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コーヒーをどうぞ

作者: りつなん

 その王都の片隅には、小さな喫茶店があった。

 いくつかの路地を抜けた先に、まるで隠れ家であるかのようにたたずむその店は、少しばかりの常連客と、街道から離れて奥へ奥へと好んで進んできた酔狂な旅人たちの憩いの場として、静かな人気があった。

 喫茶"リビング"。それがその店の名前だ。木造のちいさな造りで、店内には多くても七人ほどしか入れない。木でできたぶ厚い扉を開けると、ふわりと漂うコーヒーの香り。あたたかみのある、オレンジ色の丸い形をした照明が宙に浮かぶような形で、天井から吊り下げられている。窓の近くには、テーブル席がひとつ。その他はカウンター席となっている。

 リビングは、たった一人の女主人によって切り盛りされている。

 女性の名前は、イト。それが名前であるのか、名字であるのかは常連客でさえも知らなかった。短い黒髪に、意志の強そうな双眸の整った顔立ち、そしてどこか品の良いたたずまいは、彼女自身だけでなく、リビングの魅力の一つにもなっていた。

 



 からんころん、という音がして、本日三人目となるお客さんが店内に入ってきた。常連客であるマルロイとの会話をいったんやめて、イトはドアの方を見た。そこにいたのは、リビングにはあまり来ない客層である、若い男性だった。王都の若い子たちの間ではやっているような格好をしていないことから、恐らく王都に立ち寄った旅人さんが迷いこんだのだろうと検討をつける。


「いらっしゃいませ。よろしければそちらにどうぞ」


  カウンターの裏から声をかけて、マルロイの座る席からひとつ空けた右端の椅子を勧めると、男性は軽く会釈してから腰を落ち着けた。


「なにになさいますか? メニューはそちらで、もしお好みのものがないようでしたら、他に作ることもできます」

 

 乾燥させるために小分けにしてまとめる作業をしていたハーブを置いて、お冷の用意をする。マルロイは、先ほどいつも通りに注文したコーヒーフロートに口をつけながら、興味深そうに旅人を見ている。ひげをもじゃもじゃとかき、初めてみる客に話しかけたくてうずうずしているのが丸わかりだ。いつも作業着の、恰幅がよくておしゃべりなこのおっちゃんは、リビングのムードメーカー的な存在であった。

 しばらくメニューを眺めたあと、男性はホットのブラックコーヒーを所望した。

 


 後ろを向いてイトがコーヒーをおとしている間、マルロイが旅人にからんでいる声が聞こえた。やはり、彼は旅人のようで、人を探してあちこちを訪ねているらしい。ここから馬車で一週間ほどかかる男爵領から王都まで上ってきたのだという。


 王都にたどり着いてしまったということは、それまでに寄った街では捜し人にめぐり会えなかったということだろう。王都の滞在中になんとか捜し人に関する情報を得るか、もしくは捜し人本人に会えなければ、今度は元いた場所とは反対の方向に進まなければならなくなる。こんなに広い王都で人捜しというだけでも、かなりの労力を要するだろうから、どちらにしても大変な道のりであろうことが分かる。イトは、密かに旅人に同情した。



「どうぞ」


 リビングの中に挽き豆の香ばしい香りが広がっていき、思わずイトは息を深く吸い込んだ。この染みわたるような深い香りは、いつまで経っても飽きることがない。コーヒーを差し出すと、旅人は小さくお礼を言って、口をつけた。

 

「イトちゃん、この兄ちゃん、ここに来る前までは騎士団に所属してたらしいぜ。騎士さままで人捜しに駆りだすたぁ、あんとこの男爵さまは人使いが荒いらしい」


「あら、騎士さまでいらしたんですね。……確かに、お強そうです」


 薄くて軽い生地の旅装につつまれている旅人は一見すると細いようだが、よく見るとがっしりとした体つきをしていることが分かる。だぼついた旅装でなく、騎士服を身につけたら、それなりに威圧感のある風貌になりそうだ。そして、体よく言えば狼のように鋭い目つきは騎士然としていた。ねらった獲物は決して逃さぬという自信と意志が感じられる。正直なところ、あんな目つきで凄まれでもしたら、裸足で逃げ出す自信がある。普段着でなければ剣を佩いていても何らおかしくはない。


「捜索の人手を増やすために騎士団からも人員を出すという話で、入団したばかりだった俺にも矢面がたったんだ。まったく、こんなことをするために転属したわけじゃないんだがな」


「転属? 兄ちゃん、他の騎士団にもいたことあるんか」


「王都騎士団に属していたんだ。知人の誘いがあって、今いるところに移ったのは……大体四ヶ月前の話だな」

 

 王都騎士団で実力をつけた者は、高い給金のもらえる私警団や貴族領の騎士団に引き抜かれることも多いと聞いたことがある。若く見える彼もそうだというのだから、あれは本当の話だったのだろう。逆に、地方の騎士団にいて、実力が抜きん出ている者は、王都騎士団の幹部職に栄転をすることもあると聞く。


