33話 栄冠と握手
王立大劇場を揺るがした熱狂の余韻は、演奏が終わってもなお、客席のそこかしこに燻っていた。
すべてのプログラムが終了し、現在は審査員による最終協議が行われている。
舞台袖の控え室。
そこには、全力を出し切った音瀬奏とソフィア・ツー・ロイスの二人だけがいた。
奏はソファに深く沈み込み、荒い呼吸を整えている。
指先はまだ微かに震えていた。恐怖による震えではない。魂を削って音に変えた、心地よい疲労感によるものだ。
「……やりきったわね」
隣でタオルで汗を拭っていたソフィアが、短く呟いた。
彼女の黒髪は乱れ、眼鏡も少しずれているが、その瞳は宝石のように輝いている。
「はい。……全部、出し切りました」
奏は天井を見上げながら答えた。
悔いはない。
結果がどうあれ、あの瞬間に生まれた音楽は、間違いなく奏の人生で最高のものだった。
マリーへ、仲間へ、そして会場にいる全ての人へ。
届けたい想いは、すべて音に乗せて放った。
静かな部屋に、二人の呼吸音だけが響く。
言葉は必要なかった。
ただ隣にいるだけで、互いの充実感が伝わってくる。
最高のパートナーと共に、最高の音楽を奏でられた。それだけで、もう十分だった。
その時、場内アナウンスが響いた。
審査結果の発表を告げる合図だ。
「行きましょう。……私たちの『革命』の結末を見届けに」
ソフィアが立ち上がり、奏を促した。
奏は深く頷き、再び光の待つステージへと歩き出した。
§
ステージ上には、本選に出場した十組の演奏家たちが整列していた。
中央には奏とソフィア。
その少し離れた場所に、ベン・フォン・ホフマンが立っている。
彼は俯き、虚ろな目で床の一点を見つめていた。
客席は静まり返り、三千人の視線が審査員長のマイクに集中している。
貴賓席では、国王陛下とハインリヒ王子も身を乗り出していた。
老齢の審査員長が、厳かに口を開いた。
「今年の王立音楽コンクールは、波乱と驚きに満ちたものでした。伝統を重んじる声、革新を求める声。審査員の間でも、かつてないほどの激論が交わされました」
審査員長は言葉を切り、ステージ上の奏たちを見やった。
その目は、もはや異端児を見る目ではなく、新たな才能に対する敬意に満ちていた。
「しかし、音楽の本質とは何か。それは技術の優劣だけではなく、いかに聴く者の心を動かしたか、その一点に尽きます。……その意味において、今宵の勝者は明白でありました」
会場の空気が張り詰める。
その時だった。
奏の右手に、冷たく硬いものが触れた。
ソフィアの手だった。
彼女は奏の手を、痛みを感じるほど強く握りしめていた。
奏は驚いて隣を見た。
ソフィアは前を向いたまま、唇を真一文字に結んでいた。
いつも強気で、自信満々な彼女の横顔が、今は不安げに強張っている。
震えていた。
彼女もまた、怖かったのだ。
自分の音楽が、全てを賭けた『天の踊り子』が、世界に拒絶されることが。
奏は、握られた手に力を込めた。
大丈夫。僕たちは一人じゃない。
その想いを伝えるように、優しく、しかし力強く握り返す。
ソフィアが一瞬だけこちらを見、強張っていた表情をわずかに緩めたのが分かった。
「発表します。栄えある優勝は……」
一拍の間。
「エントリーナンバー42番。フルート、音瀬奏。ピアノ、ソフィア・ツー・ロイス!」
瞬間。
大劇場が揺れた。
爆発的な歓声と拍手が、ステージへと押し寄せる。
客席の最前列では、ミアが公爵に抱きついて跳ね回り、ライラが拳を突き上げ、アメリが涙を拭っているのが見えた。
奏は呆然と客席を見渡した。
誰もが立ち上がり、惜しみない拍手を送っている。
夢ではない。
自分たちの音楽が、この世界に認められたのだ。
「……ふん。当然よ」
隣でソフィアが鼻を鳴らしたが、その頬を涙が伝っていた。
繋いだ手は、まだ離れない。
その温もりが、勝利の実感を奏の胸に染み渡らせていった。
トロフィーが授与され、金色の紙吹雪が舞う。
それは、長く苦しい戦いが終わり、新しい時代が始まったことを告げる祝福の雨だった。
一方、歓喜の輪の外側。
関係者席では、サン・ツー・ゲルマン伯爵が顔面蒼白で立ち尽くしていた。
「馬鹿な……。平民ごときが……優勝だと?」
あり得ない。あってはならない。
自分の権力基盤である「格式ある音楽」が、どこの馬の骨とも知れぬ若造に否定されたのだ。
周囲の貴族たちが、伯爵に向ける視線は冷ややかだった。
あからさまな妨害工作の噂、そして甥であるベンの暴走。
伯爵の権威は、今この瞬間、音を立てて崩れ去った。
