ドクが教えてくれた
田舎の早朝は寒さがこたえる。
昨夜、父の十三回忌の墓参りのために、三重県は亀山市の実家に着いた。両親も姉弟もみんな亡くなって久しい。一人ぽっちの法要だ。実家といっても、遼一はこの町に住んだことはない。昭和四十五年に父が三重大学に助教授として迎えられたときから、遼一以外の家族は亀山市に引っ越してきた。石川藩の亀山城跡の近くの武家屋敷が並ぶ町並みの中に実家はある。
遼一は京都に残り、親戚の家から小学校に通った。その後も、大学まで京都にいたので、亀山には夏休みくらいしか想い出はない。
それでも、亀山に着いて、近くを歩いてみた。夜の亀山は都心の暗闇とはまったく違い、明かりも無ければ人の歩く姿もほとんどない。
坂を上り、亀山神社を覗いてみた。城跡の階段を上ってみた。小学校のグラウンドを覗いてみた。前にある市役所の駐車場を歩いてみた。すべてが懐かしく、すべてが寂しかった。真っ暗で静かな空に浮かぶ星がやたらにきれいだった。
昨夜は気にならなかったが、夜明けの畳の下から冷えてくるような寒さに驚いた。まだ十月だというのに。
ストーブをつけて暖を取り、靴下とセーターを二枚づつ身につけた。
仏壇の前に座った。仏壇の中の父の写真は六十歳のときの写真だった。
はっきり覚えている。
還暦祝いのときに一緒に撮った写真だからだ。髪の毛もふさふさしていて、顔もふっくらとしている。
遼一が普段思い浮かべる父の顔はもっと若い。
大学教授という職業柄か、遼一が小さい頃は、父はいつも深夜まで机に向っていた。
温和で怒ることはほとんどなかった。
ただ父親の記憶は濃い。
人生を教えてくれたことがある。
涙を見せたことがある。
そのことが遼一の記憶の中に強く残っている。
学校で同級生に怪我をさせても、修学旅行の集合場所に行かず、旅行の小遣いを持ったまま東京の天井桟敷に行ったときも、決して怒らなかった。
その父が本来の姿を見せてくれたことがある。
家族が亀山に住むようになって初めての夏休み、父は石水渓というキャンプ場によく連れて行ってくれた。
自転車で三十分くらい走った山奥だけれど、そこでは川で泳いだり、魚を獲って火を炊いて焼いて食べたりした。父は器用に川にもぐっては鮎をモリで突いた。鮎の味は子供には苦くて正直わからなかったが、父の格好良さには憧れた。
毎日のように出かけた。
そこで、血まみれになった子犬を見つけた。
多分、野性のサルに襲われ、血まみれになった子犬を見て飼い主が放置していったのだろう。
近くに寄っても子犬は逃げるどころか、お尻全体をくねくねしながら勢いよく尻尾を振っていた。
父は子犬を川で洗ってやった。意外と傷は浅く、とても元気だった。
父が石水渓に来るときにはいつも携帯している小さな薬箱の消毒薬を振りかけた。
「さぁ、大丈夫だ。大事にするんだぞ」
父はそう言って子犬を省吾に手渡した。
「京都に連れて帰っていいの?」
「もちろんだ。京都のおばさんは大の犬好きだから、俺から頼んでおいてやるよ」
遼一は嬉しかった。犬を飼うのはずっと夢だった。祖父が飼っていた大きな犬がいたが、遼一が小さいころに死んだ。
それ以来、死ぬのが嫌だし、世話をするのは絶対私の仕事になる、という母の主張が通ってきた。
父は姉を呼び出し、姉の友達にプレゼントされた、ということにしてくれと頼んだ。姉も犬を飼うことに賛成だった。喜んで母をだますことに加担した。
どう見ても雑種には見えない。おそらく血統書のあるコッカースパニエルの子犬に違いなかった。
『ドク』と名付けた。英語のドッグから取った名前だ。
ドクは賢い犬だった。
遼一に恩があるのをわかっているのか、遼一の言うことに忠実だった。特に食事は遼一が与えるものしか口にしなかった。遼一にとって自慢の犬になった。
生まれて初めての座敷犬だ。寝るときも、遊ぶときも、食事をするときもずっと一緒だ。風呂に入るときも、ちょこんと座って風呂の前で待っている。母は最初は嫌がっていたが、糞尿の場所もすぐに覚え、世話のかからないドクのことをとやかく言わなくなった。
早く夏休みが終わって、京都の家でドグと遊ぶことがを楽しみだった。
しかし、夏休みが終わりに近づいたある日、事件が起きた。
ドクが近所の子供を噛んだ。
とは言っても、近所の子供たちが、ドクを見たさに門を潜り抜けて庭に入り、ドクをいじめたらしい。これが泥棒ならドクの手柄だが、泥棒同様の侵入であれ、相手が子供だけに問題となった。噛まれた子供の親が警察に届けた。