「捜索ってえのは、そんなに大規模に行われてるのか。騎士さまも結構な人数が出てんのか?」


「俺以外に、王都に来ているのは七人だな。多くの地域で捜索にあたるために、小編成の捜索隊が各地に散っているんだ」


 なるほど、とイトは思った。つまり、この騎士は男爵領から道すがら捜索にあたっていたわけではなく、直接王都に来て任務に就いているらしい。これからどれくらいの期間その任務のために駐留するのか分からないが、どんな形であれ、いずれは一応の区切りをつけてまた男爵領に戻るのだろう。人捜しなど、かつての王都騎士団所属のエリート騎士がやるような仕事でないことは言うまでもない。騎士のタイミングの悪さとどうしようもない不運に、イトはまたもや同情した。


「んで、捜し人ってのはどんな奴なんだ? こう見えてリビングは色んな立場のもんが集まってくるし、ちと生臭い情報なんてのも流れ込んでくるんだぜ。イトちゃんは顔も広いしなぁ。協力できるかもしれんぞ」


 にやりと笑ったマルロイの言葉にちらりとイトを見上げた騎士に、小さくうなずいてみせる。一瞬ためらったように眉をひそめたが、すぐに彼は少し笑んで、そして口を開いた。


「あー悪いんだが、機密になっているんだ。協力してもらえたらこれほどありがたいことはないんだが、話すことは禁じられている。すまない」


「なんでえ、そうなんか。難儀なんだなあ」


 人を捜しているということは言ってもよかったのかとちらりと考えたが、きっとそれは、彼的にぎりぎりセーフラインなのだろうと思うことにした。緘口令といえるほどではないにしても、機密になっているということは、男爵家のメンツにでも関わることなのだろうか。

 まあどちらにしても、喫茶店の主人がわざわざつつく必要のある話ではないな、とイトは結論づけた。




◇ ◇ ◇




「――あら、マルロイさん。そろそろお時間です」


「おっと、いけねえいけねえ。じゃあ、またなイトちゃん。と、それから騎士の兄ちゃん。王都にいるうちに顔出せたらまたこいや」


 彼がうなずいたのを確認して、マルロイはお金を払うと店を小走りで出て行った。彼は工事現場の現場監督の仕事をしている。今は王都の北東に古くからある教会の建て直しをしているそうだ。マルロイが現場につく頃は、もう作業するには遅い時間なのでは、といぶかしむイトに、「監督ってえのは、最後にちょちょいっと見りゃあいいのよ」とは彼の言である。

 確かに、見るからに機動力に欠ける風貌の彼が第一線で働いたところで、結果は見えている気がする。若いころのマルロイを知らないイトは、彼のたるんだお腹を思い浮かべつつ、そんな失礼なことを考えた。

 

 賑々しい常連のおっちゃんがいなくなって、ふたりきりになったリビングに沈黙がおちる。もともとイトはそんなにおしゃべりな方ではなく、きっとそれは騎士も同じなのだろう。

 マルロイの席に並べられていた茶器をさげて洗っていると、ふと騎士に話しかけられた。


「この店は、ながいのか?」


「……いいえ。まだ始めてから一年と少しです。やっと常連さんが増えてきて、旅人さんの間でも少しずつ話題に出してもらえるようになってきました」


「口コミというわけか。確かに、この場所だと大口のお客さんというのは難しいだろうな。なんでまた、こんなところに?」


「喫茶店をひらくのが、小さい頃からの夢だったんです。小さくても、地域の人に愛されてて、ほっと安らげるような、そんなお店を」


 木造の小さな喫茶店は、外観にも内装にも、イトのこだわりがいっぱいに詰まっている。リビングは、住宅街に位置するために、いつでも周囲の街道は生活感がただよっている。そんな地域の感覚をこわさないよう、周知する規模はあえて広げず、モットーは、せまく、濃く。

 今のリビングのあり方は、まさにイトにとっての理想だった。


「なるほど。じゃあ、夢は叶ったわけだな」


「まだまだ、学ぶことや後悔ばかりで、全然ですけれどね。でも、夢に向かっている実感はあります」


 イトは昔からお茶や料理が好きだった。自分の作ったそれらを誰かにふるまって、そして相手が笑顔になってくれることが何よりも幸せだと感じる。

 イトの父は仕事にばかり打ち込み、家庭のことをおろそかにしがちだった。そのせいで、いつもどこか寂しげな母に、庭で栽培していたハーブを少々拝借して作ったハーブティーと、オレンジピールを入れたスコーンを作ってあげたのが、始まりだった。

 母は大変に喜んだ。ほがらかなティータイムの終わりに、ふっと何かを思い出すように遠くを見つめたかと思うと、いつか、お父さんにも作ってあげてね、と輝くような笑顔を見せたのだった。

 そのとき、たくさんの人のこんな笑顔が見られる場所をつくるというイトの夢が、芽生えたのだ。


 高等学校の最終学年で、ぼんやりと経営学でも学ぼうか、と大学進学を考えていた頃、母が病気で亡くなった。王都でも、何百人という死者を出し、イトの故郷でも流行りはじめていた感染病にかかったためだった。

