39話 公爵の対案
絶望は、重低音と共にやってくる。
夜が明け、太陽が昇ると同時に、ルミナス川のほとりには再び魔導重機の駆動音が響き渡っていた。
音瀬奏は、ほとんど眠れぬままその光景を見つめていた。
膝の上には、疲れ果てて眠るシマリスのチップ。
足元には、猫のトラやウサギのミミが身を寄せ合っている。
昨日の抵抗――フルートによる演奏は、確かに作業員たちを一時は怯ませた。
だが、所詮は一時しのぎだ。
今日はさらに増員された警備員たちが、耳栓をして厳重な警戒態勢を敷いている。
「おい、そこの貧乏人! まだいたのか!」
現場監督が、嘲るような笑みを浮かべて近づいてきた。
その後ろには、鉄パイプを持った荒くれ者たちが控えている。
「ここはもう私有地だ。不法侵入で騎士団に突き出してもいいんだぞ?」
「……ここは、みんなの場所です」
奏は立ち上がり、毅然と言い返した。
声は震えていたかもしれない。けれど、退くわけにはいかない。
「ハッ! 綺麗事は聞き飽きたぜ。金だよ、金! 世の中、金を持ってる奴が正義なんだよ!」
監督が合図を送ると、重機が唸りを上げて動き出した。
巨大なシャベルが、奏たちの思い出が詰まった木々をなぎ倒そうと迫る。
万事休す。
奏が目を閉じ、チップを抱きしめた、その時だった。
「――お待ちなさい!!」
工事現場の騒音を切り裂く、凛とした少女の声が響き渡った。
全員の動きが止まる。
視線を向けた先、土手の上に一台の豪奢な馬車が停まっていた。
漆塗りのボディに、金の装飾。
扉には、王家の紋章にも劣らぬ威光を放つ「双頭の鷲と百合」――シュタインハイム公爵家の紋章が輝いている。
従僕が恭しく扉を開けると、そこから一人の少女が降り立った。
豪奢なドレスに身を包み、扇子を優雅に構えた金髪の少女。
ミア・フォン・シュタインハイムだ。
「な、なんだあのガキは……?」
作業員たちがざわめく中、ミアは泥だらけの地面をものともせず、堂々と歩み寄ってきた。
その背後から、もう一人。
威圧感の塊のような長身の男が現れた。
黒いロングコートに、シルクハット。
手にはステッキ。
整えられた口髭と、鋭い眼光。
シュタインハイム公爵、ルドルフその人である。
「公爵閣下……!」
駆けつけたライラやソフィアも、その姿を見て息を呑んだ。
この国の影の支配者とも噂される大貴族が、まさかこんな工事現場に自ら足を運ぶとは。
「……ここか、ミア」
ルドルフ公爵は、戦場のように荒らされた河原を見回し、不快そうに鼻に皺を寄せた。
「お前が『魂の洗濯場』と呼んでいた場所は」
「はい、お父様。……昨日までは、もっと美しく、静かな場所でしたわ」
ミアが悔しげに唇を噛み、父親を見上げた。
「私の楽園を汚した無礼者たちに、相応の報いが必要ですわね?」
「うむ。……シュタインハイム家の品位に関わる問題だ」
公爵は重々しく頷き、現場監督へと視線を向けた。
ただそれだけで、監督の身体が蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
「あ、あんだあんたは! 部外者は……」
「控えなさい」
公爵が一言発すると、周囲の空気が凍りついたような圧力が生まれた。
これが、本物の貴族が持つ覇気だ。
「私はルドルフ・フォン・シュタインハイム。……貴様らの雇い主であるゲルマン伯爵に、用があって参った」
「シュ、シュタインハイム公爵ゥ!?」
監督が裏返った声を上げ、腰を抜かした。
役人たちが慌てて飛び出してきて、平身低頭して揉み手をする。
「こ、これはこれは公爵閣下! このようなむさ苦しい場所に、どのようなご用件で……」
「単刀直入に言おう」
公爵は懐から小切手帳を取り出し、さらさらとペンを走らせた。
