表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生したフルート吹きの少年が現代音楽で異世界に癒しをお届けします!  作者: ト音ソプラ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/43

38話 失われた聖域

 翌朝、音瀬奏がルミナス川へ向かうと、そこには昨日とは比較にならない絶望的な光景が広がっていた。


 昨日までは、まだ杭が打たれているだけだった。


 しかし、一夜明けた今、奏たちが愛した「聖域」は、完全に蹂躙されていた。


 川辺への入り口には、鉄条網が張り巡らされ、立ち入り禁止の看板が掲げられている。


 その向こう側では、巨大な魔導重機が黒い排気ガスを撒き散らしながら、美しい芝生を無残に掘り返していた。


 木々はなぎ倒され、積み上げられた建設資材が、バリケードのように視界を遮っている。


 耳を劈くような掘削音。


 怒号。


 金属と金属がぶつかり合う不快な音。


 かつて、小鳥のさえずりと川のせせらぎが支配していた癒やしの空間は、いまや暴力的な騒音に支配された工事現場へと変わり果てていた。


「……あぁ」


 奏の口から、乾いた音が漏れた。


 足が震える。


 ここは、僕たちの家だ。


 チップやトラ、ミミたちが暮らし、ライラが安らぎ、ミアやソフィアと音楽を紡いだ場所だ。


 それが、土足で踏みにじられ、汚されている。


 鉄条網の向こう、かつて奏たちが演奏していた大きな切り株があった場所には、いまや簡易的なプレハブ小屋が建てられていた。


 その屋根には、ゲルマン伯爵家の紋章が入った旗が、勝ち誇ったように翻っている。


「……引き下がれ、と言っている!」


 怒声が聞こえた。


 ライラだ。


 彼女は今日も騎士団を率いて現場に乗り込んでいた。


 だが、その背中には、昨日までの覇気がない。


 彼女の目の前には、現場監督だけでなく、数人の役人が立っていた。


 彼らは一様に冷ややかな目でライラを見下し、手にした書類を盾にしていた。


「騎士団長殿。これは建設局長官、ひいては財務大臣の認可を受けた国家事業ですぞ」


 恰幅の良い役人が、慇懃無礼な口調で告げる。


「貴殿の行いは、正当な行政執行に対する妨害行為に当たります。これ以上続けるなら、騎士団の職権乱用として上に報告せざるを得ませんな」


「貴様……! ここは自然保護区に隣接しているのだぞ! 環境への影響調査もなしに、こんな乱暴な工事が許されると思っているのか!」


「調査? ああ、それなら済んでいますよ。……書類上はね」


 役人は薄ら笑いを浮かべた。


 全てはゲルマン伯爵の手回しだ。


 金と権力で、必要な手続きは全て「完了」したことにされている。


 腐敗した官僚機構の壁が、ライラの正義を跳ね返していた。


「くっ……!」


 ライラが拳を震わせる。


 剣を抜けば、その瞬間に彼女の負けだ。


 騎士団長という立場が、彼女の手足を縛り付けている。


 奏は駆け寄ろうとしたが、鉄条網の前で屈強な警備員に阻まれた。


「ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ」


「退いてください! あそこには、まだ動物たちが……!」


「知ったことか。害獣なら駆除対象だ」


 警備員が警棒で奏を突き飛ばす。


 尻餅をついた奏の目の前に、泥だらけになった一枚の羽根が落ちてきた。


 水鳥のスイの羽根だ。


 その瞬間、奏の心の中で何かが折れる音がした。


 無力だ。


 音楽コンクールで優勝しても、王族と知り合いになっても。


 巨大な権力と、理不尽なシステムの暴力の前では、一人の音楽家など無力な存在でしかない。


   §


 結局、その日も工事は止まらなかった。


 日没と共に作業員たちが引き上げると、そこには無残に破壊された河原だけが残された。


 奏たちは、少し離れた森の入り口で、身を寄せ合っていた。


 そこへ、ガサガサと草むらが揺れる音がした。