 母の死は、悲しみを超えてイトの夢を後押しした。絆が希薄な家庭に育ったからこそ、イトの夢への思いは強く、より確かなものへとなっていった。


 それからたった数年で、こうして立派に喫茶店を経営できているのは、ひとえに運が良かったおかげだとイトは思っている。


 洗いものを終えて、手を拭きながら振り返ると、騎士がイトを静かに見つめていた。穏やかながらどこか鋭いその目つきに、彼は運がよかろうが悪かろうが、夢を自力で叶えるチカラを持っているタイプの人間なんだろうなとイトは思った。


「そういえば、お名前はなんというのですか?」


「キリルグ=フェイだ。君は、イトだったか?」


「ええ、そう呼んでください」


「……ということは、偽名なのか?」


「いいえ、本名の中にきちんとありますよ。……偽名なのかと言われて、素直に、はいそうです、という人はいないと思いますけど」


 それもそうだな、と言って騎士は笑った。時々、何が気になるんだか、本名を聞きだそうとしてしつこく食い下がってくる人もいるが、彼は名前にさほど興味がないらしい。確かに、イトというのは彼女の本名の一部から取った偽名ではあったが、イト本人はこの名前を気に入っていた。短くて覚えやすく、幼い子供でも発音もしやすい。



「……なあ、あのお守り、西の地方の伝統の人形だよな。王都でも買えるのか?」


 そう言って彼が指差した先には、壁にかけてある小枝を抱いたかたちの小さな人形があった。地の神への感謝をこめて、毎年初夏にその伝統の息づく地域の女性が作り、まつるもの。もちろんあれは、イトが作ったものだ。白地の布を人形のかたちに整えて綿を詰め、枝に毛糸を絡ませて作った緑色の着物を着せたその人形は、手を広げたくらいの大きさの小さなものだ。人形が完成したら、最後に胸の前に組まれた腕のあいだに、小枝を通す。これが、地の神への感謝を表している。


「わたしが作ったんです。あのお人形、形がすごく気に入っていて。王都では見かけたことないですね」


「へえ、あなたが。俺が今いるところでも、この間祭をやっていたよ。なかなか見ごたえがあった」


「結構有名ですからね。わたしも、幼い頃はよく舞ったものでした」


 地の神のもたらす恩恵にたいする感謝と、更なる豊穣を願ってたくさんの娘たちが舞う踊りは華やかで美しく、王都にもそのうわさが届くほどだ。舞の衣装は、娘とその母が一針一針縫うのが伝統で、毎年基調となる色が決められる以外は特に規定がない。ゆえに衣装のセンスは各家庭にゆだねられ、祭りの大きな魅力のひとつになっていた。


 今も、実家にはイトの舞衣装が残されているはずだ。


「……もしかして、あなたはゼクリア領の出身者か?」


 その問いに、イトはにっこりと微笑むことで答えた。お客さんとしてゼクリアに勤めている人がくるという思いがけないハプニングは、イトにとって喜ばしいものだった。彼が男爵領から来たという話を聴いたときから、本当はどことなく胸が高鳴っていたのだ。


「ゼクリアは変わりありませんか?」


「あなたがどの辺りにいたのか分からないからなんとも言えないが、とりあえず領主さまも元気だし、俺が知るかぎり、街も人も活気付いているな」


「……それを聞いて安心しました。こうしてこのお店でゼクリアのことを話せるなんて、なんだか不思議な気分です」


 イトの故郷は、王都の喧騒とはほど遠い、緑の豊かな土地だった。とはいえ、他の領地と王都を結ぶ大きな中間点となっているため、ゼクリアの商業は中々に活気溢れたものであった。農業技術の躍進は他の領地と比べても目を引くものがあり、ゼクリア産の農作物は王都でも人気のブランド品として名高い。


「故郷には、どれくらい戻っていないんだ?」


「あちらを出て以来、戻っていないんです。なんだか、タイミングを逃してしまって」


 母が亡くなってから、もともと遠かった父との距離はますます広がっていった。母の葬儀が済んだあと、やりたいことがあるから大学進学をやめる、と告げたイトに、父は無言でうなずいた。母の死は、想像以上に父にショックを与えていたようで、彼には娘の進路を親身になって一緒に考えられるほどの余裕が残っていなかったようだ。自分と決して向きあおうとしない父。夫婦の寝室にこもる時間が増えていくことに、ふとした瞬間にもらすため息の量が増えていることに気づいてから、イトは自分から父と距離をおいた。彼の衰えていく様子を間近で見ていることは、イトには耐えられなかった。


 故郷に帰っていないことを口にすると、キリルグはふと思案顔になった。


「王都での情報収集が終わったら、いったん報告に帰ることになっているんだが、よかったら一緒にくるか? 捜索隊の馬車にもぐりこませてやることもできる」


「……とてもありがたいお話ですけれど、遠慮しておきます。いつか縁があればまた戻る機会もありましょう」


「……そうか」




◇ ◇ ◇




 その後もキリルグは捜索の合間に暇ができればリビングを訪れた。なかなか気に入ってくれたようで、イトも喜ばしく思っている。

 毎度異なる顔ぶれの常連客と話し、彼はどんどんとリビングにうちとけていった。捜索は難航しているらしく、なかなか成果は芳しくないようだが、マルロイはそれはそれでキリルグのいる期間が延びるし悪くないと言ってのけた。彼の言は、リビングの常連客と、そしてイトが意識の底で感じていることと同じだった。