そして、その一枚を役人の顔の前に突きつけた。
「この土地を、買い取る」
「は……?」
役人は目を白黒させた。
そこに書かれている金額を見た瞬間、彼の目が飛び出さんばかりに見開かれた。
「い、いち、十、百……!? お、億単位!?」
「ここで行われている『リゾート開発計画』とやら。その全権と、土地の所有権、さらにゲルマン伯爵がこの事業のために借り入れた負債。……それら全てを、私が肩代わりしよう」
公爵は涼しい顔で言い放った。
「な、何を仰いますか! これは国家事業で……すでに建設局の認可も……」
「認可? ああ、あの紙切れのことか」
公爵はステッキで、現場に掲げられた看板をコツンと叩いた。
「建設局長官は、私の古い友人でね。……昨夜、少し話をさせてもらったよ。『環境アセスメントの不備が見つかったため、一時凍結せざるを得ない』とな」
「そ、そんな……!」
役人の顔色が土色に変わる。
これが、政治力だ。
ライラたち騎士団が正面からぶつかって跳ね返された壁を、公爵は電話一本(あるいは夜会の立ち話一つ)で軽々と突き崩したのだ。
「ゲルマン伯爵には伝えておけ。『これ以上の恥の上塗りはよせ。手切れ金代わりに負債をチャラにしてやるから、大人しく手を引け』とな」
公爵は小切手を役人の胸ポケットにねじ込んだ。
「さあ、用が済んだなら早々に立ち去れ。……私の庭に、下品な騒音は不要だ」
役人と監督は顔を見合わせ、次の瞬間には蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
作業員たちも、公爵家の紋章が入った馬車の列(いつの間にか増援が来ていた)を見て、恐れをなして撤収を始めた。
重機の音が止まる。
怒号が消える。
河原に、静寂が戻ってきた。
§
「……す、すごい」
一部始終を見ていた奏は、開いた口が塞がらなかった。
これが、最上位貴族の力。
ゲルマン伯爵の「金と権力」を、さらに強大な「金と権力」でねじ伏せたのだ。
「ふん。……安っぽい仕事だ」
公爵はハンカチで手を拭きながら、奏の方へと歩み寄ってきた。
奏は慌てて姿勢を正す。
「あの……ありがとうございます、公爵様。おかげで助かりました」
「礼には及ばん。……これは娘との取引だ」
公爵は、隣で胸を張っているミアを見た。
「この子が、屋敷で毎晩のように私を説得してな。『お父様、今こそシュタインハイムの力を見せつける時ですわ』とな」
「もう、お父様! 余計なことは言わなくていいですのよ!」
ミアが顔を赤くしてプンプン怒るが、その表情はどこか嬉しそうだ。
「でも、凄かったでしょう? 私のお父様にかかれば、あんな小悪党なんてイチコロよ!」
ミアは勝ち誇ったように扇子を開き、高らかに笑った。
公爵はそんな娘を愛おしそうに見つめ、それから荒らされた大地へと視線を移し、深いため息をついた。
「しかし、ひどい有様だ。……これでは、元の姿に戻すには時間がかかるぞ」
「ええ……」
奏も視線を落とした。
工事は止まったが、掘り返された地面や、なぎ倒された木々は戻らない。
自然の回復力に任せるには、傷が深すぎた。
「ねえ、パパ」
ミアが公爵の袖を引いた。
「ただ元に戻すだけじゃ、また同じことの繰り返しにならないかしら? 別の誰かが、また開発しようとするかもしれないわ」
「ふむ。確かに、この土地が『未開発の荒地』である限り、常に開発の圧力には晒されるだろうな」
「だったら……」
ミアは扇子を口元に当て、瞳を輝かせた。
「誰も手出しができないくらい、素晴らしいものを作ってしまえばいいのよ」
「素晴らしいもの?」
「ええ。自然を壊すんじゃなくて、自然と調和した……そう、奏の音楽のような場所を」
その言葉に、ソフィアが反応した。
