35話 沈黙の再会
ウェストリア王宮、王立庭園。
白亜の回廊を抜け、石造りのアーチをくぐると、そこには冬の静寂に包まれた広大な空間が広がっていた。
春には色とりどりの花が咲き誇る花壇も、今は冬枯れの景色だ。
葉を落とした木々の枝が、寒空に向かって細い指を伸ばしている。
けれど、音瀬奏の目には、その景色が輝いて見えた。
冷たく澄んだ空気。
遠くで聞こえる小鳥のさえずり。
そして、何よりも懐かしい、あの噴水の水音。
数ヶ月前、異世界に迷い込んだ奏が、最初に行き着いた場所。
言葉も分からず、兵士に追われ、恐怖に震えていたあの時、彼を救ってくれたのは、一人の少女との出会いだった。
奏は走っていた。
息が切れるのも構わず、ただひたすらに。
早く会いたい。
一刻も早く、彼女の無事な姿を確認したい。
砂利道を踏みしめる靴音が、心臓の鼓動と重なって聞こえる。
視界が開けた。
庭園の中央にある円形の広場。
クリスタルのように透き通った水を湛える噴水。
そのほとりにある、白い石造りのベンチ。
そこに、彼女はいた。
マリー・ツー・エスターライヒ。
ウェストリア王国の第二王女。
彼女は分厚いショールにくるまり、ちょこんとベンチに座っていた。
金色の髪が、冬の柔らかな日差しを浴びて、淡い光の輪を作っている。
小柄な背中が、以前よりも少し小さく、儚げに見えた。
奏は足を緩めた。
荒い呼吸を整え、一歩、また一歩と近づいていく。
その気配に気づいたのか。
マリーが、ゆっくりと顔を上げた。
長い睫毛が震え、大きな瞳が奏を捉える。
時が止まったようだった。
マリーの瞳が、驚きに見開かれる。
そして次の瞬間、その瞳に大粒の涙が溢れ出した。
彼女はベンチから立ち上がり、よろめくように奏の方へ駆け出した。
声は出ない。
けれど、その表情が、全身の動きが、言葉以上の想いを叫んでいた。
奏もまた、両手を広げて彼女を受け止めた。
小さな身体が、奏の胸に飛び込んでくる。
勢い余って、二人して少しだけよろける。
奏は彼女をしっかりと抱きしめた。
温かい。
そして、震えている。
その瞬間。
奏の脳内に、堰を切ったように彼女の声が流れ込んできた。
(――先生!)
接触テレパス。
マリーの肌に触れることで、言葉を持たない彼女の「心の声」が、奏にだけ届く。
(先生、先生、先生……! ああ、夢じゃない。本当に、先生だ!)
それは、言葉というよりは、感情の奔流だった。
喜び。安堵。寂しさ。そして、焦がれるような熱い想い。
それらが混然となって、奏の胸を締め付ける。
奏は、壊れ物を扱うように優しく、マリーの背中を撫でた。
「……ただいま、マリー」
その一言を発するのに、喉が震えた。
「遅くなってごめんね。……迎えに来たよ」
マリーは奏の胸に顔を埋め、何度も何度も頷いた。
(ずっと……ずっと待っていました。信じていました)
彼女の心の声が、涙声になって響く。
(寂しかったです。怖かったです。先生がいない世界は、音がなくて、色がなくて……とても寒かった)
彼女の華奢な指が、奏のコートを強く握りしめる。
もう二度と離さないと言わんばかりの強さだ。
(でも、あのコンクールの夜……聞こえました。先生のフルートが。あの温かい音が、冷たい壁を通り抜けて、私を迎えに来てくれた)
一ヶ月前の、本選の夜。
あの時、会場で、そしてテレパスを通じて届いた『天の踊り子』の音色が、彼女の心を支え続けていたのだ。
マリーが顔を上げ、潤んだ瞳で奏を見つめた。
そこには、一国の王女としての威厳はない。
ただ、恋い慕う相手を見つめる、一人の少女の熱っぽい視線だけがあった。
(愛しています、先生。……もう、どこへも行かないで)
その言葉の重みに、奏は一瞬たじろいだ。
彼女の想いは、純粋で、そしてあまりにも真っ直ぐだ。
だが、奏にとってのマリーは、守るべき生徒であり、大切な妹のような存在だ。
彼女の「愛しています」と、奏の抱く感情の間には、少しの温度差がある。
けれど、今はそれを正す時ではないだろう。
奏は、教師として、そして保護者としての慈愛を込めて微笑んだ。
「うん。もうどこにも行かないよ」
奏はポケットからハンカチを取り出し、マリーの濡れた頬を拭った。
「君を一人にして、不安な思いをさせてしまったね。……先生失格だ」
マリーは首を横に振る。
(いいえ。先生は私のヒーローです。……伝説の騎士様よりも、ずっと素敵です)
彼女は奏の手を取り、自分の頬に押し当てた。
奏の手のひらを通して、彼女の体温と、鼓動の速さが伝わってくる。
(先生の手……大きくて、温かい。この手が、あの魔法のような音楽を奏でているんですね)
うっとりとした表情。
マリーの中で、奏は完全に神格化され、そして王子様化されていた。
奏は少々気恥ずかしさを感じながらも、彼女の無邪気な信頼に応えるべく、努めて冷静に振る舞った。
「マリー。……実は、ハインリヒ様にお願いされてね」
奏は、マリーの手をそっと握り直した。
「今日からまた、僕が君の音楽教師を務めることになったんだ」
マリーの瞳が、星のように輝いた。
(音楽教師……!)