 ある雨の日、からんころん、と音を立てるベルに振り返ると、少しぬれた様子のキリルグが立っていた。その日、店内に一人だったイトは急いでタオルを取ってくると彼に手渡した。


「災難でしたね」


「まったくだ。突然降りだすとは思わなかった」


 そう言いながら服を拭いたキリルグは、終わったとばかりにお礼を言ってタオルを返してきた。イトは差しだされたタオルを手に取ると、彼に少し前かがみになるように言い、そして背後に回ってぬれた金に近い茶色の髪をぐしゃぐしゃとぬぐった。


「ぬれたままにしておくと、風邪ひいちゃいますよ。キリルグさん、さてはお風呂上りに髪は乾かさない派ですね?」


「……自然乾燥で十分だ」


「お身体が資本のお仕事をされてるんですから、気をつけたほうがいいと思いますよ。はい、おわり」


 ぽん、と頭をたたいてキリルグを立たせ、そのまま席に案内する。なぜか少し赤い顔をして、彼は素直に席についた。相変わらず注文はブラックコーヒーで、イトは慣れた手つきでコーヒーを挽き始める。


「本日の成果は、いかがでした?」


「うーん、どうにもならないな。第一、俺は入団したばかりだったから、かの人物の顔も知らないし、情報を得ようにも難しすぎるんだ」


 なかなか進展をみせない捜索活動に、彼は疲れを隠せないようだ。ぐっと腕を伸ばして椅子の上で伸びをして、ふっと身体の力をぬくと、うなだれるように頭を振った。


「あら、お会いしたことないんですね」


「ないさ。なんせもう行方不明になってから数年が経っているらしいからな」


「それじゃあ、仕方がないですね」


 カウンターにたちこめる豆の香りをすうっと吸い込むと、イトは小さく息を吐いた。


「他の捜索隊の方々の方も、あまり芳しくないのですか」


「……毎日会ってるが、全員もう諦めた顔つきだ。意欲的なのは、恐らくもう領主さまだけだろうさ」


 コーヒーをおとしている間、キリルグの方を見ると、彼も彼で、また最初の頃のようではなく、仕事だから仕方なくやっている、という諦めと疲れの入り混じった表情をしていた。わざわざ領地から王都まで上ってきて、これだけの期間終わりの見えない任務に就いて、あげくの果てにはこんな状況じゃ、それは疲れもするだろう。

 根っからの騎士である彼は、さぞやさっさと本来の職務に復帰したいことだろうと、改めてイトはキリルグに同情した。


「領主さまの、大切な方なんですか」


 その問いかけが、若干硬くなってしまったことに、イトは自分で気づいていた。どうか目の前にいる人が、その不自然さに気付かないようにと内心びくびくしながらうかがう。


「……娘さんだそうだ。高校を卒業して領地を出て以来、音信不通らしい」


 あれだけ機密だからと常連客にも詳細を語らなかったキリルグが、ついに重い口をひらいた。わたしなんかに知らせてもいいのか、と聞くべきか、イトは迷いつつ、ついにそのからかいは口にしなかった。


「行方不明になって数年と言ってましたよね。なんで、いまさら」


「分からない。だが、これは仲間が言っていたことなんだが、お嬢さまがいなくなった頃は、ちょうど奥方さまが亡くなられた頃と同時期だったらしい。領主さまは、そちらにかまけてて娘には手が回らなかったんじゃないか、と。それで結局こんなに時間が経ってしまった」


 できあがったブラックコーヒーに口をつけて、キリルグはそう言った。彼の予想は筋が通っていた。確かに、最愛の妻を亡くしてしまったら、娘の考えや進路なんてことまで考えている暇はなかっただろう。


「そういえば、あなたはいくつなんだ?」


「……お嬢さまとはひとつかふたつ、離れていたと思います」


「知っているのか?」


 こくりとうなずくと、彼ははっとしたように目を見開いた。そしてすぐに頭を抱えるようにして髪をぐしゃぐしゃとかき回し、まさかこんなに身近にヒントが、とうなり始めた。ゼクリアの領民だったのだから、領主一族の少々の事情など知っていて当たり前だというのに。彼はどうにも考えが至らないところがあるらしい。


「イト、小さなことでも構わない。教えてくれないか、リゼリート=ゼクリアのことを」


 久しぶりにきいたその名前に、すうっと意識が冴えるような気がした。なぜだか、手の先がふるえそうな冷たい予感が背筋を走る。


「……わたしが知っていることなんて、ゼクリアのほとんどの人が知っているような、一般的なことしかありませんよ?」


「構わない。なにせ俺は予備知識ほぼゼロの状態でここまできたからな。捜索隊の中でのやる気のなさはピカイチだったんだ」


 なぜか威張れないことで胸をはるキリルグに、少し圧倒されつつも、イトは訊かれた質問に答えていくような形で、領主の娘についての知識を話した。

 イトは、彼の思いつきの悪さに心底感謝していた。同時に、気づいてほしいという隠し切れない思いがあることを自覚しながらも、その感情が表にもれ出ないよう、必死に蓋をした。




