番外. 忘却に至る少女
少女視点。
番外編というより、蛇足かもしれませんが。
「『知識の泉』って知ってるか?」
わたしはおばあちゃんから頼まれたお使いの途中にそんな言葉を耳にした。
「知識の泉」? いったい何なのだろう。
そう思い、会話に耳を傾ける。
「なんでも、その泉の水を飲めばありとあらゆる知識を得られるって噂よ。何でも、東の森の奥深くにあるんだとかよ」
「そんなの、あるわけねえだろ。あったらもっと噂になってらぁ」
「違いねえな!!」
大きな笑い声と共に、その会話話打ち切られた。
「知識の泉」というものが本当にあるなら、わたしもおばあちゃんみたいになれるのかしら。
信じたわけではなかったけれど興味はあった。それからわたしは東の森に通うようになった。
そんなあるとき、おばあちゃんが亡くなった。
お医者さんは寿命だって言ったけれど、まだわたしは信じられなかった。
悲しむより、驚きが大きかった。涙すら出ないほどの衝撃だった。
どうして、死んでしまったんだろう。
何日か、それで悩み続けた。
そして、ふと思いついた。
――そうだ。知識の泉の水を飲めばおばあちゃんにまた会えるはず。
わたしは、「知識の泉」を探すことに一層熱心に、他のことを忘れるかのように打ち込んだ。
だって、またおばあちゃんに会えるんだから。
そう信じないと、駄目になってしまいそうだった。
◆
「……見つけた」
見つけた。祖母が死んでから、数年が経っていた。
本当に見つかるとは思っていなかった。実際、既に祖母が死んだという現実は受け入れられていたし、当時ほど熱心に探し回ってはいなかった。
偶然だった。なんとなく、近くを通りがかったから森に入っただけだった。
なぜか、見ただけでこの泉は普通じゃないとわかった。
でも、もう飲まなくてもいいのかも――そう思ったけれど、でも好奇心が先行した。
そして、淡い期待もあった。もしかしたら、本当に祖母に会えるかもしれない。
わたしは泉に近づき、手で水を掬った。
泉の水は透明――とても澄んでいた。今まで見たどの泉より美しく、輝いて見えた。
意を決して、口に運び、そして飲み込んだ。
途端、知識が溢れ出す。
あらゆる知識――動物の生態、薬草、毒の種類、生物の構造、魔法、古代文字の読み方。
それらが脳内を駆け巡る。
けれど、その中に祖母に会う方法はなかった。
当然だ、死者に会う方法なんて、わたしが死ぬ以外にない。
少女は家に着くと、倒れ込むようにベッドに向かった。
知識が溢れ、眠ることもできなかった。
頭が割れるように痛み、それから逃れるように零れ出る知識に集中していった。
やがて、何も感じなくなった。
何も考えなければ、何も感じないのだということに気がついた。
◆
どれくらいたったのだろう。膨大な時が経ったようにも、一瞬のうちだったようにも感じられた。
目の前に男が立っていた。
聞けば、どこかの国の王子だという。わたしに妻になってほしいと。
そんな御伽噺のような話があるだろうか。
馬鹿馬鹿しい。けれどわたしは何も考えず頷いた。
名前を教えて欲しいという。
名前――考えると頭が痛んだ。何も考えてはいけない。
忘れた。そう答えた。
そんなあるとき、王が病に伏したとの知らせが届いた。
病の病状がいやがおうにも耳に入った。
そして、知識が溢れ出る。痛みが走る。何も考えるな。
何度か、そのようなことが起きた。そして、教えてしまった方が楽なのではないかと気がついた。
そして、わたしは痛みに耐えて王子に薬の作り方を教えた。
王は死んだ。薬は見つからなかったらしい。
人々はわたしのことを王子を騙した「魔女」だと呼んでいるらしい。
人々がいると、頭が痛む。
わたしは塔に閉じ込められることになった。
けれど、静かなその環境はわたしにとって苦にはならなかった。
目を閉じて、わたしは人形になる。
◆
目を覚ますと、人がいた。
自らを錬金術師だと名乗った。その男もわたしに名を訊ねる。一度された質問だ。だからわたしは考えもせずに忘れたと言った。
