愛憎一如
小学校五年生の七月。僕は中学受験の為に塾での勉強に明け暮れる日々であった。そして今日帰って来た先月の模試の結果は志望校A判定、全国9位と言う僕の予測を遥かに超え、出来すぎた結果だった。このまま行けば志望校合格は間違いないだろうと塾の教師の誰もが言い、両親はこの成績へのご褒美として僕の好きなゲームを一つ買ってくれると言った。
僕は元々ゲームが大好きで、やり出してしまうとクリアするまで一日中やってしまう。そして今回僕が欲しいゲームには明確なクリアが無く、やり込んでしまえば何日でも何ヶ月でもやれてしまえそうな内容だった。八月の夏期講習を前にこのゲームをやり始めていいのだろうか。僕はとても悩んだ。もしも僕が六年生であったとしたら、悩むまでも無くゲームを諦め中学受験が終わるまで我慢しただろう。だが僕はまだ五年生。受験までは約一年半もあるし、少しくらい好きな事をしてもいいのではないだろうか。そう悩む自分もいた。
今思えばこの時が人生の分かれ道だったのかもしれない。結果的に僕はゲームを諦め、その後の約一年半を受験のためだけに費やした。この時に忍耐と根性を身に着けたおかげで今の自分がある。そんな風にも思える。
そして僕は無事偏差値78の第一志望校に合格した。偏差値78と言うのはもはやこの国でこれ以上ないと言う数字らしい。入学してからも僕は大学受験と言う目標のために中学一年から努力を怠らなかった。中学受験に臨んでいる間、周りの大人は中学受験がゴールであるかのように僕を激励したが、僕には医者になると言う夢があった。ここまで来たからにはその夢を叶える為、あの時の我慢を無駄にしない為に僕は中学に入ってからもがむしゃらに勉強した。
医者になる夢と言うのも特に明確な理由と言う物はなかったが、しいて言えば小学生の頃の僕にとって医者とは正義の象徴であるかのように見えていた。「人の命を救う」それは間違いなく正しい事であろう。僕は多くの人の命を救い、多くの人に感謝される偉大な人間になる事こそが自分の存在意義であるかのように。そう漠然と考えていた。
僕の入った中学校は中高一貫校であったため、僕はエスカレーター式に高校生になった。教師も周りの生徒も同じ面々だったので特に中学の頃と変化は無く、僕は中学の頃と変わりなく勉強に励んだ。
しかし高校一年生の夏に異変が起きた。いつものように登校し、下駄箱に革靴をしまって上靴に履き替えようとしたが、僕の下駄箱に当然あるはずのものがそこには無かった。誰かが間違えたのかもしれない。そう思って僕は職員室にいた教師に頼んで来賓用のスリッパを貸してもらう。
「あれ中島、お前上靴どうしたの?」
中学の頃からの友人である田所はすぐに僕のスリッパを見て声をかける。
「誰かが間違えて持っていったみたい。すぐに気づいて戻してくれるんじゃないかな」
「上靴間違えるやつなんているかな。まあすぐに出てくるといいな」
彼の言うとおり、他人の上靴を履いていたとしたらすぐに気づくだろう。何より僕の上靴にはしっかりと僕の名前が書いてあった。本人が気づかなくても周りが気づいてくれるはずだ。だからすぐに僕の上靴は戻ってくる。そう思った僕は、その日自分の上靴について特に深く考えなかった。
だが僕の上靴は下校時間になっても帰ってくる気配は無かった。一応担任の教師にも伝えたが落し物としての報告もあがっていないらしい。仕方が無いので僕はその日の晩に母親にお願いし、新しい上靴を買うお金をもらった。中学生の頃から履いていた物だったので買い替え時ではあったし、無駄な出費でもないだろう。
そして次の日僕は登校するなり学校の購買に行き、新しい上靴を買った。僕の足のサイズは25センチから26センチに成長していた。以前から少し窮屈さを感じてはいたので、これはいい機会だったと、新品で履き心地のいい上靴に自分の名前を書きながら満足する。それからの僕は失った上靴の事も忘れいい気分で一日を過ごした。しかし下校時に下駄箱を見ると、今度は登下校時に履いている革靴が無くなっていた。