「それ、いいわね。……ただの公園じゃつまらないわ。もっとこう、芸術的な……」
ソフィアは地面に落ちていた木の枝を拾い、土の上にサラサラと絵を描き始めた。
「川の水をそのまま引き込んで……ステージは水の上に浮かべるの。客席は、このなだらかな斜面を利用して……」
「水上……音楽堂?」
奏が呟くと、全員の視線が集まった。
「そう、それよ! 水上音楽堂!」
ミアが手を叩いた。
「カジノなんて下品なものじゃない。鳥の声と、川の音と、楽器の音が溶け合う、世界で一番美しいコンサートホール!」
その場の全員が、その光景を想像した。
夕暮れのルミナス川。
水面に浮かぶステージで、奏がフルートを吹く。
その周りを水鳥たちが泳ぎ、岸辺では動物たちと人々が思い思いに音楽を楽しむ。
「……面白い」
ルドルフ公爵が、ニヤリと笑った。
「『自然保護区』という名目では弱いが、『王立文化施設』として整備すれば、法的な保護も手厚くなる。……それに、私の娘と、私が認めた音楽家が演奏する場所だ。半端なものは作らせんぞ」
公爵の中で、商談モードから「親バカ&パトロン」モードへとスイッチが切り替わったようだ。
「ライラ君」
「は、はいっ!」
突然名を呼ばれ、ライラが直立不動になる。
「君たち騎士団には、引き続きこの場所の警備を依頼したい。……無論、正規の報酬を支払う」
「えっ……い、いえ! 我々はボランティアで……」
「シュタインハイム家が、タダ働きなどさせるものか。……受け取れ」
公爵は有無を言わせぬ迫力で言った。
ライラは恐縮しつつも、「……ありがたく、部下の夜食代にさせていただきます」と頭を下げた。
「カナデ、あんたはどう思う?」
ソフィアが、描きかけの図面を指差して訊ねてきた。
「あんたの家が、コンサートホールになるのよ。……静かな生活は、少し騒がしくなるかもしれないけど」
奏は、足元のチップを見下ろした。
チップは安心したのか、奏の靴の上で丸くなっている。
遠くの茂みからは、逃げていた他の動物たちも、恐る恐る戻ってきているのが見えた。
元の静寂な森には戻らないかもしれない。
でも、人と動物、そして音楽が共存できる新しい場所。
それは、奏がこの世界で本当に作りたかったものかもしれない。
「……うん。素敵だと思う」
奏は微笑んだ。
「作ろう。僕たちの、新しい音楽堂を」
§
その日の夕方。
荒れ果てた工事現場跡に、希望の灯火がともった。
公爵が手配した専門の造園技師たちが到着し、測量がやり直されることになったのだ。
今度は、木を切るためではなく、木を活かすための測量だ。
奏たちは、川辺に並んで座り、夕日を眺めていた。
「まったく、パパったら張り切りすぎよ」
ミアが呆れたように言うが、その顔は嬉しそうだ。
「でも、これで一安心ね。……ゲルマン伯爵も、これで諦めてくれればいいんだけど」
ライラが少し懸念を含んだ声で言う。
確かに、あの執念深い伯爵が、これだけで引き下がるとは思えない。
公爵に面子を潰されたことで、逆恨みはより深まるだろう。
だが、今は。
この勝利と、新しい夢の始まりを祝おう。
「一曲、やろうか」
奏がフルートを取り出す。
ソフィアが持参した鍵盤ハーモニカを構え、ミアが喉を整える。
響くのは、エルガーの『愛の挨拶』。
優しく、温かく、すべてを包み込むような旋律が、傷ついた大地を癒やすように広がっていく。
その音色は、風に乗って王宮の塔――マリーの元へも届いているだろうか。
そして、遠く離れた街の片隅で、自分の無力さに唇を噛んでいるであろう、かつてのライバル――ベンの耳にも。
戦いはまだ終わらない。
しかし、彼らは大きな一歩を踏み出した。
失われた聖域は、より強固な「約束の地」へと生まれ変わろうとしていた。




