41話 矜持と裏切り
ルミナス川のほとりに、新しい伝説が生まれようとしていた。
シュタインハイム公爵による電撃的な土地買収と、計画の変更から数週間。
かつてカジノ建設のために無残に掘り返された河原は、今や芸術の揺りかごへと姿を変えつつあった。
「水上音楽堂」建設プロジェクト。
川の水をせき止めるのではなく、流れそのものを舞台装置として取り入れる。
客席はなぎらかな緑の斜面を利用し、ステージは水面に浮かぶように設計された。
公爵の潤沢な資金と、ソフィアの芸術的なアイデア、そしてミアの美的センスが融合し、工事は驚異的なスピードで進んでいた。
現場には、ハンマーの音に混じって、作業員たちの活気ある掛け声が響く。
かつての殺伐とした空気は微塵もない。
音瀬奏は、その様子をいつもの木陰から見守っていた。
膝の上にはシマリスのチップ。足元には猫のトラ。
動物たちも戻ってきて、作業員たちと適度な距離感で共存し始めている。
「順調そうだな」
背後から声をかけられ、奏は振り返った。
王宮騎士団長のライラだ。今日も非番を利用して(あるいは仕事をサボって)見回りに来ているらしい。
「はい。このペースなら、来月のこけら落とし公演に間に合いそうです」
「うむ。……だが、油断は禁物だ」
ライラの表情が引き締まる。
「表立った妨害工作は減ったが、不審者の目撃情報は絶えない。ゲルマン伯爵が、このまま大人しく引き下がるとは思えん」
その言葉通り、現場では時折、資材が盗まれたり、ボヤ騒ぎが起きたりしていた。
その都度、動物たちのネットワークと騎士団の連携で大事には至らなかったが、不穏な空気は常に漂っていた。
奏は建設中のステージを見つめた。
多くの人々の想いが詰まったこの場所を、絶対に守り抜かなければならない。
§
その頃。
王都の一等地にあるゲルマン伯爵邸。
その地下室には、重苦しい空気が充満していた。
「……順調、だと?」
サン・ツー・ゲルマン伯爵の声が、低く唸るように響いた。
目の前には、数人の男たちが縮こまっている。裏社会の人間たちだ。
「は、はい……。騎士団の警備が厳重でして……手出しができません」
「言い訳は聞きたくない!」
伯爵がワイングラスを床に叩きつけた。
赤い液体が、まるで血のように絨毯に広がる。
伯爵の顔は、怒りと焦燥で歪んでいた。
カジノ計画の頓挫により、彼は莫大な負債を抱えた。
公爵が肩代わりしたとはいえ、それは「借金をチャラにされた」という屈辱であり、政敵に弱みを握られたに等しい。
さらに、宮廷内での求心力も低下し、彼に残された道は、破滅か、あるいは――。
「ええい、もういい! 小手先の嫌がらせなど不要だ!」
伯爵は机の引き出しから、どす黒い光を放つ鉱石を取り出した。
『爆砕石』。
魔力を込めれば、小規模な要塞すら吹き飛ばす威力を持つ、軍事用の違法魔石だ。
「こけら落とし公演の当日……奴らが最高潮に達した瞬間に、ステージごと吹き飛ばしてやる」
男たちが息を呑む。
「し、しかし伯爵。それでは大勢の死傷者が……王族の方々も招かれるのでは?」
「知ったことか! 事故だ、不幸な事故として処理すればいい!」
伯爵の目は、狂気に満ちていた。
「私の権威をコケにした報いだ。……シュタインハイムの小娘も、あの忌々しいフルート吹きも、まとめて瓦礫の下に埋めてやる」
その会話を、扉の外で聞いている人物がいた。
ベン・フォン・ホフマンだ。
彼は顔面蒼白になり、震える手で口元を押さえていた。
叔父が腐っていることは知っていた。
権力欲の塊であることも、汚い手を使うことも。
だが、まさかここまでとは。
これはもう、政治闘争ではない。
ただの大量虐殺だ。
ベンは音を立てないように後ずさりし、屋敷の廊下を早足で歩いた。
自室に入り、鍵をかける。
心臓が早鐘を打っていた。
黄金のフルートケースが、机の上に置かれている。
叔父に買い与えられた、最高級の楽器。
だが、今のベンには、それがまるで呪いのアイテムのように見えた。
「……ふざけるな」
ベンは呟いた。
コンクールの日。
あの敗北の日。
奏の『天の踊り子』を聴いて、彼は初めて自分の小ささを知った。
そして、誓ったはずだ。
次は実力で勝つと。
叔父の力を借りるのではなく、自分の音楽で、あの男を超えてみせると。
それなのに。
ステージごと吹き飛ばす? 演奏家ごと殺す?