僕はその瞬間にようやくこれが誰かの嫌がらせである事に気づいた。だが特に落ち込む事もなく、こんな進学校でもこう言う事はあるんだなと冷静に考えていた。確かに大多数は頭のいい人間で占めているが、分不相応なレベルの学校に入ってしまったために余計落ちこぼれてしまった人間は何人かいる。そいつらは日本トップクラスの学校に入り、トップクラスの環境で勉強ができると言うのにも関わらず、自分達が落ちこぼれた八つ当たりか何かは知らないが、底辺校のチンピラの真似事みたいな事をして毎日ゲラゲラと馬鹿みたいに笑っている。そんな奴らに下らない嫌がらせを受けたところでなんとも思わないが、こんな事で両親に無駄な出費をさせる事だけ少し胸が痛んだ。
その日から僕はビニール袋をかばんに入れておき、登校した時はそこに新しく買った革靴を入れて自分のかばんにしまい、下校時はそこに上靴を入れて持ち帰った。これで少なくともまた靴をまた新しく買う心配はないだろう。
「中島大丈夫か?」
そんな様子を見た友人の田所は僕に心配そうに声をかける。
「何が?」
僕は本当にどうでもいい事だと思っていたので、心配する田所を不思議そうに見る。
「何がって、明らかに誰かに嫌がらせ受けてるだろ。上靴と革靴が立て続けに無くなる事なんて普通ねえよ。担任に相談したら?」
「いや、いいよ。本当に全然気にしてないし。この学校でもこんな下らない事する人間がいるんだなって驚きはあったけどね」
「そうか・・・でも嫌がらせがそれで終わるとも限らないし、もしも次に何かあったらすぐに担任に相談しろよ。俺も一緒に行ってやるから」
「わかったよ。ありがとう」
僕が田所に微笑みかけると、田所は心配そうに頷いた。
僕にはこんなにも僕の事を心配してくれる友人がいる。だから僕に嫌がらせをする人間がいたところで何も気にならない。嫌な事があっても僕が落ち込まずにいられるのは信頼できる両親と友人達のおかげなのだろう。
そんな風に自分の幸福感に満たされていた僕は、翌日登校して田所に会った時に自分の考えが甘かった事を知る。田所がスリッパを履いていたからだ。
「田所、それどうしたんだ」
「え、お前と一緒だよ。俺もやられたみたいだな」
田所は僕の時とは違ってへらへらと笑っていた。
「何で田所なんだ」
「特に意味なんてないだろ。中島がやられたのもたまたま中島だっただけかもしれないし」
確かに無差別の犯行の可能性はある。下駄箱は出席番号順に上から順番に並んでおり、一列につき五人が靴を入れられる形になっていて、タ行の苗字の生徒がちょうど五人であった為、タ行の始めの田所とナ行の始めである僕の下駄箱はちょうど隣合っていた。だから僕の次に隣の田所の下駄箱がやられたと言うのは考えられなくもない。
「じゃあ次に田所が僕と同じように対策をしたらやられるのは樋口か」
「かもな。とりあえず一日様子を見てみよう。俺はもう革靴はこっちに持ってきたし、新しく買った上靴も持って帰るよ」
事はそんなに単純な事じゃないかもしれない。この時僕はなぜかそんな不安を拭い切れずにいた。
翌日僕は登校するとすぐに教室の一番後ろの窓際の席を見る。そこには既に樋口が登校して来ており、足を机の上に投げ出して週刊誌を読んでいた。樋口は前述した落ちこぼれた生徒の一人で、教師も手を焼いているらしく一番後ろの窓際の席にいつも追いやられていた。本人もそれを希望しているのだから教師としては本人の要望を聞いただけに過ぎないと言う体だ。
すぐに目に入ったのは投げ出された足に履かれた樋口の上靴だ。つまり樋口は嫌がらせを受けていないと言う事。これは樋口が嫌がらせの関係者であるか、犯行が無差別ではないと言う事のどちらかを意味すると言っていいだろう。後者の場合であれば僕か田所をあえて狙っていると言う事であるからこれからも何かしらの嫌がらせを受ける可能性がある。そうであれば面倒になる前に解決しなくてはならない。そして前者の場合は樋口をなんとかしなくてはならないわけだが直接問い詰めても無駄であろう。何か証拠があれば担任になんとかしてもらう事は可能だが。
