43話 最高のコンサート
季節は巡り、ルミナス川のほとりに柔らかな春の風が吹き抜ける頃。
かつて荒地となりかけたその場所は、今やウェストリア王国で最も愛される文化の聖地となっていた。
「水上音楽堂」。
白大理石のステージは、増水した川の水位に合わせて上下する魔導浮力装置によって支えられ、常に水面と一体化している。
なだらかな緑の斜面には、色とりどりの花が植えられ、休日ともなれば多くの市民がピクニックシートを広げて音楽を楽しむ憩いの場となっていた。
平和で、穏やかな午後。
しかし、その楽屋裏では、表の牧歌的な風景とは裏腹に、今日もまた熾烈な戦いが繰り広げられようとしていた。
「……ちょっと、ライラ! その無骨な重箱は何なのよ?」
シュタインハイム公爵令嬢ミアが、扇子を閉じて詰め寄った。
彼女の視線の先には、王宮騎士団長のライラがいる。
ライラは非番の私服姿だが、手には風呂敷に包まれた巨大な四角い物体を抱えていた。
「何って……差し入れの弁当だが?」
ライラは気まずそうに視線を逸らした。
「最近、カナデが痩せた気がしてな。精のつくものを食べさせようと、早起きして作ったのだ。……中身は、猪肉の香草焼きと、オークの巨大ステーキだ」
「はあ? 朝からそんな重いものを食べさせようなんて、正気? 演奏前に胃もたれしちゃうじゃない!」
ミアは呆れたように息を吐き、従僕に目配せをした。
「カナデに必要なのは、洗練された糖分よ。私が用意した、王都で評判のパティスリーの特製マカロンこそ相応しいのよ」
「甘いものばかりでは身体が作れんぞ。騎士団の訓練メニューを見習え」
「ここは兵舎じゃないっつーの!」
火花を散らす二人。
その横で、ソフィア・ツー・ロイスが我関せずといった様子でピアノの鍵盤を叩いている。
彼女は今日も寝癖のついた髪を無造作に束ね、譜面に没頭していた。
「……うるさいわね。インスピレーションが逃げるじゃない」
ソフィアは眼鏡の位置を直し、独り言のように呟く。
「カナデの唇は、私の新曲を吹くためにあるのよ。食事なんて二の次でいいわ」
ある意味、一番過激な発言だった。
そんな騒がしい楽屋の扉が、控えめに開かれた。
現れたのは、金髪の可憐な少女。
マリー・ツー・エスターライヒ王女だ。
彼女は護衛のハインリヒ王子を背後に従え、満面の笑みで室内に飛び込んできた。
(先生!)
接触テレパスの声が、その場にいないはずの音瀬奏を探して響き渡る……わけはないが、彼女の表情だけでその声が聞こえてくるようだ。
マリーはキョロキョロと周囲を見回し、まだ奏が到着していないことを知ると、残念そうに眉を下げた。
「やあ、皆。相変わらず賑やかだね」
ハインリヒが苦笑しながら挨拶する。
「マリーがどうしてもリハーサルから見たいと言うものでね。公務を早めに切り上げてきたよ」
「あら、殿下まで。……本当に、カナデは罪作りな男ですわね」
コンサートミストレスのアメリが、呆れたように肩をすくめた。
彼女は楽団の制服を着崩し、手慣れた様子でバイオリンの弓に松脂を塗っている。
「で、その主役はどこなの? 開演まであと一時間もないわよ」
アメリの言葉に、全員が顔を見合わせた。
その時。
川の方から、軽やかなフルートの音色が風に乗って聞こえてきた。
§
奏は、ステージの裏手にある桟橋に座り、足を水に浸していた。
隣には、シマリスのチップと猫のトラ。
そして、水面には水鳥のスイが優雅に泳いでいる。
ゲルマン伯爵の事件から、季節は巡り、一年が経とうとしていた。
伯爵は失脚し、今は辺境の修道院で幽閉生活を送っているという。
王宮騎士団とシュタインハイム家の尽力により、建設局の腐敗も一掃され、ルミナス川周辺の環境は完全に守られた。
奏はフルートを膝に置き、空を見上げた。
青い空。白い雲。
日本にいた頃には気づかなかった、世界の色鮮やかさ。
あの日、飛行機事故で命を落とし、この世界に迷い込んだ時は、まさかこんな穏やかな日々が訪れるとは思いもしなかった。
