34話 王子の目論見
王立音楽コンクールの熱狂から、早一ヶ月。
季節は冬の只中にあるが、王都の空気はどこか晴れやかだった。
あの歴史的な夜以来、街の音楽家たちの間では、新しい表現を模索する動きが活発になっていたからだ。
王都の南にある宿屋『金羊亭』の二階。
音瀬奏は、窓辺で愛用のフルートを手入れしていた。
黒い木製の管体は、使い込むほどに艶を増している。
穏やかな朝だった。
だが、その静寂は、部屋の扉を叩く音によって破られた。
「カナデ、入るぞ」
現れたのは、王宮騎士団長のライラだ。
彼女は正装に身を包み、少し緊張した面持ちで一枚の書状を差し出した。
封蝋には、ウェストリア王家の紋章である「剣を抱く黒獅子」が押されている。
「ハインリヒ殿下からの呼び出しだ。……ようやく、根回しが済んだらしい」
「根回し……?」
奏が首を傾げると、ライラは苦笑した。
「お前を王宮に招くのに、これでも早い方だ。……ゲルマン伯爵の妨害をかわし、公式な『優勝者招待』という名目を通すのにな」
ゲルマン伯爵。
コンクールでの失態により権威は揺らいだものの、彼はまだ宮廷楽団の人事権を握る事務局長の座に居座っていた。
伯爵にとって、自らの面子を潰した奏の王宮入りは、何としても阻止したい事態だったのだろう。
「迎えの馬車が待っている。ソフィア、ミア、それにアメリも同席を許可された。……行こう、英雄殿」
§
王宮へと続く石畳の道を、黒獅子の紋章が入った豪奢な馬車が進んでいく。
車内には、奏の向かいにソフィア、ミア、そしてアメリが座っていた。
三人とも、王族への謁見に備えてめかしこんでいる。
「まったく、殿下も慎重すぎるのよ。優勝者を一ヶ月も放置するなんて」
ミアが扇子をパタパタさせながら不満を漏らす。
「それだけ、向こうの抵抗がしぶといってことでしょうね」
ソフィアが窓の外を眺めながら冷静に返す。
奏は、隣に座るアメリに視線を向けた。
「アメリさん。……楽団の方はどう? あれから一ヶ月経つけど」
アメリは苦笑交じりに肩をすくめた。
「相変わらずよ。ゲルマン伯爵は事務局長室に籠もりきりだし、予算の承認も遅れがち。……でも、練習場の空気は変わったわ」
「空気?」
「ええ。ベンよ。彼、まるで別人みたいになったの」
ベン・フォン・ホフマン。
コンクールで奏と競い合い、敗れた男。
「性格が丸くなった……とは言わないわ。『リズムが甘い!』とか『もっと感情を込めろ!』とか、相変わらず団員に怒鳴り散らしてるもの」
アメリは呆れたように、しかしどこか楽しげに言った。
「でも、以前のような『自分だけ目立てばいい』という独りよがりな演奏じゃなくなったわ。周りの音を聴こうとしているし、何より……音楽に対して真剣になった」
アメリの言葉には、コンサートミストレスとしての実感がこもっていた。
「団員たちも、ベンの技術と熱意だけは認め始めているの。喧嘩しながらも、以前よりずっとマシな音が出るようになったわ。……昨日のリハーサルなんて、ちょっと感動しちゃったくらい」
奏は嬉しくなって、胸を撫で下ろした。
あのコンクールは、無駄じゃなかった。
頑なだったベンの心を、そして楽団の空気を、確かに変えたのだ。
馬車が王宮の正門をくぐる。
並木道の先に見えてきた白亜の巨城は、一ヶ月前と変わらぬ威容で奏たちを見下ろしていた。
案内されたのは、王族の私的な面会室である「青の間」だった。
壁一面に青いタペストリーが飾られ、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「よく来てくれた、カナデ。そして皆も」
部屋の中央で待っていたのは、ハインリヒ・フォン・エスターライヒ。
この国の第三王子だ。
彼は奏たちを見るなり、柔和な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「ハインリヒ様……お久しぶりです」
「ああ。……待たせてすまなかったね」
ハインリヒは奏の手を固く握った。
「君をすぐにでも招きたかったのだが、ゲルマン伯爵の抵抗が予想以上に強くてね。……私の力が至らないばかりに、不自由な思いをさせた」
「いいえ。こうしてまたお会いできて光栄です」
一通りの挨拶を済ませ、人払いをすると、ハインリヒは真剣な表情で本題を切り出した。
「さて、カナデ。今日来てもらったのは、優勝の祝いだけではない」
王子は居住まいを正した。
「コンクールの結果を受けて、改めて君に問いたい。……宮廷楽団に戻ってきてくれないか?」
予想していた言葉だった。
だが、一ヶ月前とは状況が違う。
「伯爵の影響力は弱まったとはいえ、まだ根強い。だが、君の実力と人気は、もはや誰も無視できないものになっている」
ハインリヒは熱っぽく語った。
「今こそ、君の力が必要なんだ。君が首席奏者として戻れば、ベンも含め、楽団は正しい方向へ進めるはずだ。……どうだろうか?」