「ええい、認めん! 私は認めんぞ!」
伯爵はヒステリックに叫び、椅子を蹴り倒して会場から逃げ出した。
その背中を追う者は、誰もいなかった。
§
表彰式が終わり、会場の外に出ると、そこはすっかり夜になっていた。
冷たい夜風が、火照った頬に心地よい。
奏たちは、関係者出口の近くで、仲間たちを待っていた。
ふと、奏は少し離れた柱の陰に、人影があることに気づいた。
ベン・フォン・ホフマンだ。
彼は黄金のフルートケースを背負い、帰ろうとしているようだったが、足が止まっていた。
チラチラとこちらを見ている。
何か言いたげに口を開きかけては、また閉じて、視線を逸らす。
その繰り返しだ。
プライドの高い彼が、敗北した相手に自分から声をかけるのは難しいのだろう。
でも、その瞳は訴えていた。
このまま終わらせたくない、と。
「……ちょっと、待ってて」
奏はソフィアにそう告げると、ベンの元へと歩み寄った。
ベンは奏が近づいてくるのに気づくと、バツが悪そうに顔を背け、逃げる素振りを見せた。
「ベン」
奏が名前を呼ぶと、彼は観念したように足を止めた。
「……なんだ。笑いに来たのか」
ベンは掠れた声で言った。
「叔父上にも見捨てられ、恥を晒した敗北者を、あざ笑いに来たんだろう。いい気味だと」
彼は自暴自棄に笑おうとしたが、頬が引きつって上手く笑えなかった。
奏は何も言わず、ただ右手を差し出した。
握手を求める手だ。
ベンはその手を、じっと見つめた。
平民の手。
だが、自分よりも遥かに大きく、温かい音楽を知っている手。
「さっきの演奏……。凄かったよ」
奏の言葉に、ベンは目を見開いた。
「技術を見せつけるためじゃなく、君自身の感情が溢れ出ていた。……悲鳴みたいだったけど、すごく熱くて、心に刺さった」
「……」
ベンは唇を噛み締めた。
否定されると思っていた。
格式を重んじる叔父や、これまでの教育を否定した、無様な演奏だと。
だが、目の前のライバルは、それを認めてくれた。
ベンは迷った。
この手を握れば、自分は負けを認めることになる。
プライドが、邪魔をする。
しかし。
自分の心の奥底にある「音楽への渇望」が、それを拒絶することを許さなかった。
ベンは、ゆっくりと、恐る恐る手を伸ばした。
そして、奏の手を握り返した。
「……勘違いするなよ」
ベンは顔を背け、耳まで赤くして言った。
「今回は、譲ってやる。……まぐれ当たりだ」
「ふふ、うん。そうだね」
「次は負けない。……僕が本気になれば、お前なんて目じゃないんだからな!」
典型的な負け惜しみ。
だが、その声には以前のような陰湿な響きはなかった。
あるのは、良き好敵手に対する、清々しい闘争心だけ。
「うん。待ってるよ、ベン」
奏が微笑むと、ベンは「ふん!」と鼻を鳴らし、手を離した。
そして、楽器ケースを担ぎ直し、踵を返した。
「一から出直しだ。……叔父上の力なんて借りずに、僕自身の力で這い上がってやる」
去り際、彼は立ち止まり、背中越しに小さく言った。
「……おめでとう、カナデ」
その言葉は、夜風にかき消されそうなほど小さかったが、奏の耳には確かに届いた。
§
ベンが去った後、奏はソフィアの元へ戻った。
そこへ、ちょうどミアたちが駆けつけてきた。
「カナデ! ソフィア!」
ミアがドレスの裾を翻して飛びついてくる。
後ろからは、上機嫌なライラと、目を赤くしたアメリも続いている。
「凄かったわ! あんたたち、本当に……本当に最高だった!」
「うむ。言葉にならん。……戦場で数々の武勲を見てきたが、これほど心が震えたのは初めてだ」
「ありがとう、みんな」
仲間たちに囲まれ、奏は心からの笑顔を浮かべた。
コンクールは終わった。
だが、それは終わりではない。
ゲルマン伯爵の失脚、宮廷楽団の再生、そして王宮にいるマリーとの再会。
やるべきことは、まだ山積みだ。
それでも、今夜だけは。
この勝利の美酒に酔いしれてもいいだろう。
「さあ、行きましょう。パレードが待ってるわよ!」
ミアに手を引かれ、奏は歩き出した。
輝かしい照明の向こう、新しい未来へと続く扉が、今開かれようとしていた。
その光景を、二階席のバルコニーから見つめる人影があった。
ハインリヒ王子だ。
彼は満足げに目を細め、小さく頷いた。
「よくやった、カナデ」
その声は、かつて王宮から彼を逃がした時と同じ、親愛の情に満ちていた。
「……さあ、これからが本番だぞ」
王子は口元に不敵な笑みを浮かべ、静かにその場を去った。