◇ ◇ ◇



 最初の数ヶ月は、黙って出てきたことに対する罪悪感と、ぬぐいきれない将来への不安に押しつぶされそうだった。王都は、ちっぽけな自分なんて一瞬で消してしまえそうなほどに大きく、そして美しかった。

 母の死に顔に夢を誓い、わたしの決意を流した父の背中に、自立を誓った。

 様々な方法を試して、がむしゃらに夢を追った。そうして気づけばいつの間にかたくさんの人に支えられて、喫茶"リビング"を始めたときには、もう故郷を捨ててから数年の時が過ぎていた。

 王都では、時折父がわたしを探している気配を感じることがあった。彼のわがままにつき合わされている関係者の人々に申し訳なくも思った。でも、いつもその捜索は短期間で打ち切られたようだった。その期間の短さこそが、父の私への思いの深さなのだと思って、少しの悲しみと失望が、胸を刺した。


 今回はずいぶんと長引いているなと、わずかに焦りを感じた。キリルグとめぐり会えた僥倖に、気がつかれないように情報収集を行うと、はるか遠くの領地にいる父のその意図を読み取ることができた。

 いわく、ゼクリア領主は養子を取ったらしい。

 ゼクリア家には娘一人しか子供がいなかった。その娘も行方不明となった今、家を継げる者はおらず、後継者問題がいよいよ浮き彫りになって領主が相当焦っているのは明らかだった。 

 養子を迎えるにあたり、後腐れのないよう、過去のわだかまりを解消してしまいたい。

 屋敷を出た頃によく見ていた、執務室で深く腰掛けて眉をひそめた暗い顔をしていた父の姿が、脳裏に浮かんで、消えた。




◇ ◇ ◇

 



 店内の明かりを消そうとスイッチに手を伸ばした瞬間、店にからんころん、という音が響いた。

 驚いて振り向くと、そこにはうつむいた姿のキリルグが立っていた。めずらしいことに、彼は王都騎士団の隊服を身につけていて、しかも剣を佩いていた。


「あら、キリルグさん。ごめんなさい、今日はもう閉店の時間なんです。よろしかったらまた後日に……」


 言いながら表情の見えないキリルグにイトは近づいていった。

 すると、突然彼に腕をつかまれた。割と強い力で、思わず身がすくむ。


「あなただったんだな、イト」


「……え?」


「いや、リゼリート=ゼクリア嬢と呼んだほうが、ふさわしいのか」


 は、とイトは息を呑んだ。

 いずれは気づかれるであろうとは思っていたが、まさかこんな唐突にその瞬間が訪れるなんて思いもよらなかった。

 ドアについた小窓の奥に広がる闇を背に、高い位置から見下ろすキリルグの瞳は、明確に彼の苛立ちを伝えていた。イトはそんな彼の双眸から目をそらせず、一定時間停止していた。リビングの中に、カチコチという時計の音だけが響く。

 全く予想をしていなかったわけではなく、むしろここ最近はきたるこの瞬間のことだけを考えていた。どういう対応を取るのが、全員にとって最善なのか、ようやくイトなりの結論を見出したのは、ちょうど昨日の夜のことだった。

 だが、そのように用意した答えなど、いざ彼を目の前にしたらあっさりと散ってしまった。


「……お気づきになられたんですね」


「気づかれないとでも思っていたのか。いや……これまで思いつきもしなかったのは事実だが」


「いいえ。いつかは見抜かれると、思っていました」


 ふい、と目線をそらしてイトは店の床に目線をさまよわせた。そして、彼の軍靴に目がとまる。若者のファッションとは違う、実用的で固そうな外見。砂と泥で少し汚れたそれは、彼が本物の騎士であることを誇り高く証明していた。


「俺は、あなたを領主様の元へ送り届けなければならない。それが、俺の仕事だからな」


 イトはその言葉にこくり、とうなづいた。

 それを見てキリルグは、だが、と言葉を続けた。


「……その前に、少し訊きたいことがある。個人的にだ。だから、少し時間、いいか」


 たどたどしい問いかけに、思わずイトの顔から笑みがこぼれた。


「尋問するから、吐けって、命令しちゃえばいいのに」


「……一応、あなたは俺の雇い主の娘だからな。そんな不躾な態度はとれない」

 

 その言葉にくすりと笑ってキリルグを見上げると、彼もまた薄い笑みを浮かべていた。この間まではただの店主と客の関係だったというのに、騎士らしく忠義に厚い男だ。これだけラフに振る舞える関係になったというのに、このことで妙に距離をおかれたら嫌だなと思ったが、どうにも彼のそのニヒルな笑みを見る限り、そんなつもりは全くないらしいと分かって、イトはほっと息を吐いた。

