」
「……あ、カブちゃん」
「キャーーーー!」
可愛らしい女の子のような悲鳴をあげたのはもちろんシルフである。
にょき、どこからともなく登場したのは毎度おなじみカブちゃんだった。
フリージアの膝の上にちょこんと鎮座している。
「……その虫、もう大分長生きしてるんじゃないですか?」
当初の寿命は1週間の予定だったはずだ。
実際、カブトムシの寿命は長くて3ヶ月ほとであるが、カブちゃんは立派にご長寿さんになっていた。
「きっと居心地がいいから長生きできるんだよ」
「人間だったら幾つくらいでしょうか」
「うーん、200歳?もはや神じゃん。そうか、きっとこれは運命なんデステニー」
カブトムシに話しかけるフリージアを見ていると、シルフはもうなんだか悶々としていたのがアホらしくなってくる。
シルフは恐る恐る手を伸ばすと、カブトムシを震える手で掴んだ。
「え!?王子すご!カブちゃん触れるようになったじゃん!」
シルフは無言で、手に取ったカブトムシを馬車の入口付近の壁にぺたりと付ける。
うにうにと動く6本の足は見ないようにした。
壁に貼り付けられたカブトムシを見て、よし、と満足気に頷く。
「王子?」
そしてきょとんとしているフリージアの隣に腰掛ける。
その華奢な肩に、そっと自分の腕を回してみた。
「…………」
しかしまだ何か足りない。
何が足りないんだ、とシルフは考えて。
(そうだ)
あのボインボインが足りない。
シルフは黙ったまま、隣のフリージアを抱き上げると。
「え!?王子!?何してるの!?え!?」
「シー、静かにして」
「え?なにその子供を宥めるみたいな!?」
彼はフリージアの細い体を、ぎゅっと抱きしめる。
ふわりと香るフリージアのどこか甘い香りと、体中に満ちる満足感に、シルフは酔いしれた。
さっきからーーフリージアがシルフの腕を掴んだ時から、ずっとこうしたかった。
その体制のまま、シルフはフリージアの耳元に囁く?
「あなたがあの公爵の息子と一緒にいるの、僕は嫌でした」
「え?」
「いや、もっと前から、あなたがを心配するという理由にかこつけて、傍にいたかったのかもしれません」
「お、王子……?」
「あなたと同じです。フリージア」
「……お、同じって」
「言っていいんですか?」
「な、にを……」
シルフはそれはそれは意味深に微笑む。
愉しそうに口を開いてーー更に笑みを深めて閉じた。
「さっきみたいに塞がなくて大丈夫?」
「……両手塞がってるし」
ぎゅうぎゅう抱きしめるシルフのせいで、フリージアは自分の手を彼の腕の中から出すことが出来ない。
「……まだありますよね?」
長いまつ毛を瞬かせてシルフは綺麗に微笑むと、ね?とちょこんと首を傾げてみせた。
「………………なにが」
「僕の口を塞げるもの」
「……王子が壊れた」
「大変だ。責任を取ってください」
「マジ意味わかんない」
「分かってるくせに」
「人格が変わってる!」
「ほら、淑女は口を閉じて」
そう言えば、彼女は静かになった。
不服そうな表情で、でも従順なフリージアにシルフは堪らなくなる。
そっと、手を彼女の髪に埋める。
サラサラな髪の毛が、自分の指を流れる感覚がとても心地いい。
乱暴にしたい気持ちを押し込めて、そっと触れるだけのキスをした。
「あなたって」
「…………」
「意外と初心ですよね?」
フリージアの顔は林檎のように真っ赤だった。
「バカ王子バーカ」
「ねえ、名前で呼んでくれないんですか?」
「ええ………」
「昨日約束したのに」
「約束はしてない」
「しました」
「王子、息をするように嘘つくじゃん……」
どうやらこの男は、自分が優位に立つと平気で嘘をつくらしい。
まるで子供だ。これでいいのか。いやだめだろ。
しかし彼女は、頑ななシルフにはきっと勝てない。
「名前」
「……シルフのバカ嘘つき」
「あーーー」
「なによ」
「僕ばバカですよ。多分世界一バカ。じゃないと自分の妃がこんなに可愛く見えるはずない」
「それは褒められてる?貶されてる?」
はあ、と大きなため息を1つ吐くと。
「好きです。フリージア」
吐息まじりの囁きを、彼は自分の妻に贈った。