しばらくして、錬金術師はわたしに訊ねた。
「どうしたらあなたのようになれるのですか」
その問いに、わたしの頭が痛んだ。
けれど、わたしは思う。この手の質問は何度もされるものだ。なにより、この男はしつこそうだ。この塔に無断で何日も居座っている。
それよりは、一度目に教えた方がいいのではないだろうか。
そして、わたしは「知識の泉」のことについて話した。
その後、錬金術師は現れなくなった。
物音ひとつしない静かな塔の中で、わたしは再び目を閉じる。
◆
目を覚ますと、今度は騎士がいた。
騎士もあれこれとわたしに訊ねてきたが、深く追及するつもりはなかったようだ。
忘れた、と答え続けると、彼は困ったように言った。
その様子を見て、わたしを心配しているのだとわかった。
「一緒に来るかい?」
その言葉に、わたしは頷いた。何故だろう。彼は信用できる気がした。
それに、頭は痛んだけれど、外の世界がどうなっているのか、少しだけ気になっていた。
外の世界は相変わらずうるさかった。頭が痛む。
出なければよかった。
そう思っていた。
すると、騎士が言った。食事をしないのか、それともできないのか。
二択となると、答えた方が早いだろうとわたしは必要がないだけだと答えた。
それから、食事を共にするようになった。その方が彼が喜ぶし、しつこく言ってくることもないからだ。
いつ振りだろう、食事をしたのは本当に久しぶりで、とてもおいしいと思った。
食材のことは考えないように、ただ味だけを楽しんだ。
けれど、外に出てよかったと、この時初めて思った。
そのあと、騎士に求婚された。
何も考えず――いや、少しだけ感謝の気持ちがあったのかもしれない。
これで結婚は二度目だった。
◆
騎士が病に臥した。あの時の病気と同じだった。
あの病気に効く薬草は、見つけられないと思った。
わたしはどうすべきか考えた。
頭が痛んだが、騎士には恩を感じていた。外の世界に連れ出してくれたこと、そして食事のこと。
だから、考えた。
考えて、考えて、考えて。そして、痛みの感覚が麻痺して薄らぎ始めたころ、一つの策を思いついた。
これは賭けのようなものだ。けれどそれしか思いつかなかった。
わたしの血――わたしは泉の水を飲んでから、一切病気にならなかった。それは泉の水の効果だ。
それを彼にも、少しでも与えることができれば。そう思った。
腕を少しだけナイフで切る。痛みは僅かで、普段に比べればどうということはなかった。
彼に飲ませると、魘されていた声が穏やかな寝息に変わった。
よかった。
彼が目覚めると、安心したのか倒れてしまった。
血が、止めどなく溢れていた。
そう言えば、虫に刺されても、木に引っかかってもすぐに治っていたのに、この傷は治らない。
どうしてだろうか。そう考えて、痛みが来ないことに気がついた。
自分で傷をつけたからだろうか。わからない。
知識の奔流は、もう襲ってくることはなかった。
◆
その人の名前は、ライルと言った。
彼は今日初めて会ったのに、なぜだか懐かしい感じがした。
どうして?
でも、不思議と嫌な気はしない。
おばあちゃんはどこにいったの? そう訊ねると、困ったように笑ってこう言った。
「どこだったかな。忘れてしまったよ」
その騎士の名前は、ライルと言った。
彼は面白い話をしてくれた。わたしの聞いたことのない話だ。
だからわたしは、彼に喜んでもらおうと笑った。
その男の名前は、ライルと言った。
彼はわたしのことを愛おしむように撫でてくれた。嬉しくなって、笑みが零れる。
彼の名前は、ライルと言った。
彼は泣きそうになりながら、わたしの名前を訊ねた。
そうしてそんなに悲しそうなんだろう。そう思いつつ、わたしは答えた。
わたしの名前は――。
ゆっくり、瞼が落ちる。
もっと、ライルとお話がしたいのに。
また、起きたら面白いお話を聞かせてくれるよね。
だから、ちょっとだけ。おやすみ、ライル。