 握られたままの腕を引き、カウンターへと案内した。逃げないから、と言ってキリルグの手をはずしてもらい、念のためドアに『CLOSE』の札を掲げておく。


「ブラックコーヒーでいいですか?」


「ああ、ありがとう」


 彼が来店したときと同じ動作を繰り返して、自分用には簡単に緑茶をいれる。振り返ると、あいかわらずにらんでいるんだか見つめているんだか判別しにくい目つきでこちらを眺めていた。


「どうして、本日は隊服をお召しなんですか? しかもそれ、王都騎士団のものですよね」


「お世話になった先輩の昇進祝いの席があってな。ゼクリアの隊服を着るわけにもいかないから、家に残ってたこれを着たんだ」


「なるほど。よくお似合いです。本当に騎士さまだったんですね」


「……疑っていたのか?」


「まさか! 騎士さまらしい力強さは普段からお見受けしてましたけど、今日その格好を見たら、確かな実感がわいたんです」


「……そうか」


 そう言って彼は黙りこんでしまった。今回の任務的に、騎士服を着ていた方がきっと聞き込みは楽だっただろうに、なぜいつもは旅人の装いをしていたのだろうか。

 それにしても似合っている。イトはまじまじとキリルグを見回した。


「うーん、王都騎士団の凱旋パレードとかに熱を上げるお嬢さん方の気持ちが、わかるような気がします」


「どういう意味だ」


「あこがれるくらい素敵だ、ってことですよ」


「……ありがとう」


 ぼそりとそう言って、キリルグは顔を少し赤らめた。意外とほめられるのに弱いのかもしれない。

 コーヒーをキリルグに出し、自分の緑茶も湯のみにそそいで口にする。イトはあまり緑茶以外の飲み物を好んで飲まない。香りをかげば、まぶたの裏にふっと実家の近所にひろがっていた茶畑の様子が浮かぶ。イトは故郷のお茶が大好きだった。 

 そうしてまた店内に静けさが戻った。どうやらキリルグは肝心な話を避けているらしい。今までの関係が壊れてしまうのを忌避してか、それとも彼が取らなければならない今後の労を憂いてのことか。どちらにしても、彼にとってこの事態は歓迎すべきことではなかったらしい。

 イトにはそれが不思議に感じられた。これまで、自分を探して彼やその他多くの捜索隊の人々にふりかかっていた苦労が、ここでようやく報われるというのに、なにを迷うというのか。イトにとっては確かにあまり歓迎できない事態ではあるが、いつかこうなることも予見していたし、何より自分自身のけじめのために、覚悟は決まっていた。


「訊かないんですか」


「……訊いてほしいのか?」


「もう、覚悟はできてますから」


「……そうか」


 端的にうながすと、彼はなぜかことさらにうなだれたような様子を見せた。

 カウンターにひじをつき、頭を抱えて大きなためいきをひとつ吐くと、キリルグは顔をあげて口を開いた。


「あなたは、嘘がうまいんだな」


「処世術に長けてると言ってください。これでも、もうずいぶんの間、ひとりで王都暮らしをやってきましたから」


「そうだな。見抜けという方が難しい」


 それはキリルグが平均よりも大分ぼんやりしているからではないか、と反論しかけて、しかし彼の鋭い目つきを見てやめた。こんな獰猛な外見をしていながらその内実はそれに伴わないなんて、そんな面白いことは自分だけが知っておきたいと思ったからだ。彼本人にすら教えるのも惜しい。


「おほめの言葉と受け取っておきます」


「……まあ、それでいいか。最初から、俺が誰を捜しているのかは気付いていたのか?」


「当たり前です。色々ありましたから、人捜しという言葉には少々敏感なんです」


「今まで、よく見つからなかったな」


「逆に、よくキリルグさんはここにたどり着きましたね」


「やる気がなかったからな。王都は半年前くらいに出たばかりだったし、特別訪れたいところもないしで、適当に路地を進んでいたんだ。そうして行き着いたのがここだった」


「……きっと、あなたはわたしを見つける運命だったんですね。そしてわたしは、あなたに見つけ出される運命だった」


「……なかなかロマンチストだな」


 運命なんて、チープな言葉だと思われたかもしれないが、イトは彼に会ってからずっとそう感じていた。きっと自分がここを出る日がそう遠くないうちに訪れる予感と、それをもたらすのはおそらくキリルグであろうという予感は、確信に近いものだった。

 イトは、口を開きはしたものの、なかなか本題に進もうとしないキリルグに焦れた。ここらへんが、彼の見た目に似合わず鈍くさいところだなと思う。


「訊きたいことって、そんなことなんですか?」


「……容赦ないな。これではどっちが捜してる方か分からないくらいだ。あなたは、見つかりたかったのか?」


「うーん、複雑なところですね。リビングを開く前だったら、いいえ、でした。でも今は、どちらでもありません」


 これがイトの正直なところだった。かたくなに見つからないようにと生活していた頃もあったし、実家からの自立というのには、必要な感情だったと思う。だが、リビングを開いたことで自立への道がより盤石なものになったときから、イトの考えは少し変わっていった。親と自分を切り離して一個人としてみなし、そうしてこれまで歩んできた人生を振り返ったとき、今まで抱いたことのない感情がふつふつとこみ上げるのを感じた。