それは、音楽への冒涜だ。
奏への、そして何より、自分自身の「音楽家としての矜持」への裏切りだ。
ベンは震える拳を握りしめた。
もし、このまま黙っていれば、自分は共犯者になる。
だが、叔父を告発すれば、自分もただでは済まない。
ホフマン家は破滅し、路頭に迷うことになるだろう。
怖い。
権力を失うことが。後ろ盾をなくすことが。
でも。
ベンは脳裏に浮かべた。
あの時、握手に応じた奏の手の温もりを。
そして、自分に向けられた、アメリや楽団員たちの、少しだけ温かくなった視線を。
「……くそっ、あいつのせいだ」
ベンは涙目で悪態をついた。
「あいつのせいで……僕は、まともな音楽家になっちまったじゃないか!」
ベンは決意を固め、部屋を飛び出した。
§
その日の深夜。
ルミナス川の工事現場は、静寂に包まれていた。
警備の騎士たちが巡回しているが、その隙間を縫うように、一つの人影が現れた。
フードを目深に被った男だ。
男は、完成間近のステージを見つめ、立ち尽くしていた。
「……誰だ」
暗闇から、奏が声をかけた。
今日はなんとなく寝付けず、トラと一緒に夜風に当たっていたのだ。
男が肩を震わせ、ゆっくりとフードを外した。
月明かりに照らされたその顔は、ベン・フォン・ホフマンだった。
「……ベン?」
奏は驚いて駆け寄ろうとした。
だが、ベンは「来るな!」と鋭い声で制した。
「……馴れ合いに来たんじゃない」
ベンの声は、ひどく掠れていた。
彼は懐から、封蝋された一通の封筒を取り出し、奏の足元に投げ捨てた。
「拾え」
「これは?」
「……『爆砕石』の設置計画図だ」
「えっ……」
奏が目を見開く。
「明後日の夜、資材搬入に紛れて、ステージの基礎部分に仕掛けるつもりらしい。……こけら落としの最中に、遠隔操作で起爆させる計画だ」
奏は背筋が凍るのを感じた。
もしそれが実行されれば、ステージ上の奏たちはもちろん、客席のマリーや公爵、多くの観客が犠牲になる。
「どうして、これを僕に?」
奏が訊ねると、ベンは顔を背け、悔しそうに唇を噛んだ。
「勘違いするな。……お前を助けたいわけじゃない」
彼はギリギリと拳を握りしめた。
「僕は、お前をステージの上で叩き潰したいんだ。完膚なきまでに、実力でねじ伏せて、僕の方が上だと証明したいんだ!」
それは、魂の叫びだった。
「なのに……爆弾で吹き飛ばして勝ちました、なんて……そんなの、音楽じゃない! ただの殺戮だ! そんな勝ち方で、僕が満足するとでも思ってるのか!」
ベンは叫び、肩で息をした。
その目には、涙が溜まっていた。
恐怖と、怒りと、そして音楽への純粋な情熱。
奏は、足元の封筒を拾い上げ、深く頭を下げた。
「ありがとう、ベン」
「……礼なんて言うな。気持ち悪い」
ベンは袖で乱暴に顔を拭った。
「それがあれば、騎士団も動けるはずだ。……叔父上は、もう終わりだ」
それは、ベン自身が「ゲルマン伯爵の甥」という地位を捨てることを意味していた。
全てを失う覚悟の、内部告発。
奏は真っ直ぐにベンを見つめた。
「君は、最高の音楽家だよ」
「……ふん」
ベンは鼻を鳴らした。
「当たり前だ。僕を誰だと思ってる」
彼は踵を返し、闇の中へと去ろうとした。
「待って、ベン!」
奏が呼び止める。
「こけら落とし公演……君も、出てくれないか?」
ベンの足が止まる。
「ソフィアの曲は、ピアノとフルートだけじゃない。もっと厚みのあるアンサンブルが必要なんだ。……君のフルートが必要なんだよ」
ベンは背中を向けたまま、しばらく沈黙していた。
やがて、小さく呟いた。
「……僕のギャラは高いぞ」
「公爵に頼んでおくよ」
「……ふん。考えておいてやる」
ベンは一度も振り返ることなく、夜の街へと消えていった。
その背中は、以前よりもずっと大きく、そして孤独に見えた。
§
翌朝。
奏から証拠を受け取ったライラは、即座に行動を開始した。
騎士団の詰め所で、彼女は封筒の中身――屋敷の地下金庫からベンが持ち出したであろう、爆破計画のメモと、爆砕石の入手ルートが記された帳簿――を確認し、机を拳で叩いた。
「……決まりだ」
ライラの瞳に、猛禽類のような鋭い光が宿る。
「これだけの証拠があれば、令状は取れる。いや、緊急事態として即時拘束が可能だ」
彼女は部下たちに号令をかけた。
「総員、武装せよ! ターゲットはサン・ツー・ゲルマン伯爵およびその私兵団!」
「はっ!」
騎士たちの野太い声が響く。
「罪状は国家転覆罪、および大量殺人未遂! ……腐った貴族の腹を、切り裂いてやるぞ!」
ライラは剣を佩き、奏に向き直った。
「カナデ。お前は音楽堂の準備を進めてくれ。……この件は、我々騎士団が責任を持って処理する」
「お願いします、ライラさん」
奏は深く頷いた。
「そして……ベンのことも」
「分かっている」
ライラは優しく微笑んだ。
「彼の勇気ある行動は、必ず情状酌量の材料にする。……彼もまた、騎士道精神を持った男だったということだ」
ライラ率いる騎士団が、王都の朝霧の中を出撃していく。
決戦の時は近い。
水上音楽堂のこけら落とし公演。
それは、単なるコンサートではない。
ゲルマン伯爵という長きにわたる呪縛を断ち切り、新しい時代を告げるための、戦いの舞台となるのだ。




