42話 陰謀の終焉
その夜、ルミナス川は星空を映す巨大な鏡と化していた。
シュタインハイム公爵の財力と、ソフィア・ツー・ロイスの狂気的な芸術性、そして多くの職人たちの熱意によって完成した「水上音楽堂」。
川面に浮かぶ円形のステージは、磨き上げられた白大理石で作られ、月光を受けて真珠のように煌めいている。
なだらかな緑の斜面を利用した客席は、すでに満員の人々で埋め尽くされていた。
王侯貴族から一般市民まで、身分の垣根を超えた三千人の観衆。
最前列の特等席には、ハインリヒ王子にエスコートされたマリー王女の姿もある。
さらにその隣には、満足げに髭を撫でるルドルフ公爵と、扇子で口元を隠しながらも興奮を隠しきれないミア。
誰もが、この新しい文化の殿堂の誕生を祝い、これから始まる奇跡の演奏を待ちわびていた。
舞台袖。
音瀬奏は、愛用の黒いフルートを握りしめ、静かに深呼吸をしていた。
足元には、正装(蝶ネクタイ)をしたシマリスのチップと、リボンをつけた猫のトラがいる。
彼らもまた、この晴れ舞台の共演者だ。
「……行くわよ、カナデ」
隣に立つソフィアが、眼鏡の位置を直しながら言った。
彼女も今日は、いつものボサボサ髪を綺麗にセットし、深紅のドレスに身を包んでいる。
その瞳は、戦場に向かう戦士のように鋭く、そして熱い。
「ええ。……最高の夜にしましょう」
奏は頷き、光溢れるステージへと歩き出した。
§
一方その頃。
会場全体を見渡せる丘の上のVIP席。
そこには、異様な空気を纏う一人の男がいた。
サン・ツー・ゲルマン伯爵である。
彼は上等なワイングラスを片手に、眼下の華やかな光景を冷ややかな目で見下ろしていた。
「……ふん。浮かれおって」
伯爵の唇が、三日月形に歪む。
「楽しむがいい。それが貴様らにとって、人生最期の宴になるのだからな」
彼の手元には、小さな魔導装置が置かれている。
遠隔起爆スイッチだ。
ステージの基礎部分、そして客席の四方に仕掛けられた『爆砕石』は、このスイッチ一つで連鎖的に起爆する。
タイミングは、演奏が最高潮に達した瞬間。
熱狂的な拍手を、断末魔の悲鳴に変えてやる。
シュタインハイム公爵の誇る音楽堂も、あのアマチュア演奏家どもも、王族もろとも瓦礫の山となるのだ。
それは、失墜した自らの権威を「恐怖」によって再定義するための、あまりにも身勝手で残忍な儀式だった。
「さあ、始めようか……。破壊という名の交響曲を」
伯爵は狂気に満ちた瞳で、ステージ上の奏を見つめた。
§
ステージ上。
万雷の拍手の中、奏とソフィアが一礼する。
静寂が訪れる。
川のせせらぎと、夜風が木々を揺らす音だけが響く。
ソフィアがピアノに手を置いた。
最初の一音が、水面に波紋を広げるように響き渡る。
曲は、ヘンデルの『水上の音楽』――ではなく、この日のためにソフィアが書き下ろした新曲『ルミナスの夜明け』。
ピアノの分散和音が、きらめく川面の光を描写する。
その上を滑るように、奏のフルートが入ってきた。
透き通るような高音。
それは、夜明け前の静けさを切り裂く一筋の光のようだった。
黒いフルートが魔力を帯び、奏の息遣いに呼応して淡い光を放ち始める。
音が、見える。
観客たちは息を呑んだ。
フルートから溢れ出した旋律が、金色の粒子となって空中に舞い上がり、川面を渡る風と戯れるように螺旋を描いていく。
優しく、温かく、そしてどこまでも自由な音色。
それは、傷ついた大地を癒やし、人々の心に眠る「希望」を呼び覚ます魔法の呼び声だった。
マリーが胸の前で手を組み、うっとりと奏を見つめている。