「なんで俺の方見て考え事してるの?」
座っていたはずの樋口がいつの間にか僕の前に立ち、ニヤニヤと笑いながら僕の顔を覗き込む。この顔を見て樋口はこの件に関与していると直感的に確信する。
「・・・何か心当たりがあるのか?」
「え、何が?じっと俺の方見てたと思ったらぼけーっと考え事して突っ立ってるんだもん。普通気になるっしょ」
樋口は不気味な笑みを浮かべながら僕の考えを見透かすかのような目でじろじろと僕の目を見る。きっとこいつは僕の反応を見て楽しんでいる。ここで何か適当な言い逃れをして一時的に樋口を避けても問題解決には至らないだろう。腹をくくるしかない。
「・・・僕と田所の靴が立て続けに隠された。犯行が無差別だとしたら下駄箱の並び的に次は樋口がやられるかと思ったんだ。だけど樋口は何もされていなかったみたいだから」
「それで俺がやってるって考えたんだ?」
樋口は相変わらず不気味な笑みを浮かべたまま僕の話を遮る。
「いや・・・。無差別ではなくて単純に僕と田所が狙われている可能性を考えていただけだ」
僕は樋口から咄嗟に目を逸らす。
「はは。そうだよな。中島頭いいし、それだけの理由でまさか俺を犯人扱いしたりしないよな。でも不思議だな。中島一人がやられるならまだわかるけど、どうして次の日は田所がターゲットにされたんだろうな。いじめとかって基本は一人が狙われるものだし、別の奴が立て続けに同じ嫌がらせを受けていたら無差別な嫌がらせだと考えても仕方がない」
「・・・そうだな」
白々しいと思ったが樋口の真意がわからず僕はただ頷く。
「つまりターゲットが中島から田所に変わった何か理由があるって事だ。それが何かわかるか?」
「僕が靴を隠される事に対して対策を打ったからか?」
「おいおい。お前勉強はできるのにこう言う所は馬鹿なんだな」
「それ以外に何があんだよ」
成績最下位の落ちこぼれに馬鹿と言われ、僕は露骨に苛立ってしまう。
「いいか?これが単に中島をターゲットにしたいじめだったとしたら、靴を隠されて対策されたところで別の嫌がらせを中島にしたらいいよな。それこそいくらでもやりようはある。でもそうじゃなくて単純にターゲットが中島から田所に変わった。これはもちろん対策を練られたからって理由ではないな。だって中島と田所は仲がいいわけだから、同じ事を田所にやれば田所も中島と同じように対策をとるのはわかりきっている」
「だから僕も無差別の犯行だと思ったんだ。それくらいはわかってる」
「まあまあ、ちゃんと話を最後まで聞けよ。じゃあ結論から言おう。このいじめのターゲットは最初から中島一人だ。そして田所が狙われたのは中島と仲がいいからだな」
「・・・なんで仲がいいからって田所が狙われるんだ」
僕がそう言うと樋口は気味の悪い笑顔を浮かべながら僕の顔を覗き込む。
「白々しいなぁ。そんな顔しちゃって。俺とここまで素直に話し合ってるって事は最初から薄々感じてたんだろ?中島が嫌がらせに対して何の反応もしなかったからだよ。いじめってのは嫌がる事をするもんだろう?だからお前の一番仲良しの田所が狙われてるんだ。友達の田所がいじめられたらさすがにお前も気分悪いよなぁ。更にお前のせいでいじめられるってんだから責任感じちゃうよなぁ」
樋口の言うとおり、僕は田所がスリッパを履いていた時から薄々この最悪の事態を考えていた。
「ふ、ふざけんなよ。僕をいじめたいなら僕だけをターゲットにしろよ。他人を巻き込むな。そもそもどうして僕がいじめのターゲットにならなきゃいけないんだ。中学の間から何も無かったのにどうして今更こんな・・・」
「おいおい。俺にそんな怒鳴りつけられても困るぜ。俺はあくまで現状から考察しただけであって、別に犯人じゃないんだからさ」
樋口は本当に困ったと言う顔をしている。なんて白々しいやつなんだ。こんなクズは見たこと無い。
