31話 ベンの演奏
王立大劇場のホールは、三千人の観衆の熱気で飽和していた。
天井からは巨大なクリスタルのシャンデリアが煌めき、ビロード張りの客席には、着飾った貴族や音楽愛好家たちがひしめき合っている。
そして、二階正面の貴賓席には、国王陛下とハインリヒ王子の姿もあった。
本選。
それは、この国の音楽家にとって最高峰の戦場であり、人生を変える分岐点だ。
舞台袖の薄暗がりの中で、ベン・フォン・ホフマンは震える指で黄金のフルートを握りしめていた。
彼の顔色は、金髪が霞んで見えるほどに青ざめていた。
「……ベン様、そろそろ出番です」
伴奏者のピアニストが声をかけるが、ベンは聞こえていないかのように一点を見つめていた。
彼の視線の先には、関係者席に座る叔父、ゲルマン伯爵の姿があった。
伯爵は扇子で口元を隠しているが、その目は笑っていない。
『失敗は許さん』。
その無言の圧力が、物理的な重圧となってベンの肩にのしかかっていた。
(負けられない。絶対に)
ベンは唇を噛んだ。
予選での失態。
楽器のすり替え工作の失敗。
全てが裏目に出ている。
もし今日、あの平民――音瀬奏に負けるようなことがあれば、伯爵は容赦なくベンを切り捨てるだろう。
そうなれば、没落貴族であるホフマン家は路頭に迷うことになる。
「……ふう」
ベンは大きく息を吐き、黄金のフルートを構え直した。
大丈夫だ。
僕には技術がある。誰よりも早く指を動かし、誰よりも正確に音符を刻む技術が。
最高の楽器と、最高の教育を受けた僕が、独学の平民ごときに負けるはずがない。
「参りましょう」
ベンは虚勢を張って顎を上げ、光の当たるステージへと歩み出した。
§
盛大な拍手の中、ベンがステージ中央に立つ。
彼は優雅に一礼し、合図を送った。
演奏曲目は、超絶技巧を要する難曲『嵐の協奏曲』。
本来はオーケストラと共に演奏するものだが、今回はピアノ伴奏版に編曲されている。
ピアノのイントロが激しく響き渡る。
それに続き、ベンのフルートが鋭く空気を切り裂いた。
速い。
冒頭から、目にも止まらぬ速さで音符の奔流が押し寄せる。
一音の乱れもない、完璧なタンギング。
機械仕掛けの人形のように正確な指運び。
観客席からは、どよめきにも似た感嘆の声が漏れた。
技術という点において、ベン・フォン・ホフマンは間違いなく一流だった。
だが。
(……音が、硬いな)
客席の最前列で聴いていたアメリは、眉をひそめた。
彼女の隣にいるライラも、腕を組んで厳しい表情をしている。
「上手いのは認めるが……なんだろうな、この息苦しさは」
「余裕がないのよ」
アメリが小声で解説する。
「技術を見せつけることに必死で、音楽を奏でていない。……まるで、誰かに『僕はここにいるぞ』って叫んでるみたい」
ステージ上のベンは、演奏しながら焦りを感じ始めていた。
(なぜだ……。完璧に吹いているはずなのに、客の反応が鈍い)
拍手や歓声はある。
だが、それは「凄い」という驚きであって、「感動」ではない。
空気が冷めている。
自分の音が、客席の壁に当たって虚しく跳ね返ってくるような感覚。
その時、ふと舞台袖に視線を走らせると、そこに音瀬奏の姿が見えた。
彼は次の出番を待ちながら、真剣な眼差しでベンの演奏を聴いていた。
その目。
憐れみでも、嘲りでもない。
ただ純粋に、一人の音楽家として相手を認めている目。
それが、ベンのプライドを逆撫でした。
(見るな……!)
ルミナス川での屈辱が蘇る。
みすぼらしい格好の平民。安物の黒い木の笛。
なのに、動物たちは彼を慕い、ミアもライラも彼を選んだ。
(なぜだ! 僕の方が、家柄も、楽器も、技術も上なのに!)
嫉妬。
焦燥。
恐怖。
ドロドロとした感情が、マグマのように腹の底から湧き上がってくる。
ベンの中で、何かが切れた。
(見てろ……! 僕の音を、聴けぇぇぇッ!!)