「そう。これからは堂々と、君に会い来ることができる。一緒にフルートを吹いたり、ピアノを弾いたりできるんだ」
奏は、彼女の学習環境を取り戻せたことに安堵していた。
彼女には才能がある。
その才能を伸ばし、彼女が自分の力で世界と対話できるよう導くこと。それが奏の使命だ。
だが、マリーの反応は、奏の予想の斜め上を行っていた。
(教師と……生徒。……禁断の、関係)
マリーの頬が、薔薇色に染まる。
彼女の脳内では、すでに甘いロマンス劇場が幕を開けていたらしい。
(王宮に通う先生と、塔の上で待つ私。……レッスンという名の、秘密の逢瀬)
彼女の妄想は、奏には聞こえていない。
だが、妙に熱っぽい視線と、上気した顔色から、奏は何となく「喜んでくれているんだな」と解釈した。
「マリー? 大丈夫? 顔が赤いけど」
奏が心配して覗き込むと、マリーはフルフルと首を振った。
(はい! 嬉しいです! 毎日来てくれますか? 朝から晩まで? あ、いっそ私の部屋に住みますか?)
すごい勢いで畳み掛けてくる心の声。
奏は苦笑いしながら、やんわりと訂正した。
「毎日は無理かな。僕もルミナス川での生活があるし、街の動物たちの世話もあるからね」
(……むぅ)
マリーが頬を膨らませる。
「でも、週に何回かは必ず来るよ。それに、これからはもっと難しい曲にも挑戦しよう。基礎練習もやり直しだね」
奏はあえて「先生」としての口調を強めた。
甘やかすだけが優しさではない。
彼女が自立するためには、厳しい指導も必要なのだ。
「サボっていた分、指が鈍っているかもしれないからね。最初は音階練習からみっちりやるよ」
普通の生徒なら嫌な顔をするところだ。
しかし、マリーは恍惚とした表情で両手を組んだ。
(はい……! 厳しくしてください、先生。先生の特別レッスン……二人きりの補習……)
どうやら、言葉が通じないどころか、意図すら噛み合っていないようだ。
奏は「あれ?」と首を傾げたが、彼女がやる気になっているなら良しとした。
「……じゃあ、手始めに」
奏は腰から黒いフルートを取り出した。
「一曲、聴いてくれるかな? 再会の記念に」
マリーの瞳が期待に輝く。
彼女はベンチに座り直し、隣をポンポンと叩いて奏を促した。
奏は苦笑しながら、彼女の隣に腰を下ろした。
肩が触れ合う距離。
マリーは幸せそうに奏の腕に頭をもたせかけた。
こうしていると、彼女の心の声が常に聞こえてくる。
(先生の匂い。……落ち着く。ずっとこうしていたい)
その純真な好意が、奏にはこそばゆい。
けれど、嫌ではなかった。
守りたい存在が、すぐ隣にいて、笑ってくれている。
その事実が、奏の心を満たしていた。
奏はフルートを構え、息を吸い込んだ。
奏でたのは、ドビュッシーの『シランクス』ではない。
もっと明るく、温かい曲。
モーツァルトの『フルートとハープのための協奏曲』の第二楽章。
優雅で、どこか天国的な安らぎに満ちた旋律。
フルートの音色が、冬の庭園に溶けていく。
冷たい空気が、音の波紋によって温められていくようだ。
マリーは目を閉じ、その音に身を委ねていた。
彼女の心の中に、春の風景が広がっていく。
花が咲き、蝶が舞い、光が降り注ぐ世界。
先生の音は、やっぱり魔法だ。
凍っていた時間を溶かし、私の世界に色を取り戻してくれる。
演奏が終わり、最後の余韻が風に消えるまで、二人は動かなかった。
静寂が戻ってくる。
でも、それは以前のような孤独な静寂ではない。
二人で分かち合う、満ち足りた静寂だった。
「……気に入ってくれた?」
奏が尋ねると、マリーは目を開け、最高の笑顔を見せた。
(はい。世界で一番、素敵な音でした)
彼女は奏の手を取り、その指先にそっと口づけをした。
それは、敬愛と、そして精一杯の背伸びした愛情表現だった。
奏は驚いて手を引っ込めそうになったが、彼女の真剣な眼差しに気圧されて、そのままにされた。
(先生。……約束してください)
マリーの心の声が、真剣な響きを帯びる。
(もう、私を置いていかないと。……私が大人になるまで、ずっと見ていてくれると)
彼女の言う「大人になるまで」の意味を、奏は深く考えなかった。
生徒の成長を見守るのは、教師の務めだ。
そう解釈した奏は、彼女の目を見つめ返し、力強く頷いた。
「ああ、約束するよ。マリーが立派なレディになって、素晴らしい音楽家になるまで……僕は君のそばにいる」
マリーの顔が、林檎のように真っ赤になった。
(立派なレディ……! はい、なります! 先生のお嫁さんになっても恥ずかしくないくらいの、素敵なレディに!)