怒りで樋口を睨み付ける僕の耳元で樋口は囁く。
「ほら、周りも不思議そうに見てるぜ?むしろ感謝してくれよな。俺のおかげで少し真実が見えてきただろ?これで対策も立てやすいもんだ」
確かに僕の怒鳴り声に反応して周りのクラスメイトは不思議そうに僕を見ていた。
「まあ応援してるからがんばってくれよ」
そう言うと樋口はへらへら笑いながら自分の席に戻り、僕も深呼吸して冷静さを取り戻すと自分の席に座る。
「おい、どうしたんだよ急に樋口を怒鳴りつけたりして」
田所が真っ先に心配そうに話しかけてきた。
「・・・大したことじゃないよ」
田所には言えなかった。僕のせいで田所が嫌がらせを受けているだなんて。だが大きな声で怒鳴り声を上げてしまったわけだから、全てを隠す事もできないだろう。
「大したことじゃないって・・・いじめがどうこう言ってたけど下駄箱の事が関係しているのか?樋口がやられてないって事はやっぱ無差別じゃなくて俺達をターゲットに狙って来ているって事か」
「うん。そうだね」
「そして中島があれだけ怒るって事はまさか犯人は樋口?」
「それはわからない。十中八九あいつが関与しているとは思うけど、何も証拠は無い」
「じゃあなんで樋口にあんなに怒ってたんだよ」
「それは・・・」
僕が言葉を選んでいると始業のベルが鳴り、担任が教室に入ってきた。
「後でちゃんと話せよ」
田所はそう言って自分の席に戻る。
「はい。じゃあみなさんかばんを机の上に出してください」
担任は連絡事項を言い終え、急に厳しい顔になるとおかしな事を言い出した。しかし生徒達はわけのわからないまま、言われたとおり机の上に自分のかばんを乗せる。
「それではみなさん手は膝において、かばんを触らないように」
生徒は担任に言われるがままに膝に手を乗せる。
「よろしい。えー、本日このクラスの生徒が校内に不要な雑誌を持ち込み、それを読んでいたと言う報告が入りました。なのでこれからみなさんの持ち物をチェックさせてもらいます」
この学校の校則は厳しく、雑誌、漫画、ゲーム機や携帯電話の持ち込みは禁止されていて、見つかれば没収と厳しい指導が待っている。恐らく樋口が先ほど週刊誌を読んでいたのを誰かが担任に密告したのだろう。いい気味だ。
担任は前の席の生徒のかばんから順番にチェックして行くが、少しかばんを開くだけで大して中を調べない。恐らく樋口が犯人だと分かっているので他の生徒へのチェックは形式だけのものなのだろう。樋口のかばんだけをチェックした時に樋口のかばんに何も無ければ担任のリスクになる。だからクラス全体の持ち物検査と言う形式を取っているに過ぎないのだ。
そして担任は樋口のかばんを開ける。
「先生?なんか俺だけやけに入念にチェックしますね」
樋口はニヤニヤ笑いながら担任を見上げる。担任は焦った様に中を探すが何も出てこない。
「あ、いや何も無いな。すまない」
苦虫をつぶした様な顔をして担任は次の列の一番後ろの席から今度は前の席に向かって順番にチェックして行く。そして担任は田所の席の前についた。
「どうした?田所」
田所は自分のかばんの口を押さえ、明らかに動揺した様子で担任を見上げる。
「ちが、ちがうんです。俺のじゃないんです」
「何を言っているんだ。早く見せなさい」
「お願いです。話を聞いてください」
「いいから見せなさい!」
そう言うと担任は田所のかばんを強引に開ける。するとかばんを開けた拍子に田所のかばんから数冊の雑誌が床に落ちた。
「おい田所・・・何だこれは」
落ちた雑誌は成人用のポルノ雑誌で、人妻や熟女と言った文字が書かれているのが見えた。
「ヒュー!田所君いい趣味してるね」
樋口が野次を飛ばす。
「違うんです!俺のじゃないんです。今開けたらいきなり入っていて。信じてください」
「誰が何の目的でお前のかばんにこんな雑誌を入れるんだ!・・・まあいい。話は指導室でゆっくり聞く。かばんとその雑誌を持ってついて来なさい」