(先生の音……。温かい。光のシャワーみたい)
彼女の心の声が、会場中の人々の感情とリンクしていく。
ソフィアのピアノが、激しさを増す。
穏やかな川の流れが、やがて大河となり、荒れ狂う海へと注ぐような劇的な展開。
奏のフルートがそれに呼応し、鳥のさえずりのようなトリルから、嵐を突き抜けるような力強いロングトーンへと変化する。
二つの才能がぶつかり合い、溶け合い、昇華していく。
圧倒的な音の奔流が、会場全体を包み込んでいた。
もはや、誰も言葉を発することすらできない。
ただ、その奇跡のような瞬間に魂を奪われていた。
盛り上がりが頂点に達しようとした、その時だった。
丘の上のVIP席で、ゲルマン伯爵が立ち上がった。
「……今だ! 消えろ、虫ケラども!!」
伯爵は狂喜の笑みを浮かべ、魔導装置のスイッチを親指で押し込んだ。
カチリ。
乾いた音が響く。
――しかし。
何も起きなかった。
爆発音も、悲鳴も、崩落するステージも。
あるのは、さらに輝きを増し、天へと駆け上がっていく美しき音楽だけ。
「……な、なんだ?」
伯爵は呆然とし、何度もスイッチを連打した。
「なぜだ! なぜ爆発しない!? 故障か!? ええい、動け! 動けぇ!」
バンバンと装置を叩く。
その背後で、冷ややかな声がした。
「無駄だ。……その回路は、すでに断たれている」
伯爵が弾かれたように振り返る。
VIP席の入り口に、一人の女騎士が立っていた。
燃えるような赤髪。王宮騎士団長の鎧。
ライラ・フォン・ベルンシュタインだ。
彼女の背後には、抜刀した精鋭騎士たちが控えている。
「き、貴様……ベルンシュタイン! なぜここに!?」
「貴様の企みなど、全てお見通しだということだ」
ライラは静かに歩み寄る。
「爆砕石は全て回収させてもらった。……ずいぶんと大量に仕掛けたものだな。回収作業にあたった工兵部隊が泣いていたぞ」
「ば、馬鹿な……! 計画を知っていたのは、私と腹心の部下だけ……」
伯爵は後ずさりし、背後の手すりにぶつかった。
「まさか、裏切り者が……?」
「さあな。だが、正義を愛する勇気ある者がいた、とだけ言っておこう」
ライラは剣を抜き放ち、切っ先を伯爵に向けた。
「サン・ツー・ゲルマン。国家転覆罪、および大量殺人未遂の容疑で拘束する。……観念しろ」
「ひっ、ひぃぃぃ!」
伯爵の顔色が土色に変わる。
だが、腐っても大貴族。往生際は悪かった。
「や、やれ! 殺せ! こいつらを皆殺しにしろ!」
伯爵が叫ぶと、影に潜んでいた私兵団――黒装束の暗殺者たちが一斉に飛び出した。
短剣や毒針が、ライラたちに襲いかかる。
しかし。
「――我ら騎士団の剣技、とくと味わうがいい!」
ライラが一喝する。
その剣閃は、雷光の如く速かった。
襲いかかる暗殺者の短剣を弾き飛ばし、返しの刃で鎧の隙間を突く。
部下の騎士たちも精鋭揃いだ。
狭いVIP席での乱戦。
金属音が響くが、ステージ上の大音量の演奏がすべてをかき消していく。
フルートの高音が、剣劇の音さえも旋律の一部であるかのように取り込み、よりドラマチックに響き渡る。
観客は誰も、頭上で繰り広げられている死闘に気づかない。
ただ、音楽の女神が微笑んでいることだけを感じていた。
「逃がすか!」
混乱に乗じて逃げ出そうとした伯爵の前に、小さな影が立ちはだかった。
シマリスのチップだ。
さらに、天井の梁から数羽のフクロウが舞い降り、伯爵の顔を目掛けて急降下する。
「うわぁぁっ! な、なんだこの獣どもは!?」
伯爵が腕を振り回して怯んだ隙に、ライラが肉薄した。
ガィィィン!