「……チップ?」


 奏が声をかけると、茂みの中からシマリスのチップが顔を出した。


 だが、その姿は痛々しかった。


 自慢の尻尾は煤で汚れ、身体は小刻みに震えている。


 彼だけではない。


 茶トラ猫のトラも、ウサギのミミも、皆、怯えきった様子で集まってきた。


 住処を追われ、逃げ惑っていたのだろう。


 奏は涙をこらえ、チップを掌に乗せた。


 冷たい。


 いつもなら温かい体温が、恐怖で冷え切っている。


(怖いよ……カナデ。大きな音がして、地面が揺れて……お家がなくなっちゃった)


 奏の脳内に、チップの悲痛な声が響く。


「ごめん……。ごめんね、守ってあげられなくて」


 奏はチップを頬に押し当て、謝り続けた。


 ミアが、トラを抱きしめて泣いている。


 ソフィアも、唇を噛み締めてミミの背中を撫でていた。


 ライラは、木に拳を打ち付けた。


 硬い音がして、樹皮がめくれる。


「……私のせいだ」


 彼女は絞り出すような声で言った。


「私がもっと早く、伯爵の動きを察知していれば。……法的な不備を突く準備をしていれば。騎士団の力など、何の役にも立たない」


「ライラさんのせいじゃありません」


 奏は首を横に振った。


「相手が汚い手を使っているだけです。……でも、このままじゃ」


 このままでは、カジノが建設され、ここは欲望の街に変えられてしまう。


 動物たちの居場所は永遠に失われ、静寂な音楽も二度と戻らない。


「……諦めるものですか」


 沈黙を破ったのは、ソフィアだった。


 彼女は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、破壊された河原を睨みつけた。


「私のパートナーが、あんな下品な工事現場で泣き寝入りなんて、許さないわ。……音楽家には音楽家の戦い方があるはずよ」


「……ええ、そうね」


 ミアが涙を拭い、顔を上げた。


 その瞳には、シュタインハイム公爵家の令嬢としての誇りが宿っていた。


「お父様に相談するわ。……いえ、相談じゃない。取引をするの」


「取引?」


「ええ。ゲルマン伯爵が金と権力で来るなら、こっちはそれ以上の力でねじ伏せるしかないわ」


 ミアは扇子をパチンと閉じた。


「あの方の目的は『リゾート開発による利益』でしょう? だったら、その前提を崩してやればいい」


 具体的な策はまだ見えない。


 だが、ミアの言葉は、絶望に沈んでいた空気に一筋の光を与えた。


「私も、動こう」


 ライラが顔を上げた。


「騎士団としての公的な介入は難しいが、個人の資格でなら動ける。……ベルンシュタイン家の伝手を使って、建設局の不正を洗う」


 三人の視線が、奏に集まる。


 奏は、掌の中で震えるチップを優しく撫でた。


「僕は、ここに残ります」


 奏は静かに言った。


「工事は止められないかもしれないけど……せめて、動物たちのそばにいてあげたい。これ以上、彼らが傷つかないように」


 そして、機会があれば。


 あの作業員たちに、監督に、そしてゲルマン伯爵に、音楽の力を思い知らせてやる。


 暴力でも、法律でもない。


 心の奥底に直接響く、抵抗の音楽を。


 夜が更けていく。


 工事現場の投光器が、無粋な光で河原を照らしている。


 かつての「聖域」は失われた。


 だが、それを守ろうとする人々の想いは、まだ消えていない。


 奏はフルートを取り出し、月に向かって静かに息を吹き込んだ。


 それは、失われた故郷を悼む鎮魂歌であり、明日への反撃を誓う決意の旋律だった。


 闇の中で、動物たちが奏の足元に集まる。


 その温もりだけが、今の奏の支えだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
読んでくださってありがとうございます!
面白いと思ったらブックマーク・ポイント評価等
応援をしてくださると嬉しいです!
よろしくお願いします!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