田所は泣きそうな顔をしながらかばんと雑誌を抱えると、担任の後ろについて教室を出て行った。田所が出て行く前に女子生徒の誰かが「気持ち悪い」と呟いたのが聞こえた。
すれ違いで一限目の数学の教師が来ると、田所がいないまま普段どおり授業が行われた。まるで何事も無かったかのように。
田所は誰かに嵌められたのだろう。恐らく樋口を怒鳴った僕を心配して、田所が僕に声をかけに来た時だ。だがあの時樋口が田所のかばんに何かしていた様子はなかった。つまり僕達に嫌がらせを実行している人間は別にいる。あの野次からしても樋口が関与している事は確実だが。
数学の授業が終わり休み時間になると、僕は田所の無実を証明する為に担任の元へ向かった。
「あの先生、田所は・・・」
「ああ、全部認めて自宅謹慎が決まったところだ。今親御さんが学校に向かっているから面談後帰宅してもらう」
「ええ!?認めたってどう言う事ですか?」
どう言う事だ。それにいくらなんでも早すぎる。冤罪ならば普通もう少し粘るだろう。
「どう言う事も何もあの雑誌を学校に持ってきていた事に決まっているだろう」
「違うんです先生。田所は誰かに嵌められていて・・・先日僕の上靴と革靴、そして田所の上靴と革靴が立て続けに隠される嫌がらせを受けました。きっとその延長で誰かが田所のかばんにあの雑誌を入れたんです」
「なんだ、そんな事があったのか。ならばなぜすぐに先生に相談しなかったんだ」
「それは・・・自分達で解決できると思ったので」
「そう言う事はすぐに大人に相談しないとだめだ。いじめは悪化しだしてからじゃ遅い」
「はい、ごめんなさい・・・。なので田所は無罪なんです。どうかあいつの話を聞いてあげてください」
だが担任は残念そうに首を横に振った。
「中島の気持ちも、言いたい事もわかるが、あれは田所のものだ・・・」
「どうして・・・」
「田所を連れて指導室に入った直後だ。学校のメールボックスに動画つきのメールが届いた」
「それが何か?」
「田所がコンビニでさっきの雑誌を万引きしているところを映した動画だ」
その瞬間僕はまるで鈍器で思い切り殴られたかのような錯覚を受ける程の衝撃を受けた。
「そんな・・・そんなわけ」
「私も信じたくないが、あれは紛れも無く田所だった。そして本人もこの事実を認め、処罰を受け入れたんだ」
なんて事だ・・・。田所が万引きをしていて、それがポルノ雑誌で、更にそれを学校に持ってきていたなんて、何をやっているんだあいつは。何で僕は何も知らなかったんだ。
「中島への嫌がらせはまだ続いているのか?」
「いえ、僕はもうされていません。樋口が言うには田所は僕の代わりに犠牲になっているようです。僕が嫌がらせを受けても何食わぬ顔をしているので、友人の田所をいじめて僕を精神的に追い詰めようと・・・」
「なんだそれは。なんでそんな事になるんだ。それに樋口って、あいつが関与しているのか?」
「樋口は客観的に考察した結果だと言いましたが、僕はあいつが関与していると思っています」
「証拠はないんだな。それに今回の田所の件は嫌がらせでもなんでもなく、あくまで田所自身の問題だ」
「はい・・・」
だがタイミングがおかしい。持ち物検査なんて今までした事も無かったのにどうしてこのタイミングで行われたのだろう。そして樋口が朝読んでいた週刊誌はなぜか見つからなかった。いや、そもそもなぜ樋口はこの厳しい学校でわざわざ堂々と週刊誌を読んでいたんだ?まさか田所がポルノ雑誌を持っている事を知っていてあえて誰かに自分を密告させた?あの持ち物検査は樋口が仕組んだものなのだろうか。ならば事前に週刊誌を他の場所に隠していても不思議ではない。そして田所の万引き動画は一体誰が・・・。
職員室を出て教室に戻ると教室を出る樋口とすれ違う。
「下手に頭がいいと勝手にドつぼにはまってくれるから楽でいいよな」
「どう言う意味だ?」
僕は咄嗟に樋口のブレザーの袖をつかみ、樋口を睨み付ける。