父は子供の不法侵入を強く訴えたが全く通じなかった。子供が侵入可能なところに犬がいたということが問題だというのだ。ドクの首には輪ゴムが何本もはめられ、もし知らないでいると、首が切れ、輪ゴムが血管に食い込み、死にいたることがあるらしい。
ドクが怒るのも当たり前だ。
子供の怪我は大したことはなかったし、警察官もある程度は同情してくれた。
しかし、ドクに鑑札がなかったことでドクは警察に連れて行かれた。病気を持っていないかを調べるためだという。
そして二日後、警察から連絡があった。
ドクは狂犬病を発症したという。
野性のサルが狂犬病のウイルスを持っていることは珍しくないという。すぐに動物愛護センターに行ってくれという事だった。
父は図書館に行っていた遼一を連れて愛護センターへと車を走らせた。
檻の中に入れられたドクの姿は明らかに異常だった。
檻の中の一番暗い隅っこにうつ伏せになり、真っ赤な目をして、ウーウーとうなり声を挙げながらよだれを垂らしていた。
「狂犬病でなかったら、飼い主の方に毒入りの食事を与えてもらうこともできるのですが、この犬の場合は危険ですのでガス室に送ります。いいですね」
ドクが殺されるということは遼一にもすぐ理解できた。
「ドク、ドク」遼一が呼ぶが、ドクはこちらを向こうともしない。
「ガス室には行かせない。遼一が毒を食べさせる。食事を用意してくれ」
「無理ですよ、そんなこと。ましてや子供にそんなことが出来るはず無いじゃないですか」
青い制服を着た男が少しあわてて答えた。
「ドクの死に様は飼い主が選ぶ。遼一いいな」
遼一は父を見てうなずいた。
「危険ですからやめてください」
「俺が責任を持つ、遼一がドクに噛まれたら、俺がドクを殺す。準備をしてくれ」
「わかりました、しかし万が一、犬が危険行動に出たら、我々がすぐに処分します、いいですね」
「つべこべ言うな、さっさと準備してくれ」
父には迫力があった。男たちは明らかに恐れをなしていた。
遼一は男たちから饅頭を受け取って、檻に入った。
ドクがうなり声を大きくした。視線を遼一に向けた。
「危ない、やめましょう」
男たちが大きな声で折の中に入ろうとしたとき、父の鉄拳が飛んだ。男はひっくり返った。
「静かにしろ、ドクを興奮させたら俺がお前らを殺す」
父の声は静かに低く、男たちを充分におびえさせた。
「ドク、ご飯だよ、おいで、ドク、ご飯だよ、おいしいよ。ドク、一緒に食べようよ、ドク」
遼一は涙声で話しかけた。これから自分が何をして、何が起こるかをしっかりと把握していた。そして、これは自分がやらなければならないとわかっていた。
「ドク、おいしいよ、ご飯だよ、ドク」
ドクがうなり声をさらに大きくしてゆっくりと立ち上がった。
真っ赤な目を光らせ、よだれをダラダラ流していた。
「ドクおいで、ドク、ご飯だよ」
ドクが一歩一歩近づいてきた。
「ドク、おいで、早く」
ドクのうなり声はさらに大きくなる。
男たちが檻の扉に手をかけた。
しかし、父の腕が男たちを制止させた。
「ウオーッ、ウーッ」
ドクの声が響く。
遼一は決しておびえることはなかった。
自分の責任が何かを理解していた。
「グワーオーッ」
ドクがまた遼一に近づく。
ドクが遼一の真正面に来た。
真っ赤な目が鋭く光る。
よだれがまた垂れる。
歯をむき出す。
「ドク、ご飯だよ」
ドクは急に伏せた。
一瞬、遼一の顔を見た。
一瞬だった。ほんの一瞬だった。
そして、赤い目に悲しさが見えた。
尻尾が一瞬振られた。
「ウーッ」
ドクが一気に毒饅頭をほうばった。
自分の終焉を悟るかのように、遼一に恩返しをするかのように、一気に毒饅頭をほうばった。
ドクはもう遼一の顔を見なかった。
一心不乱に毒をほうばった。
泣いていた。
ドクが泣いていた。
少なくとも、遼一にはそう見えた。
キューンという小さな声を上げ、ドクは静かに血を吐いた。
遼一は声を上げて泣いた。
「何て賢い犬なんだ」男たちが涙を流した。
その後ろで、父のすすり泣きの声が聞こえていた。
強い父、威厳のある父、優しい父、厳しい父。それらの全てを感じた一瞬でもあった。
父の十三回忌。遼一ひとりで十分だ。
父に感謝の言葉を。
「おやじ。あなたは僕のあこがれさ」
遼一は、仏壇の写真に手を合わせた。