心の声の後半部分は、幸いなことに興奮しすぎてノイズ混じりになり、奏にはよく聞き取れなかった。
「よし、じゃあ寒くなってきたし、そろそろ中に入ろうか。ハインリヒ様たちも待っているはずだ」
奏が立ち上がろうとすると、マリーが服の裾を掴んだ。
(……もう少しだけ)
彼女は上目遣いで訴える。
(あと五分だけ……このままでいたいです。先生の体温を、チャージさせてください)
甘えるような響き。
奏は困ったように眉を下げたが、拒絶することはできなかった。
久しぶりの再会なのだ。これくらいの我儘は聞いてあげてもいいだろう。
「分かった。……あと五分だけだよ?」
奏が座り直すと、マリーは嬉しそうに微笑み、再び彼の腕にしっかりと抱きついた。
§
遠くの回廊から、その様子を見守る四人の姿があった。
ハインリヒ、ソフィア、ミア、そしてアメリ。さらに、いつの間にか警備の名目でライラも加わっていた。
彼らは表向きには、再会を喜ぶ二人に温かな眼差しを向けている。
美しく、微笑ましい光景だ。
しかし、その仮面の下にある内心は、それぞれ全く異なる感情で渦巻いていた。
「……微笑ましいですわね」
ミアが扇子で口元を隠しながら言った。優雅な笑みを浮かべているが、その扇子を持つ手にはギリギリと力が込められている。
(あんなにベタベタして……! 王女殿下とはいえ、一歩リードされすぎだわ。羨ま……じゃなくて、破廉恥よ! でも、次は私がカナデの隣を独占するんだから。コンクールは終わったけど、私の戦いはこれからよ。絶対負けない!)
燃えるような闘志。嫉妬というよりは、強敵を見つけた時の純粋なライバル心が、彼女の中で炎を上げていた。
その隣で、ソフィアは眼鏡の位置を直しながら、やれやれと肩をすくめた。
「ええ、本当ね。久しぶりの再会だもの」
口調は穏やかだが、その瞳の奥は氷のように冷静だ。
(まあ、好きにさせとけばいいわ。所詮は教師と生徒のおままごとよ。カナデの音楽的感性を一番刺激できるのは私。あの子が一番輝くのは、私のピアノと合わせている時だって、本人が一番分かってるはずだもの。……最後に帰ってくる場所は、私の隣よ)
それは、大人の余裕。あるいは、芸術的パートナーとしての揺るぎない自信と所有欲だった。
「……うむ。マリー様の笑顔、お守りできて何よりだ」
ライラが腕を組み、深く頷いた。騎士としての職務を全うした顔をしている。
だが、その胸中だけは複雑に乱れていた。
(いいな……。あんな風に、素直に甘えられて。私があの立場だったら……いや、何を考えているんだ私は! でも、たまには鎧を脱いで、あんな風に……一度でいいから……)
鉄の女騎士の仮面の下で、抑圧された乙女心が悲鳴を上げていた。公務という立場上、決して見せられない「甘えたい願望」が、マリーの姿に投影されているようだった。
そんな三人の様子を、アメリはニヤニヤと眺めていた。
「あらあら、みんな本当に仲が良いわねぇ」
彼女は面白そうにクスクスと笑った。
(やれやれ、カナデも大変ね。こんなに周りから狙われてるのに、本人は全く気づいてないんだから。……まあ、見てる分には面白いからいいけど。頑張りなさいよ、モテる弟クン)
アメリにとって、奏は可愛い弟分だ。そこに恋愛感情はない。だからこそ、彼女だけがこのドロドロとした内情を、まるで恋愛劇の観客のように楽しんでいた。
そして、ハインリヒ王子。
彼は満足げに目を細め、妹の幸せそうな姿を見つめていた。
「ああ、良かった。……本当に良かった」
慈愛に満ちた兄の顔だ。
しかし、その内心では、冷徹な計算と、男親のような頑固さが顔を出していた。
(マリーの孤独を癒せるのは、やはり彼しかいない。音楽教師としては最適だ。……だが、それ以上の関係となると話は別だぞ。どこの馬の骨とも知れぬ男に、大事な妹を嫁になどやるものか。……手は出させん。絶対にだ)
彼は心の中で、奏に対して見えない防壁を築き上げていた。
庭園には、優しい風が吹いていた。
冬の寒さはまだ厳しい。
けれど、二人の周りだけは、一足早い春が訪れたかのように、温かな空気に包まれていた。