音楽家として、これ以上の名誉はない。
国一番の楽団を率いる立場。
安定した地位と、最高の環境。
だが、奏はゆっくりと首を横に振った。
「……申し訳ありません、ハインリヒ様」
ミアとソフィアが息を呑む気配がした。
「光栄なお話ですが……僕は、宮廷楽団には戻れません」
ハインリヒは驚かなかった。
むしろ、予想していたかのように苦笑を漏らした。
「……やはり、そう言うか。君は鳥籠を嫌う鳥だからな」
「はい。僕はルミナス川のほとりの生活が好きなんです。動物たちと、街の人たちと、風を感じながら自由に音楽を楽しみたい。……それが、僕の音の源なんです」
奏の真っ直ぐな瞳。
そこには、一点の曇りも迷いもなかった。
管理された宮廷の中では、あの『天の踊り子』のような自由な音楽は生まれないことを、奏自身が一番よく知っていた。
「分かった。無理強いはしないよ。……君の音楽を殺してしまっては、元も子もないからな」
ハインリヒはあっさりと引き下がった。
しかし、その瞳の光は消えていない。
彼は、懐から一枚の書類を取り出した。
「だが、これならどうだ? 楽団には所属せず、外部の『特別講師』として関わるというのは」
「特別講師……ですか?」
「ああ。気が向いた時に楽団を指導し、重要な演奏会にだけゲストとして参加する。住処は今のままで構わない。……これなら、君の自由は守られるだろう?」
それなら、悪くない条件だ。
アメリやベンたちとも音楽ができるし、自由も失われない。
奏が考え込んでいると、ハインリヒは声を潜め、身を乗り出した。
「それと……もう一つ。これが私からの個人的な、そして最大のお願いだ」
王子の声色が、急に柔らかく、そして切実なものに変わった。
「マリーの、音楽教師になってやってくれないか」
マリー。
その名前が出た瞬間、奏の心が大きく揺れた。
「マリーはずっと、君を待っていた。……君がいなくなってから、彼女はまた貝のように心を閉ざしてしまったんだ」
ハインリヒは悲しげに目を伏せた。
「コンクールの夜、彼女は泣いていたよ。嬉し涙だったが……同時に、寂しさも感じていたはずだ。彼女の心の声を聞けるのは、世界で君だけだ」
昨夜読み返した手紙の内容が蘇る。
『先生のフルートは、魔法です』
そう綴っていた彼女の、孤独と希望。
「王室教師として、マリーに音楽を教えてやってほしい。……いや、ただそばにいて、あの子の話を聞いてやってくれるだけでいいんだ」
ハインリヒは王族としての威厳をかなぐり捨て、一人の兄として奏に頭を下げんばかりの勢いだった。
奏に、迷いはなかった。
「……お願いします」
奏は力強く言った。
「僕でよければ、喜んで引き受けます。……僕も、マリーに会いたいです」
ハインリヒの顔が、ぱあっと明るくなった。
彼は立ち上がり、奏の手を固く握りしめた。
「ありがとう、カナデ。……本当に、ありがとう」
王子の目には、安堵の色が浮かんでいた。
話がまとまると、ハインリヒは窓の方を振り返った。
そこからは、美しく手入れされた王宮の中庭が見下ろせる。
「彼女は今、庭園にいる」
ハインリヒが優しく告げた。
「あの場所だ。君たちが最初に出会った、あの噴水広場で待っている」
心臓が早鐘を打つ。
数ヶ月ぶりの再会。
言葉は通じないけれど、心は誰よりも通じ合っている少女。
「行ってあげてくれ。……積もる話もあるだろう」
ハインリヒは背中を押すように微笑んだ。
「ミア嬢とソフィア嬢、それにアメリも、私とお茶でもどうかな? これからの音楽堂の構想について、意見を聞きたい」
気遣いのできる王子だ。
奏とマリーの時間を邪魔しないよう、皆を引き留めてくれたのだ。
「ええ、喜んで。殿下」
ソフィアが心得たように頷く。
「行ってらっしゃい、カナデ」
ミアが扇子で口元を隠し、ニヤリと笑った。
「……随分、モテるのね」
その言葉には、明らかな嫉妬と、そして諦めにも似た皮肉が混じっていた。
奏は苦笑しつつ、皆に一礼すると、扉へと向かった。
重厚な扉が開かれる。
その先には、冬の澄んだ空気と、懐かしい庭園への道が続いていた。
足早に廊下を歩く。
やがて、小走りになり、最後には駆け出していた。
靴音が回廊に響く。
すれ違う衛兵たちが驚いた顔をするが、今の奏には関係なかった。
早く会いたい。
優勝したことを伝えたい。
そして何より、また一緒に音楽を奏でたい。
階段を駆け下り、庭園へのアーチをくぐる。
冷たい風が頬を撫でる。
木々の葉は落ちてしまっているが、その景色はあの日のまま輝いて見えた。
噴水の音が聞こえてくる。
水音に混じって、誰かの気配がする。
奏は足を止めた。
噴水の向こう側。
白いベンチに座る、小柄な人影。
金色の髪が、冬の陽光を受けてキラキラと輝いている。
彼女が、ゆっくりと顔を上げた。