「そのままの意味だよ。大方色んな推論した挙句に自分に責任感じて勝手に負い目を感じてるんだろ。お前に嫌な思いをさせたい奴からしたら楽でいいよな」
「お前・・・自分が何してるかわかってんのか?」
「おいおい。それは田所に言ってやれよ」
ニヤニヤと樋口は笑う。
「時間ねえからもういい?トイレ行きてえからさ」
そう言うと樋口は俺の手を払ってトイレに向かう。
確かに樋口の言っている事は正しい。田所は悪い事をして、それがばれて痛い目を見ているだけだ。どう考えても自業自得だ。
だが僕と田所の靴が隠された事、それが無差別の犯行で無い事、どうして僕じゃなくて田所が狙われだしたか、そして僕と樋口との会話。まるで全ての責任が僕にあるように錯覚させる為の流れだ。僕と田所が友達じゃなければ、僕が誰かに嫌われていじめのターゲットにならなければ、今回田所がこんな目にあったりはしなかったのかもしれない。こうやって考えるだけで恐らく相手の思うつぼなのだろう。
そして田所の一週間の自宅謹慎が決まった。田所がいない間、誰かが僕に何かしらの嫌がらせをしてくる事を覚悟していたが驚くほどに何もされなかった。まさに下駄箱の上靴が隠される前の平穏な学校生活が戻ってきたかのようだった。一番仲の良かった友人がいない事は寂しいが、田所がいない事によって僕は不安の種が消えたかのようにも感じてしまっていた。
僕にとって一番大事な事はトップクラスの大学の医学部に入ってトップクラスの医者になる事だ。漠然とした子供みたいな夢だが、それはこの努力を続けた先にきっとある。友人は大切だが僕には勉強以外の事で頭を悩ませ続けている余裕はないのだ。今までの我慢と努力を無駄にするわけにはいかない。
金曜日には来週の月曜日に田所が帰ってくる事がもはや億劫になっている最低な僕がいた。
しかし月曜日は確実にやってきて、田所は気まずそうに登校してきた。クラスの男子生徒達は田所を見るとニヤニヤ笑いながらひそひそ話をし、女子生徒達は田所を避け、近くを通るときは口と鼻をハンカチで覆っていた。まるで同じ空気を吸いたくないと言いたいかのように。
「お、おはよう中島」
「おはよう」
僕はついぶっきらぼうに返事をしてしまう。
「お前は信じてくれるよな?あれ俺のじゃないって・・・」
「・・・」
「いや、参ったよ。いくら冤罪だって言っても聞いてくれなくてさ、無理矢理俺のせいにされて自宅謹慎だよ。いくらなんでも理不尽だよな」
そう言って田所はへらへら笑う。なぜかその顔を見て僕は吐き気を覚える。中学からずっと仲の良かった友人が、この世で最も醜い存在に見えていた。仏教で愛憎一如とか言う言葉があると聞いた事がある。愛していたり仲が良かったからこそ、裏切られた時にその憎しみは深くなると。まさにこう言う事なのだろうか。
「どうして嘘つくんだよ」
「え?」
「全部知ってんだよ。あの雑誌、コンビニで万引きしてたんだろ」
「それは・・・」
「あの後すぐに担任にお前の冤罪を訴えに行ったよ。そしたらまさかそんな事聞かされるとはな。お前は一生の友達だと思っていたのに・・・残念だよ」
本当に心から残念だと思っていたが、なぜか僕は枷が外れたかのように気持ちが軽くなって行くのを感じた。
「そうか・・・ごめんな」
田所は僕が予期していたよりもあっさりと諦め、少し寂しそうに笑うと自分の席に戻って行った。
それから僕が田所と話す事はなかった。僕には田所程親しかった友人は他にはいないが、普通に日常会話をするくらいの友人は多くいたので、田所と話さなくなった事で特別孤独を感じる事もなく、今までどおりの平穏な生活を送っていた。
田所は他の友人からも距離を置かれ、女子生徒達には気持ち悪がられ、毎日一人寂しそうにしていた。たまにそんな田所を見ると少し胸が痛んだが、自業自得だと思って割り切るようにしていた。