 生きるために必要な金銭をかせぐということは、貴族の娘であったイトに大変な衝撃を与えた。

 父は、父なりに苦労していただろう。最愛の母が死に、彼の人生の支えになっていったものが崩れていく中で、娘であるイトも彼の手の届く範囲から逃げた。家族に対してのかかわりが希薄であった彼にも、確かに母とわたしへの愛情はあったはずだ。王都での生活の中で、イトはお金を得た人間の多くが汚く染まっていく様を、何度も目にしてきた。反対に、愛する者がいるからと、堅実に歩みを続ける者もいた。ならば、父は? 母とイトとの生活に、本当に思うところがなかったのだろうか。


「……父には、会わなければならないと感じています。会って、伝えたいこともありますし、なにより謝りたい、と」


「こういう形ではなく、自分から行こうとは思わなかったのか?」


「……素直な娘じゃありませんから」


 ふっとイトは笑った。キリルグは、これまでの会話に彼が望んでいた答えが聞けたようで、少しほっとした表情をしていた。目線をそらして、証明に照らされて透きとおったあわい栗色の前髪をひっぱって、もう一度深くためいきを吐く。そうして、またうなだれたように低くうなった。


「安心した。安心はしたが……これでは何に悩んでいたのか分からなくなるな」


「わたしは、父に会いたくないのだろうと心配してくださったんですね」


「普通そう思うだろう! あなたをよく知らないまま見つけていれば、何も考えずに連れ出すこともできただろうが、こうして知り合ってしまって、しかも――っ」


「……しかも?」


「な、なんでもない! 気にするな」


「……そう言われる方が、気になりますけど」


 ぶんぶんと顔の前で手を振る彼の姿は、まるで言い訳をする子供のようで、なんだかおかしかった。変なの、と呟いて、イトはぐいっと緑茶を飲みほし、もう一杯そそぐ。彼もまたためいきを吐いて、そして口元を隠すようにコーヒーを口にした。


「全く……はあ、あついあつい」


「あら、熱すぎましたか?」


「いや、コーヒーのことじゃなくて。もう、とにかく気にしないでくれ」


 ふい、と目線をそらした彼の横顔を見つめる。コーヒーの熱さからか、耳の先っぽが少し赤みがかっていた。今まで気付かなかったが、猫舌さんだったのかもしれない。


「心配してくださって、ありがとうございます。わたし、キリルグさんに見つけ出してもらえてよかったです」


「……なぜだ」


「あなたになら、素直に心の内を話せるみたいです。なぜだかは、よくわからないんですけれど」


「……そういうことは、あまり口に出して言わない方がいいと思うぞ」


「あら、こんなことを言ったのは初めてですよ?」


「だからっ……もういい」


 ついに、キリルグはカウンターに突っ伏してしまった。もしかして酔っ払ってるのかと思い、お祝いの席で呑んできたのか尋ねると、ここに来るから酒類には一切口をつけなかった、という回答が返ってきた。

 イトは、手の届く距離にある栗色のかたまりを見つめて、この正面にはあの鋭い目がついているなんて想像ができないと思った。存外やわらかそうな髪には、彼のどこか抜けているキャラクターが感じられた。綺麗な髪ですね、とほめると、小さな声であなたには負ける、と返ってくる。


「これから、どうするんです?」


 イトとしては、リビングのことはどうとでもなるので、できればさっさと帰郷してことを済ませてしまいたいところだった。父にあったところで、今までの生活が大きく変化する可能性については、イトはほぼないだろうと思っていた。もうこの歳になって父が自分を引き止めることは考え難いし、前回のようにゴリ押して消えることを匂わせれば、父も王都での自立を認めざるおえないだろうという、打算があるからだ。王都に来て、イトは雑草のようなタフさを身につけていた。

 イトの言葉に、ゆっくりと顔を上げたキリルグは、うかがうようにイトを見つめた。どうしたいんだ、と問いかけてくる。


「わたしは、みなさんに従いたいと思います。わたしのせいで、たくさん迷惑をかけてしまいましたから、せめて最後だけでも労をかけずにスムーズに任務が終わるようにと」


「リビングのことは?」


「どうとでもなりますよ。わたし一人だけで切り盛りしてきましたし、常連さんたちもわたしの奔放さにはよく理解を示してくださってますし。また、戻ってこれさえすれば、それでいいんです」


「……領主さまは、あなたをもう王都に帰すつもりはないのでは?」


「そちらはどうにかしてみせますから、ご心配なく」


 そうして、イトはにっこりと笑ってみせた。その、父にゆすりをかける小悪魔的な娘の姿がちらりとのぞく笑みに、キリルグはそっと腕をさすった。


「……本当に、いいんだな?」


 キリルグの確認の言葉に、イトは深くうなずいた。




◇ ◇ ◇




 その日、行方不明となっていたゼクリア領主オルト=ゼクリア男爵の一人娘であるリゼリート=ゼクリアが、王都にて捜索隊に見つけ出され、領地に帰って来たという報せが、セグリア領内を駆けめぐった。