曲の中盤。
静かなカデンツァ(独奏部分)に入るはずの場面で、ベンは暴走した。
指定されたテンポを無視し、猛烈な勢いで加速し始めたのだ。
伴奏のピアニストが驚いて顔を上げるが、ベンはお構いなしに突っ走る。
譜面にはない装飾音符を叩き込み、高音域を金切り声のように張り上げる。
それは、音楽的な「解釈」を超えた、感情の爆発だった。
フルートが悲鳴を上げている。
息継ぎも荒く、顔を真っ赤にして、なりふり構わず吹き鳴らす。
「なっ……なんだあれは!?」
審査員席がざわめいた。
品位も形式もあったものではない。
クラシック音楽としては、完全に失格の演奏だ。
だが。
その「必死さ」は、逆説的に観客の胸を打っていた。
綺麗に整えられた、退屈な貴族の芸ではない。
泥臭く、無様で、けれど血の通った人間の叫び。
「……あいつ、泣いてるのか?」
ライラが呟いた。
ステージ上のベンは、汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも指を動かし続けていた。
叔父への恐怖。
認められない孤独。
そして、奏への強烈な劣等感。
それら全てを音に乗せて、叩きつけるように吹いている。
それは「暴走」だったが、同時に、彼が初めて自分の殻を破った瞬間でもあった。
奏は、袖からその姿をじっと見つめていた。
彼の目には、ベンの背中から立ち昇る、黒く激しいオーラが見えていた。
(苦しいんだね、ベン)
奏は胸元を握りしめた。
その音は痛々しい。
けれど、嘘がない。
虚勢で塗り固められた鎧を脱ぎ捨て、裸の魂でぶつかってきている。
クライマックス。
ベンは酸欠で倒れそうになりながら、最後のロングトーンを吹き切った。
黄金のフルートが、照明を浴びてギラリと光る。
ピアノの重厚な和音が鳴り響き、曲が終わった。
ベンは肩で息をしながら、ガクリと膝をつきそうになった。
視界が霞む。
指の感覚がない。
やってしまった。
完全にコントロールを失った。
こんな無様な演奏、酷評されるに決まっている。
終わりだ。
これで僕の人生は……。
絶望に目を閉じようとした、その時だった。
会場の一部から、割れんばかりの歓声が上がった。
それは満場一致の拍手ではなかった。
眉をひそめる者、呆れる者も多い。
だが、確かに一部の観客たちは、立ち上がって手を叩いていた。
「凄い気迫だったぞ!」
「なんだか分からんが、感動した!」
その声は、ベンの耳に届いた。
彼は驚いて顔を上げた。
叔父のいる貴賓席を見る。ゲルマン伯爵は顔を真っ赤にして激怒し、席を立とうとしていた。
だが、一般客席からは、温かい拍手が降り注いでいる。
技術ではなく、彼の「必死さ」に心を動かされた人々の拍手だ。
「……え?」
ベンは呆然と客席を見渡した。
こんな拍手は、初めてだった。
儀礼的なものでも、家柄への媚びでもない。
ただ、今の演奏に対して贈られた拍手。
胸の奥が、熱くなった。
ベンはおぼつかない足取りでステージ中央に進み、深く頭を下げた。
その目からは、悔しさと、そして安堵の入り混じった涙がこぼれ落ちていた。
舞台袖に戻ってきたベンは、抜け殻のようだった。
汗だくで、髪も乱れている。
そこで彼は、出番を待つ奏と鉢合わせた。
「……笑えばいいだろう」
ベンは掠れた声で言った。
「無様な演奏だった。感情に流され、テンポも狂った。……三流以下だ」
彼は自嘲気味に笑った。
だが、奏は真剣な表情で首を横に振った。
「ううん。凄かったよ、ベン」
「……は?」
「あんなに熱い音、初めて聴いた。……届いたよ、君の想い」
奏の言葉に、嘘やお世辞の色はなかった。
ベンは何か言い返そうとして、言葉を詰まらせた。
そして、フンと鼻を鳴らして顔を背けた。
「……勘違いするな。僕はまだ負けたわけじゃない」
彼は奏の横を通り過ぎざま、小さく呟いた。
「……次は、貴様の番だ。あんなデタラメな演奏の後だ、生半可な音じゃ客は満足しないぞ」
それは、彼なりのエールだったのかもしれない。
あるいは、ライバルへの最後の意地か。
「うん。行ってくる」
奏は力強く頷いた。
ベンが去り、奏とソフィアがステージ袖に残された。
会場のざわめきはまだ収まっていない。
ベンの「暴走」が作り出した、異様で熱っぽい空気。
これを鎮め、自分たちの世界に引き込むのは容易ではない。
「……やってくれたわね、あの馬鹿」
ソフィアが眼鏡の位置を直しながら、不敵に笑った。
「場を荒らすだけ荒らして退場なんて。……でも、おかげで私の闘争心に火がついたわ」
「僕もです」
奏は黒いフルートを握りしめた。
昨夜の迷いは、もう微塵もない。
マリーの手紙が、ライラたちの応援が、そして今のベンの叫びが、背中を押してくれている。
場内アナウンスが響く。
『続きまして、エントリーナンバー42番。フルート、オトセ・カナデ。ピアノ、ソフィア・ツー・ロイス』
一瞬の静寂。
そして、期待と好奇の入り混じった視線がステージに集中する。
「行きましょう、ソフィアさん」
「ええ。私たちの『革命』を、見せつけてやるのよ」
二人は顔を見合わせ、光の中へと歩み出した。
歴史に残る名演が、今、始まろうとしていた。