流れるように日々は過ぎ、高校二年生になると僕は僕の新しいクラス名簿を見てほっとする。そこには田所の名前が無かったからだ。これで本当に平穏な生活を送れる。夢のために何も考えずに勉強だけができる。そう思ったからだ。だが教室に入って僕は愕然とする。そこには田所の姿があったからだ。
「田所・・・。お前クラス間違えてないか」
咄嗟に僕は田所に声をかける。
「いや、その・・・苗字変わったんだ俺。だからここで合ってる」
「はぁ?」
意味がわからなかった僕はクラス名簿と席順を照らし合わせてみると、田所が座っていた席は日高と言う苗字の生徒のものになっていた。
「日高・・・?」
「そう。母親の旧姓なんだ」
「ああ・・・」
両親が離婚したのだろう。
「へへ・・・」
気まずそうに田所、いや日高は僕を見て笑った。あの事件がきっかけなのだろうか。子供の事をきっかけに両親が不仲になってもおかしくない。日高のやつれた顔を見て僕はまた少し胸が痛んだ。
日高は見る見るうちにやつれて行った。清潔感もなくなり、ますます他の生徒にも避けられるようになった。ある日別のクラスになった樋口と日高が話しているのをちらっと見かけた。はみ出し者同士仲良くなったのかだなんて思っていた。
高校二年生の夏になると本格的に大学受験に向けた勉強が始まり、授業の後に難関大学への対策ゼミと言われるものが始まった。ゼミが終わると外はもう暗くなっており、校門には女子生徒達の親が車で迎えに来たりしていた。僕の両親もどちらかと言えば過保護な方で心配していたが、高校生男子としての恥ずかしさみたいなものがあって僕は毎日一人で帰っていた。
そんな日々も三ヶ月ほど続くと外は寒くなり、暗くなるのも早くなった。僕はポケットに手を突っ込みながら肩をすぼめていつものように下校していた。僕と同じように一人で帰っている生徒は何人かいて、当然僕の前にも僕の後ろにも誰かが同じ方向に向かって歩いていた。後ろの生徒の足音が近づいてくると感じた。急いでいるんだなと思った。暗い道路沿いには電信柱が並んで建っていて、うっすらと街灯に照らされる電線が見える。それは駅まで続いていて、帰り道にはこれを眺めて駅に向かったりしていた。
突然僕の背中に激痛が走ると共に僕は仰向けになって倒れた。一瞬何が起きたかわからなかったが、生暖かい液体が背中を濡らして行く感触で自分が刺された事を少しずつ理解した。僕を刺した犯人は仰向けになった僕に馬乗りになると、今度は僕の胸にサバイバルナイフのような物を突き立てた。肋骨が邪魔して上手く刺さらず、ナイフで胸の肉をぐりぐりとえぐられる激痛で僕は冷静になり、月明かりに照らし出された日高の顔をはっきりと認識する。
「な、んで・・・」
「お前さえいなければ!お前さえいなければ!」
そう言うと日高は僕の腹を何度もナイフで刺す。
「や、め・・・」
抵抗しようにも激痛と喉からこみ上げてくる血の塊で言葉を発する事もできない。
ああ、死ぬのか・・・。あれだけ我慢して、ここまで努力して、人の命を救う為に医者になるってがんばってきたのに、まさかこんな途中で、人に殺されるなんて・・・。なんて皮肉だ。
何がいけなかったのかはなんとなくわかる。僕は田所の苦しみから目を逸らしてしまった。僕は自分の保身の為に友人を切り捨てた。「あれくらいの苦しみならどうせ時間が解決する。すぐに田所は立ち直って新しい友人を作ったりして楽しく生きていくのだろう」そんな風に考えて田所の苦しみを考える事から逃げた。いや、人の苦しみは他人によって共感できるようなものではないのかもしれない。僕たちが想像しているよりもそれは大きく、重く・・・。
少し離れた電柱の近くに見覚えのある人影が見えた。樋口だ。僕のところから樋口の顔は全く見えなかったが、いつものように不気味な笑顔でこちらを見つめているのだけは間違いないだろう。きっと全ての元凶はこいつだ。あの時樋口と田所が話していた時、樋口は田所の苦しみを全て僕への憎しみに変えたのかもしれない。
もう考えても仕方のない。死ぬ時くらいはもっと、何か意味のある事を考えたかったものだ。