38話 失われた聖域
翌朝、音瀬奏がルミナス川へ向かうと、そこには昨日とは比較にならない絶望的な光景が広がっていた。
昨日までは、まだ杭が打たれているだけだった。
しかし、一夜明けた今、奏たちが愛した「聖域」は、完全に蹂躙されていた。
川辺への入り口には、鉄条網が張り巡らされ、立ち入り禁止の看板が掲げられている。
その向こう側では、巨大な魔導重機が黒い排気ガスを撒き散らしながら、美しい芝生を無残に掘り返していた。
木々はなぎ倒され、積み上げられた建設資材が、バリケードのように視界を遮っている。
耳を劈くような掘削音。
怒号。
金属と金属がぶつかり合う不快な音。
かつて、小鳥のさえずりと川のせせらぎが支配していた癒やしの空間は、いまや暴力的な騒音に支配された工事現場へと変わり果てていた。
「……あぁ」
奏の口から、乾いた音が漏れた。
足が震える。
ここは、僕たちの家だ。
チップやトラ、ミミたちが暮らし、ライラが安らぎ、ミアやソフィアと音楽を紡いだ場所だ。
それが、土足で踏みにじられ、汚されている。
鉄条網の向こう、かつて奏たちが演奏していた大きな切り株があった場所には、いまや簡易的なプレハブ小屋が建てられていた。
その屋根には、ゲルマン伯爵家の紋章が入った旗が、勝ち誇ったように翻っている。
「……引き下がれ、と言っている!」
怒声が聞こえた。
ライラだ。
彼女は今日も騎士団を率いて現場に乗り込んでいた。
だが、その背中には、昨日までの覇気がない。
彼女の目の前には、現場監督だけでなく、数人の役人が立っていた。
彼らは一様に冷ややかな目でライラを見下し、手にした書類を盾にしていた。
「騎士団長殿。これは建設局長官、ひいては財務大臣の認可を受けた国家事業ですぞ」
恰幅の良い役人が、慇懃無礼な口調で告げる。
「貴殿の行いは、正当な行政執行に対する妨害行為に当たります。これ以上続けるなら、騎士団の職権乱用として上に報告せざるを得ませんな」
「貴様……! ここは自然保護区に隣接しているのだぞ! 環境への影響調査もなしに、こんな乱暴な工事が許されると思っているのか!」
「調査? ああ、それなら済んでいますよ。……書類上はね」
役人は薄ら笑いを浮かべた。
全てはゲルマン伯爵の手回しだ。
金と権力で、必要な手続きは全て「完了」したことにされている。
腐敗した官僚機構の壁が、ライラの正義を跳ね返していた。
「くっ……!」
ライラが拳を震わせる。
剣を抜けば、その瞬間に彼女の負けだ。
騎士団長という立場が、彼女の手足を縛り付けている。
奏は駆け寄ろうとしたが、鉄条網の前で屈強な警備員に阻まれた。
「ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ」
「退いてください! あそこには、まだ動物たちが……!」
「知ったことか。害獣なら駆除対象だ」
警備員が警棒で奏を突き飛ばす。
尻餅をついた奏の目の前に、泥だらけになった一枚の羽根が落ちてきた。
水鳥のスイの羽根だ。
その瞬間、奏の心の中で何かが折れる音がした。
無力だ。
音楽コンクールで優勝しても、王族と知り合いになっても。
巨大な権力と、理不尽なシステムの暴力の前では、一人の音楽家など無力な存在でしかない。
§
結局、その日も工事は止まらなかった。
日没と共に作業員たちが引き上げると、そこには無残に破壊された河原だけが残された。
奏たちは、少し離れた森の入り口で、身を寄せ合っていた。
そこへ、ガサガサと草むらが揺れる音がした。
「……チップ?」
奏が声をかけると、茂みの中からシマリスのチップが顔を出した。
だが、その姿は痛々しかった。
自慢の尻尾は煤で汚れ、身体は小刻みに震えている。
彼だけではない。
茶トラ猫のトラも、ウサギのミミも、皆、怯えきった様子で集まってきた。
住処を追われ、逃げ惑っていたのだろう。
奏は涙をこらえ、チップを掌に乗せた。
冷たい。
いつもなら温かい体温が、恐怖で冷え切っている。
(怖いよ……カナデ。大きな音がして、地面が揺れて……お家がなくなっちゃった)
奏の脳内に、チップの悲痛な声が響く。
「ごめん……。ごめんね、守ってあげられなくて」
奏はチップを頬に押し当て、謝り続けた。
ミアが、トラを抱きしめて泣いている。
ソフィアも、唇を噛み締めてミミの背中を撫でていた。
ライラは、木に拳を打ち付けた。
硬い音がして、樹皮がめくれる。
「……私のせいだ」
彼女は絞り出すような声で言った。
「私がもっと早く、伯爵の動きを察知していれば。……法的な不備を突く準備をしていれば。騎士団の力など、何の役にも立たない」
「ライラさんのせいじゃありません」
奏は首を横に振った。
「相手が汚い手を使っているだけです。……でも、このままじゃ」
このままでは、カジノが建設され、ここは欲望の街に変えられてしまう。
動物たちの居場所は永遠に失われ、静寂な音楽も二度と戻らない。
「……諦めるものですか」
沈黙を破ったのは、ソフィアだった。
彼女は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、破壊された河原を睨みつけた。
「私のパートナーが、あんな下品な工事現場で泣き寝入りなんて、許さないわ。……音楽家には音楽家の戦い方があるはずよ」
「……ええ、そうね」
ミアが涙を拭い、顔を上げた。
その瞳には、シュタインハイム公爵家の令嬢としての誇りが宿っていた。
「お父様に相談するわ。……いえ、相談じゃない。取引をするの」
「取引?」
「ええ。ゲルマン伯爵が金と権力で来るなら、こっちはそれ以上の力でねじ伏せるしかないわ」
ミアは扇子をパチンと閉じた。
「あの方の目的は『リゾート開発による利益』でしょう? だったら、その前提を崩してやればいい」
具体的な策はまだ見えない。
だが、ミアの言葉は、絶望に沈んでいた空気に一筋の光を与えた。
「私も、動こう」
ライラが顔を上げた。
「騎士団としての公的な介入は難しいが、個人の資格でなら動ける。……ベルンシュタイン家の伝手を使って、建設局の不正を洗う」
三人の視線が、奏に集まる。
奏は、掌の中で震えるチップを優しく撫でた。
「僕は、ここに残ります」
奏は静かに言った。
「工事は止められないかもしれないけど……せめて、動物たちのそばにいてあげたい。これ以上、彼らが傷つかないように」
そして、機会があれば。
あの作業員たちに、監督に、そしてゲルマン伯爵に、音楽の力を思い知らせてやる。
暴力でも、法律でもない。
心の奥底に直接響く、抵抗の音楽を。
夜が更けていく。
工事現場の投光器が、無粋な光で河原を照らしている。
かつての「聖域」は失われた。
だが、それを守ろうとする人々の想いは、まだ消えていない。
奏はフルートを取り出し、月に向かって静かに息を吹き込んだ。
それは、失われた故郷を悼む鎮魂歌であり、明日への反撃を誓う決意の旋律だった。
闇の中で、動物たちが奏の足元に集まる。
その温もりだけが、今の奏の支えだった。




