32話 『天の踊り子』
静寂が、王立大劇場を支配していた。
先ほどのベン・フォン・ホフマンの激情的な演奏が残した、重く、張り詰めた空気。
それを塗り替えることができるのか。
固唾を呑んで見守る三千人の観衆の視線が、ステージ中央の二人に注がれていた。
音瀬奏は、静かに目を閉じた。
不思議と、緊張はなかった。
心にあるのは、澄み渡った湖のような静けさと、そこに波紋を広げたいという純粋な欲求だけ。
隣でピアノの前に座るソフィアが、小さく息を吸ったのが気配で分かった。
それが、合図だった。
ソフィアの指が、鍵盤に触れる。
世界が変わった。
最初に響いたのは、誰も予想しなかった不協和音ギリギリの和音だった。
重く、低く、引きずるような重低音。
それは不安、混沌、あるいは夜明け前の深く冷たい森の中を彷徨っているような感覚を、聴衆の脳裏に直接流し込んでくる。
甘美な旋律を期待していた観客たちは、意表を突かれて息を呑んだ。
ざわめきすら起きない。
そのあまりに異質な導入に、誰もが身動き一つできずに聴き入っている。
ソフィアが紡ぐ音は、形を持たない霧のように会場を包み込んでいく。
そこへ、一筋の光が差し込む。
奏のフルートだ。
低音域の、掠れるような柔らかい音色。
それは森の木々を揺らす風のようであり、あるいは深い井戸の底から見上げた微かな月明かりのようでもあった。
ピアノの作り出した闇を、フルートの光が優しく、しかし確実に切り裂いていく。
『天の踊り子』。
この曲に決まった形式はない。
あるのは大まかな構成と、いくつかの主要な旋律だけ。
あとは全て、その場の空気と、互いの呼吸によって紡ぎ出される即興演奏だ。
ソフィアが左手でベースラインを刻みながら、右手で変則的なリズムを叩き出す。
誘うような、挑発するようなフレーズ。
奏がそれに応える。
長く伸ばした音から、装飾音符を多用した軽やかなパッセージへ。
水面を跳ねる魚のように、あるいは風に乗って舞う花びらのように、フルートの音が空間を縦横無尽に駆け巡る。
二つの楽器が会話をしているようだった。
時には寄り添い、時には反発し、螺旋を描くように高め合っていく。
ソフィアの瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。
彼女は全身を使ってピアノを弾いていた。
髪を振り乱し、鍵盤に覆いかぶさるようにして、激情を音に変えていく。
奏もまた、身体全体でリズムを感じていた。
黒いフルートが、彼の身体の一部のように馴染んでいる。
指先が管体の上を滑るたびに、色彩豊かな音が溢れ出す。
速い。
技術的な難易度は、先ほどのベンの曲を遥かに凌駕している。
循環呼吸による途切れない旋律の奔流。
低音から高音まで、三オクターブを一瞬で駆け上がる跳躍。
現代奏法のフラッターや重音奏法までもが織り交ぜられ、フルートという楽器の限界を超えた音響空間が作り出されていく。
だが、誰もそれを「技術のひけらかし」だとは感じなかった。
なぜなら、その音には「心」があったからだ。
悲しみも、喜びも、寂しさも、希望も。
人間が抱くすべての感情が、音の粒子となって会場中に降り注いでいた。
客席の最前列。
シュタインハイム公爵令嬢ミアは、両手を胸の前で組み、ステージを見つめていた。
彼女の大きな瞳から、涙が溢れて止まらない。
「……これが、私の求めていた音楽」
彼女は震える声で呟いた。
退屈だった日々。
誰も理解してくれない孤独。
そんな灰色の世界を、奏のフルートが鮮やかに塗り替えていく。
隣に座る父、ルドルフ公爵もまた、ハンカチで目元を拭っていた。
彼はかつて、音楽を「貴族の教養」としてしか見ていなかった。
だが、これは違う。
これは、魂の救済だ。
「……見事だ」
公爵は短く、しかし深い敬意を込めて呟いた。
曲は中盤に差し掛かり、テンポがさらに加速する。
ソフィアが鍵盤を叩きつけるようなフォルテッシモで、嵐のような激しさを表現する。
大地が割れ、雷鳴が轟くような迫力。
奏はその嵐の中を、一羽の鳥となって飛び回る。
鋭く、高く、突き刺すような高音。
それは叫びだった。
理不尽な運命への抗い。
抑圧された者たちの解放。
会場の空気が震えた。
物理的な振動だけでなく、魔力的な共鳴が起きている。
聴衆は皆、幻を見ていた。
ある者は故郷の風景を、ある者は失った恋人の笑顔を、そしてある者はまだ見ぬ理想郷を。
そして、二階正面の貴賓席。
そこには、ハインリヒ王子の隣に座る、小柄な少女の姿があった。
フードを目深に被り、顔を隠しているが、その金色の髪がわずかに覗いている。
マリー王女だ。
彼女は兄に懇願し、無理を言ってこの場に連れてきてもらっていた。
マリーは手すりを握りしめ、身を乗り出すようにしてステージを見つめていた。
聞こえる。
耳からだけでなく、心に直接響いてくる。
先生の音が。
あの優しくて温かい手が、凍りついた心を撫でてくれているようだ。
マリーの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
声は出せない。
けれど、心の中で彼女は叫んでいた。
(先生……! 先生!)