 その行方不明期間ゆえ、リゼリート嬢はもう亡くなったのだと考えていた者も多く、その報せは容易には領民に受け容れられなかった。領主さまは、ついに愛妻と愛娘を喪った悲しみから、狂ってしまったのだと、領地の終わりを嘆く声まで聞かれた。


 だが、連日にわたって、リゼリート嬢と領主の再会の様子や会話の様子が報じられるにつれ、領民たちも、リゼリート嬢の帰還はもしかしたら真実なのではないか、と考えを改めはじめた。そうなってくると、一部は奔放すぎた男爵令嬢のふるまいに、常識はずれだと非難する声を上げたが、大半の領民はその幸せな再会を祝った。


 新しく男爵家に迎えられた養子の男の子ともリゼリート嬢は仲良くやっているということだった。領民はリゼリート嬢とその義理の弟と、どちらが次期領主になるのかという話題にわいた。年頃になって戻ってきたのだから、やはりリゼリート嬢であると話す者は、かつてのリゼリート嬢の凛々しい姿や、領民に分け隔てなく接していた心優しさを語った。一方で、こんな時期にわざわざ養子として迎え入れられた男子が、次期領主の座に何の関係もないわけがないと、ゼクリア家の新しい家族に期待を寄せる者もまた多くいた。

 どちらも推す声が多く、その結論は男爵家から何らかの情報が出るまで分からないという曖昧な意見が多数となった頃、その議論の決着は、ある日領民に広まった意外な噂からついた。


 いわく、リゼリート=ゼクリアは王都に帰るらしい。


 リゼリート嬢がゼクリア領に帰還してから、およそ三ヶ月。決して短くはない時間に、ようやくゼクリア家の娘の存在がまた領民に認知されつつあった頃の、突然の報せだった。領民からは、なぜだ、という声と、やはり、という声の二つがもれた。リゼリート嬢は王都で好きな男でも見つけて、あちらに家庭でもあるんだろうと最初から考えていた者も少なくなかった。彼らの予想は軒並みはずれていたが、それを知る者はこの領地に、たった数人しかいなかった。

 非難の声は上がったが、彼女の幸せを祝う声はやがて大きなものになり、それが後押しとなって、ついにリゼリート=ゼクリアは帰郷から三ヶ月と二日目に、王都へと帰っていった。




◇ ◇ ◇




「なあ、イトちゃん、聞いたか」


 唐突に尋ねられて、思わずりんごの皮を剥いていた手を止める。頭をシャキリとさせるよう新鮮なりんごの香りはイトの大好きなもののひとつだ。この時期に採れるりんごは、まだ旬の季節ではないからか、少し青い。それがまたイトは好きだった。


「何をです?」


「あの一年くらい前にここによく来てた騎士の兄ちゃん、覚えてるかよ?」


「……ええ。彼が何か?」


 訊くとマルロイは、カウンターから身を乗り出してこちらを見た。相も変わらず騒がしくて、年齢に似合わず、噂好きで少年のように茶目っ気のある瞳を持つ彼は、なんだか時折可愛らしい。おじさま好きな女の子にとっては格好の餌食になりそうだ。


「来季からの王都騎士団の新編成が発表されたんだがよ、そこの第二騎士団の副団長補佐んとこに名前が載ってたんだ。栄転だよ栄転! あの兄ちゃんが!」


 マルロイの語った内容に驚いて、イトは目を見開いた。栄転、とは。ゼクリア領滞在中に騎士団を見学したときは、その実力に驚いたものだが、まさかそこまでだったなんて。


「すごいですね。彼が……」


 王都へ戻ることが決まって、出立の前夜、いよいよお別れだと告げた自分に、彼が返した言葉をイトは思い出した。


 ――俺も、必ず王都へ帰る。元々、その為にここへ来ていたんだ。だから……また王都で会うときまで、忘れないでくれ。


 喫茶店の店主と客としてではなく、主の娘とその護衛として彼と過ごした期間は、彼女の心もまた変えていた。父や弟と別れることよりも、彼と別れることの方が辛く感じられた。胸に走る痛みをこらえながら、ぼんやりとイトはこれからのことを考えた。意地っぱりな自分は、なかなか寂しくなったからと素直に故郷に帰ることができないのもわかっていたし、そうなると、彼とはもう会えるかどうかも怪しい。自分で決めたこととはいえ、切なく思うなという方が、難しい話だった。


 最後くらい素直に言おうと思って、ためらいながらも、いつまででも待っていると伝えると、そっと抱きしめられた。強がりな彼女でも泣けるようにという配慮だったのだろう。彼の温かい腕の中で、少しだけ、イトは泣いた。



「もし、ここにまた来てくれたら……みなさんでお祝いしなくてはなりませんね」


 そう言って、イトは満面の笑みを浮かべた。



◇ ◇ ◇


 

 王都の片隅に存在する、喫茶"リビング"。そこは、若い女主人がたった一人で切り盛りするちいさな喫茶店である。

 そこには、少しの常連客と、酔狂な旅人たち、そして最近では、目つきが鋭くてがたいのいい一人の若者がよく出入りしている。



 おわり



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