「……平和だね、チップ」
奏が呟くと、チップは同意するように「キュゥ」と鳴き、奏の肩に頬擦りをした。
音楽教師としての仕事も順調だ。
マリーの腕前はメキメキと上達し、今では簡単な二重奏なら初見で合わせられるようになった。
宮廷楽団とも良好な関係を築き、定期的に「特別講師」として指導に当たっている。
全てが順調すぎるほどだった。
ただ一つ、心残りがあるとすれば。
「……元気にしてるかな」
奏の脳裏に、旅立ったライバルの顔が浮かんだ。
ベン・フォン・ホフマン。
あの日、「お前を超える」と言い残して去った彼からの連絡は、まだない。
風の噂では、異国の楽団で武者修行をしているとか、吟遊詩人になって各地を放浪しているとか聞くけれど。
「……感傷に浸るにしても、場所を選んだらどうだ?」
不意に、背後から聞き覚えのある声がした。
奏は弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、ボロボロのコートを纏い、しかし以前よりもずっと精悍な顔つきをした青年だった。
背中には、使い込まれたリュックと、大切に包まれた楽器ケース。
「……ベン!」
奏は立ち上がり、桟橋を駆け寄った。
ベンは照れくさそうに鼻を鳴らし、片手を上げた。
「よう。……近くまで来たから、寄ってやったぞ」
「帰ってきたんだね!」
「勘違いするな。一時帰国だ。……この場所が、あの時より少しはマシな音を鳴らしてるか、確かめに来てやっただけだ」
相変わらずの憎まれ口。
だが、その瞳には、かつてのような濁った嫉妬の色はない。
あるのは、自信と、そして再会を喜ぶ純粋な光だけ。
ベンは完成した音楽堂を眩しそうに見上げた。
「……随分と立派になったもんだな。あの夜、瓦礫の山にならなくて本当に良かったよ」
「うん。……君のおかげだよ、ベン」
「フン、よせ。……それより、どうだ? 世界は広かったぞ」
ベンがニヤリと笑う。
「広くて、深くて……面白い音で溢れていた。お前のフルートなんて、井の中の蛙だと思い知るくらいにな」
「それは楽しみだ。……聴かせてくれるんだろう? お土産話を」
奏がフルートを掲げると、ベンもまた、背中のケースを解いた。
中から現れたのは、あの夜と同じ、銀メッキのフルート。
だが、その輝きは以前よりも深みを増しているように見えた。
「ああ。……たっぷりと教えてやるよ」
§
開演時間。
三千人の観客で埋め尽くされた水上音楽堂。
その熱気は、最高潮に達していた。
ステージ中央に、奏、ソフィア、アメリ、そしてサプライズゲストとして紹介されたベンが並ぶ。
客席最前列では、ライラ、マリー、ミア、そしてルドルフ公爵が見守っている。
奏が一歩前に出た。
「今日は、この素晴らしい日に集まってくれてありがとう。……最高の仲間たちと、最高の音楽を届けます」
奏が合図を送る。
ソフィアのピアノが、軽やかに跳ねた。
曲は、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。
本来は弦楽合奏曲だが、今日は特別アレンジだ。
ピアノが土台を作り、アメリのバイオリンが主旋律を歌う。
そして、二本のフルートが翼を広げるように重なった。
「……っ!」
最初のワンフレーズで、アメリが、そして客席の耳の肥えた聴衆が息を呑んだ。
ベンの音が、劇的に変わっていたからだ。
かつての彼の音は、正確無比だが冷たく、硝子細工のように脆かった。
だが、今の音は違う。
土の匂いがした。
風の味がした。
異国の砂漠を歩き、嵐の海を渡り、孤独な夜を越えてきた旅人の歌。
あえて少し掠れさせた音色や、感情をぶつけるような激しいヴィブラート。
技術的な完璧さを捨て、泥臭く、人間臭い「生命の鼓動」を刻んでいた。
それは、聴く者の胸を熱く揺さぶる、魂の叫びだった。
(すごい……これが、ベンの新しい音……!)