その想いが、強いテレパスの波となって放たれた。
ステージ上の奏が、ふと顔を上げた。
演奏の最中、極限の集中状態の中で、懐かしい温もりが心に触れた気がしたのだ。
視線が、貴賓席へと向かう。
照明の逆光で顔までは見えない。
けれど、奏には分かった。
そこに彼女がいる。
マリーが、聴いてくれている。
奏の唇が、微かに弧を描いた。
胸の奥から、無限の力が湧き上がってくる。
ここからだ。
ここからが、本当の『天の踊り子』だ。
奏は合図を送るように、ソフィアの方を向いた。
ソフィアもニヤリと笑い、頷いた。
転調。
激しい嵐が去り、曲調が一変する。
長調とも短調ともつかない、東洋的な、あるいは古代の旋法を用いた神秘的なメロディ。
それは「祈り」だった。
ソフィアのピアノが、今度はハープのように優しくアルペジオを奏でる。
その上で、奏のフルートが歌う。
どこまでも伸びやかに、清らかに。
会場の空気が浄化されていく。
さっきまでの激しさが嘘のように、穏やかな光が満ちていく。
舞台袖では、ライラとアメリが互いの手を握り合っていた。
言葉はいらなかった。
ただ、奏たちが作り出す奇跡の空間に、身を委ねていたかった。
そして、反対側の袖。
ベン・フォン・ホフマンは、壁に背中を預け、天井を見上げていた。
「……勝てるわけがないだろう、こんなもの」
彼の目から、悔し涙が流れた。
だが、その表情はどこか晴れやかだった。
自分の演奏が「叫び」だったなら、奏の演奏は「祈り」だ。
誰かに届いてほしい、誰かを救いたいという、純粋で強烈な祈り。
その美しさの前には、嫉妬も敵対心も、雪のように溶けていくしかなかった。
曲は終盤へ向かう。
ソフィアのピアノが、地響きのような重低音を響かせる。
大地の鼓動。
それに呼応して、奏のフルートが天へと駆け上がる。
接触テレパスの力が、無意識に発動していた。
会場にいる三千人の心が、一つの波長に同調していく。
敵も味方もない。
貴族も平民もない。
ただ音楽という光の下で、全ての魂が共鳴していた。
貴賓席のハインリヒ王子は、満足げに目を細めた。
隣のマリーは、両手を胸の前で組み、祈るように目を閉じていた。
その頬を伝う涙は、スポットライトを受けて宝石のように輝いている。
届いた。
先生の音が、私の鳥籠を壊してくれた。
ステージ上の奏は、今、完全に無になっていた。
自分という存在が消え、ただの「音の管」になっている感覚。
ソフィアの魂と溶け合い、会場の空気と一体化する。
最高に、楽しい。
終わってほしくない。
このまま永遠に、この音の中で踊っていたい。
だが、音楽には必ず終わりが来る。
だからこそ、美しいのだ。
ソフィアが渾身の力で最後の和音を叩きつける。
同時に、奏が全霊を込めた最高音を突き刺す。
閃光のような残響。
それが、ホールの隅々まで行き渡り、そしてふっと消えた。
完全な静寂。
指揮棒が下ろされるまでの数秒間のような、神聖な時間。
誰も動かない。
誰も咳払いをしない。
奇跡の余韻を、一滴たりともこぼしたくないと願うかのように。
奏がゆっくりとフルートを下ろし、肩の力を抜いた。
ソフィアが鍵盤から手を離し、額の汗を拭う。
二人は顔を見合わせ、満足げに微笑み合った。
その瞬間。
雷鳴のような音が、劇場を揺るがした。
拍手だ。
三千人の観衆が総立ちになり、割れんばかりの拍手を送っている。
「ブラボー!!」
「素晴らしい!」
「ありがとう!」
歓声、口笛、そして感極まった叫び声。
天井のシャンデリアが震えるほどの熱狂が、二人を包み込んだ。
奏は眩しそうに客席を見渡した。
みんなが笑っている。
みんなが泣いている。
ミアが、公爵が、ライラが、アメリが。
そして、貴賓席のマリーも、フードの下で精一杯の手を振ってくれているのが見えた。
届いたんだ。
僕たちの音楽が。
奏はソフィアの手を取り、ステージの前へと進み出た。
二人は深く、深く頭を下げた。
鳴り止まない拍手の雨。
それは、異世界に降り立った迷い子が、ようやく自分の居場所を見つけたことを祝福する、優しい雨のようだった。
審査員席では、あの厳格な審査員長でさえもが立ち上がり、涙を拭いながら拍手を送っていた。
ゲルマン伯爵だけが、青ざめた顔で力なく椅子に座り込んでいたが、その姿を気にする者はもう誰もいなかった。
新しい時代の幕開け。
『天の踊り子』は、ウェストリア王国の音楽史に、永遠に消えない光の爪痕を残したのだった。