ライラの剣の腹が、伯爵の鳩尾に深々と叩き込まれる。
「ぐふぅっ……!」
伯爵は白目を剥き、崩れ落ちた。
手から滑り落ちたワイングラスが、床で砕け散る。
それは、彼の栄光と野望が、粉々に砕け散った音でもあった。
「……確保」
ライラが短く告げると、騎士たちが伯爵を縛り上げ、猿ぐつわを噛ませた。
暗殺者たちも全員制圧された。
鮮やかな手際だった。
ライラは乱れた髪をかき上げ、眼下のステージを見下ろした。
そこでは、ちょうど曲が真のクライマックスを迎えようとしていた。
ソフィアが全身全霊で鍵盤を叩き、重厚な和音を響かせる。
奏は天を仰ぎ、身体中の息を全て音に変えて解き放つ。
その音は、もはや楽器の枠を超えていた。
一筋の光の柱となり、夜空へと突き抜けていく。
会場を包む光の粒子が、雪のように降り注ぐ。
それは、このルミナス川に、そしてウェストリア王国に、本当の平和が訪れたことを告げる祝福の光景だった。
最後の一音が消え入るように響き、完全な静寂が訪れる。
数秒の後。
爆発のような歓声が、夜空を震わせた。
§
熱狂の輪の外側。
会場の隅にある木陰に、一人の青年が佇んでいた。
ベン・フォン・ホフマンだ。
彼は粗末な旅人の服を身にまとい、荷物を詰めたリュックを背負っていた。
手には、あの黄金のフルートケースはない。
代わりに、安物の、しかし手入れの行き届いた銀メッキのフルートが握られていた。
彼はじっと、連行されていく伯爵の姿を見ていた。
布を被せられ、裏口から護送車に押し込まれるかつての権力者。
その惨めな姿を見ても、ベンの心には同情も、後悔も湧かなかった。
あるのは、不思議なほどの清々しさだけだ。
「……さよなら、叔父上」
ベンは小さく呟いた。
それは、血塗られた家系との、そして「権力に寄生していた自分」との決別だった。
彼はもう一度、輝くステージを見た。
光の中に立つ奏とソフィア。
そして、客席で笑顔を見せるアメリや楽団員たち。
その輪の中に入りたいという思いが、胸を締め付ける。
だが、今の自分にはその資格はない。
叔父の悪事に加担し、音楽を汚そうとした罪は消えない。
一からやり直すのだ。
名前も、地位も捨てて。
ただの一人のフルート吹きとして。
ベンは踵を返し、闇の中へと歩き出した。
「――どこへ行くつもり?」
不意に、声をかけられた。
ベンが足を止める。
振り返ると、そこには息を切らした奏が立っていた。
ステージ衣装のまま、ここまで走ってきたのだろう。
「……奏」
「逃げるのか、ベン」
奏の言葉に、ベンは苦笑した。
「逃げる? まさか。……修行の旅に出るだけさ」
ベンはリュックのベルトを握りしめた。
「僕は一度、音楽を捨てかけた。……だから、もう一度拾い集めるんだ。世界中を回って、いろんな音を聴いて……いつか、お前を超える『本物の音楽』を見つけるために」
それは、かつての傲慢な彼からは想像もできない、真摯な言葉だった。
奏は、真っ直ぐにベンを見つめた。
「……そっか」
奏は右手を差し出した。
「待ってるよ。……また、一緒に吹こう」
ベンはその手をじっと見つめ、やがて力強く握り返した。
「ああ。……次は絶対に負けない」
二人は、男同士の短い、しかし固い約束を交わした。
ベンは背を向け、手を振りながら去っていった。
その背中は、以前よりもずっと大きく、そして自由に見えた。
遠くから、アンコールを求める手拍子が聞こえてくる。
奏は、友の旅立ちを見送ると、再び光の待つステージへと駆け出した。