奏は心の中で叫んだ。
ベンは本当に、自分の殻を破ったのだ。
だが、そこで終わる奏ではない。
ベンの熱く、激しい「地」の音色に対し、奏は「天」の音色で応えた。
透き通るような、どこまでも純粋な高音。
ベンの音が大地を駆ける野獣なら、奏の音はそれを優しく包み込み、空へと導く聖なる風だ。
奏のフルートが、ベンの激しい旋律に寄り添い、絡み合い、そして軽やかに追い越していく。
どんなにベンが感情を爆発させても、奏の音は決して濁らない。
むしろ、その激しさを吸収し、より輝きを増して浄化してしまう。
それは圧倒的な「器」の差であり、音楽としての次元の違いを見せつけるものだった。
ベンがニヤリと笑い、さらにテンポを上げる。
挑発的なアドリブ。
だが、奏は涼しい顔で、それ以上の超絶技巧で即答する。
速い。
見えないはずの指の動きが、音の粒となって空間を埋め尽くす。
二人のフルートが螺旋を描きながら上昇していく。
競い合っているようで、実は一つの巨大な生命体のように呼吸を合わせている。
客席のマリーが、胸の前で手を組み、涙を浮かべている。
(ベンさんの音は、強くて、寂しくて……でも、先生の音がそれを抱きしめてる。……二人の音が、会話してる)
ライラは腕を組み、満足げに頷いていた。
「……フン。悪くない。あの小僧、少しは男の顔になったようだな」
ミアは扇子を揺らし、誇らしげに胸を張る。
「当然よ。私が見込んだ音楽家たちですもの。……ま、その二人を従えてる私が一番凄いけどね!」
クライマックス。
ベンの力強い低音と、奏の突き抜けるような高音が完全に溶け合った。
光と影。
大地と空。
相反する二つの要素が、奇跡的なバランスで融合し、ルミナス川の水面を震わせた。
最後の和音が響き渡り、空に消えていく。
一瞬の静寂。
その直後、水上音楽堂は爆発のような歓声に包まれた。
スタンディングオベーション。
奏とベンは肩で息をしながら顔を見合わせ、満面の笑みで拳を突き合わせ……ることはせず、互いに「ふん」と鼻を鳴らしてから、ガシッと固い握手を交わした。
§
終演後のバックステージ。
興奮冷めやらぬまま、打ち上げのような騒ぎになっていた。
「さあ、カナデ! 私の弁当を食え! 今こそタンパク質が必要だ!」
ライラが重箱の蓋を開け、巨大な肉の塊を奏の口にねじ込もうとする。
「だから重いっつーの! カナデ、こっちのマカロンにしなさい! ローズヒップティーも淹れたんだから!」
ミアが対抗して、色鮮やかな菓子を差し出す。
「はいはい、どっちも邪魔。……カナデ、今の演奏で新しいアイデアが降りてきたの。今すぐ私の部屋に来て。朝まで譜面の整理を手伝いなさい」
ソフィアが奏の腕を強引に引っ張る。
(先生ーっ! 私も! 私も混ぜてください! 接触テレパスで感想戦をしましょう!)
マリーがハインリヒの手を振りほどき、奏の背中に飛びついてくる。
「わ、わわっ……みんな、落ち着いて!」
奏は四方八方からの愛の猛攻に、目を回していた。
その様子を、ベンとアメリが少し離れた場所から眺めていた。
「……相変わらずだな、あいつは」
ベンが呆れたようにビールを煽る。
「ええ。でも、だからこそ皆が集まるのよ。……貴方も含めてね」
アメリがニヤリと笑うと、ベンは顔を赤くしてそっぽを向いた。
「僕はただの通りすがりだ。……またすぐに発つさ」
「そう? でも、楽団長席……空けてあるわよ?」
「……フン。気が向いたらな」
ベンは満更でもない顔で鼻を鳴らした。
奏を中心とした、騒がしくも温かい輪。
ライラが肉を勧め、ミアが文句を言い、ソフィアが音楽理論を捲し立て、マリーが無言で抱きつき続ける。
奏は困ったように笑いながらも、その表情は幸せそうだった。
音楽と、動物と、そして個性豊かな仲間たちに囲まれた、この騒がしくも温かい場所。
この賑やかな時間こそが、奏がこの世界で見つけた、かけがえのない宝物なのだから。
空には満天の星。
川面には、音楽堂の明かりが揺れている。
今日という日は終わるけれど、明日もまた、新しい音楽がここから生まれるだろう。
奏は夜空を見上げ、フルートを握りしめた。
終わらない休日と、止まらない音楽と共に。
彼の新しい日常は、これからもずっと続いていく。
――Fin.




