黒猫は魔女
女はざらついた紙をなでて、うっとりと息を吐いた。
粗悪な紙面に佇むのは、肩につく黒髪の鮮やかな男。
彼女がずっと愛する男。
「結婚しようかな」
「はあ!? 誰と!!」
紙の中ではなく、女と同じソファの上に居た男が飛び起きる。
こちらも黒髪の男だが、まだどこか少年らしさを残した若者だ。
ほんの一瞬前まで女の膝の上で寝ていた彼は、細い肩を両手で掴んで女にずずいと詰め寄った。
「ねぇ、ちょっと。誰? 誰と!?」
前後に揺すられる女は、痛いやら可笑しいやらでなかなか答えない。
必死な彼が、近場に住む男達の名をぶつぶつ呟き始めた頃、ようやっと女はいつもの余裕を纏って、いつもの嫌味ったらしい笑い方を取り戻した。
薄肌色に塗られた長い爪でゆっくりと男の首元を指し示し、これまたもったいぶって唇を開く。
「あんた」
「うそ!」
即答である。
「失礼ね。私はウソなんてつかないわよ」
きょとん、と目を見開く男に一頻り笑って、それから軽く小突いてやると、男は急に真面目くさった顔になる。
「いまの笑うとこだった?」
「全然」
「だって、僕、君の歳も知らないし」
「320歳ぐらいだって言ってるでしょ。これもう17回目よ」
「これは17回思ってるんだけどさ、その歳が君には妙にしっくりくるんだよね」
「どういう意味かしら」
「いや、別に年寄りっぽいとかじゃなくて」
「ふうん?」
女の片眉が好戦的に上がる。
「違う違う、今のは違うから!」
女が機嫌を損ねた風に聞き返せば、男はすぐに両手を振って言い直す。
その様が愛らしいからと、彼女がわざと不機嫌な声を出すのはわかっている。わかっているが、女の思惑通りに動いてしまう。
男の方にも、彼女の拗ねた表情が見たいと言うくだらない動機があるから。
「それで、する?」
「結婚?」
「結婚」
男は容量少な目と自負する脳をぐるぐる回して考える。
結婚は、したい。
寧ろいつかするつもりだった。
――でも、僕達はまだキスもしてないじゃないか!
突如現れた自称320歳の女。
猫みたいに勝手気ままに――それはもう、彼女を知る者なら誰でも首をぶんぶん縦に振るほどに――振る舞うくせに、時々信じられないほど人を優しく甘やかす。
男は彼女に夢中で、良いように遊ばれるのすら幸せでたまらない。
けれど彼女ときたら、いつも薄っぺらい紙を見ては悩ましく息を吐いているものだから、男はまずあの忌々しい紙を燃やす機会を窺っているところだった。
ちなみに今、二人が出会って1年ほど。つまるところ、男は1年近くもその機会を窺い続けているわけで。
「そうだ、そいつ! そいつは結局誰なんだよ!」
もはや薄ボケて、描かれた者も掠れた紙を男は仇のように睨み付ける。
ああ、不快だ! と、言わずとも聞こえそうな表情。
「君は日に三度、恐ろしい目でそいつを眺めているんだぞ。あんな風に見られた男は、君を好きにする権利があると勘違いしたって誰も責められない。そういう目で、君はその男を見てるんだ!」
「へえ」
「へえじゃない!」
「うーん、やっぱり信じられない。人って変わるのね」
「……もう少しさ、僕にもわかるように話してくれないかな。じゃなくて、質問に答えてよ。その男は、誰」
にやり、その表現が相応しい笑みを浮かべた女の、細い指がぴんと伸ばされた。爪先が男の首に少し食い込む。
男の背を何かとんでもないものが這い上がったような気がした。
「あんたよ」
「そいつ、どうみたって僕より年上じゃないか。それにほら、背丈だって、体つきも、あと、あとは」
女の口を塞げと、男の本能が言ってるような、言ってないような。しどろもどろになった男は、添えられた指に促されるまま顎を上げる。
「私ね、あんたに惚れて、来ちゃった」
「……どこに」
「300年くらい先の未来」
――端数設定は難しくて、ずれちゃったんだけどね。まあ、若いのも可愛いかったから良いんだけど
またもやよくわからない女の呟きにしかし男は答えられず妙に上がった顎のまま視線をふらふらさ迷わせる。それがひどい間抜け面だと気付いて、女の細められた眸をちらりと見れば、そこには至極楽し気な色が光っていた。
だから悔しくて、男は叫んでいた。
「うそだ!」
「またそうやって――」
どうせまた困らせることを言うと踏んで、男は片手で女の口を覆ってしまう。
やはりと言うべきか、女は抵抗せずに殊更愉快だと笑っているものだから、男は意気込んで口を開いた。
「君って大嘘つきで、嫌味ったらしくて、人をからかってばかりで、まるで魔女だ。魔女にこれ以上好き勝手やられたらたまらないからね、僕が責任もってやる」
女を見ると『つまり?』と憎たらしく促す甘い声が聞こえた気がした。
「つまり、僕と結婚してく――わあっ! 舐めるなよ!」
男が素早く掌を女から遠ざけると、猫の様な女は猫の様に男の膝へするりとのぼる。
「舐めてないわよキスしただけ。ねえ、じゃあ私の可愛い旦那様に、良いこと教えてあげる」
「いい、遠慮する」
わざとらしいしかめっ面をしながらも、男は女の腰をぐいと引き寄せて、気紛れな彼女が自分の上から逃げないようにする。
子供を甘やかすように膝を貸してくれることはあっても、こんな親密な恋人らしい雰囲気は初めてだと、だらしない顔で小躍りしたいのを必死に抑え込んだ。
少しだけ高い位置になった小さな顔が男に迫り――期待を裏切って唇を素通りし、赤い耳元に寄る。
どうせろくな事じゃないぞと覚悟を決めた男に、やはりろくでもない事が告げられた。
「私、魔女なの」
「――!」
反論の叫び声が出るよりも早く塞がれた唇は、男が数秒後にソファから高く浮かび上がっている自分達の身体に気付いたことで、ひどい絶叫をあげることになる。
自称320歳の魔女が、嘘か真かわからない昔話をして男を困らせるのは、今から半日ほど先の話。




